春秋時代291 東周敬王(六十) 白公の乱(後) 前479年(3)

今回は東周敬王四十一年、白公の乱の続きからです。
 
[(続き)] 秋七月、白公が乱を起こしました。子西と子期を朝廷で殺し、恵王を捕まえます。
子西は死ぬ時に袖で顔を隠しました。葉公に会わせる顔が無いからです。
子期は「昔、私は勇力によって国君に仕えた。終わりもそうでなければならない」と言うと、豫章(樟木)を抜いて敵兵を殺してから死にました。
 
石乞が言いました「府庫を焼いて王を殺すべきです。そうしなければ成功しません。」
しかし白公はこう言いました「それはならない。王を殺すのは不祥だ。府庫を焼いたら蓄えがなくなってしまう。何によって守るというのだ。」
石乞が言いました「楚国を擁してその民を治め、恭敬な態度で神に仕えれば、吉祥を得ることができます。そもそも、蓄えは他にもあります。何を心配しているのですか?」
白公は聞き入れませんでした。
 
この時、葉公は蔡にいました。国都・郢の異変を聞いた方城外の人々が皆言いました「(国都に)入るべきです。」
葉公が言いました「危険を犯して幸を求める者(白公を指します)は、その欲求に際限がなく、(私欲のままに事を行って)偏重(不公平)を招くため人心が離れるという。」
暫くして白公が管脩を殺したと聞いてから郢に向かいました。管脩は斉管仲の子孫で、楚に遷っていました。楚では隠大夫に任命され、賢人として名が知られていました。葉公は白公が賢人を殺したと聞いたため、恐れる必要はないと判断して反撃を開始しました。
 
白公は子閭(王子・啓。平王の子。東周敬王三十一年・前489年参照)王に立てようとしましたが、子閭は辞退しました。白公は武器を使って脅迫します。
すると子閭が言いました「王孫(白公)が楚国を安定させて王室を正し、私を守るというのなら、それは啓(私)の願いです。従わないはずがありません。しかしもし利を専らにして王室を傾け、楚国を顧みることがないようなら、死んでも従えません。」
白公は子閭を殺し、恵王を高府(府庫の一つ)に入れました。石乞が門を守ります。
しかし圉公陽(大夫。『春秋左氏伝』では「圉公陽」。『史記・楚世家』では「従者・屈固」)が王宮の壁に穴をあけて中に入り、恵王を背負って昭夫人(昭王夫人。恵王の母。恐らく越女)の宮に運びました。
 
『春秋左氏伝』には記述がありませんが、『史記・楚世家』は白公が自ら王に立ったとしています。
 
葉公が郢に到着し、北門に至りました。葉公を見た人が言いました「あなたはなぜ冑(兜)をかぶらないのですか?国人は慈愛のある父母を望むようにあなたを望んでいます。盗賊の矢がもしあなたを傷つけたら、民の望みを絶つことになるでしょう。なぜ冑をかぶらないのですか?」
葉公は冑をかぶって進みました。すると別の人に会い、こう言われました「あなたはなぜ冑をかぶっているのですか?国人は豊作を望むように日々あなたを望んでいます。あなたの顔を見ることができたら安心するでしょう。民は(あなたを見たら)死ぬはずがないと信じ、奮戦する心を起こし、あなたの旌(旗)を立てて国中を駆け巡るはずです。顔を隠したら(冑をかぶったら顔の左右を隠すことになります)民の望みを絶ってしまうでしょう。」
葉公は冑を脱いで先に進み、人心を安定させて士気を高めました。
 
葉公が箴尹・固に会いました。箴尹・固は属衆を率いて白公に附こうとしています。
葉公が箴尹・固を説得して言いました「もし二子(子西と子期)がいなかったら、楚は国として成り立っていなかったでしょう。徳を棄てて賊に従い、安全を保てると思いますか?」
箴尹・固は葉公に従うことにしました。
 
葉公は箴尹・固と国人(恵王の徒)に白公を攻撃させました。
白公は敗戦して山に逃げ、自縊します。その徒(兵)が死体を隠しました。
石乞は捕えられました。葉公が白公の死体をどこに隠したか問いましたが、石乞は「私はその場所を知っているが、長者(白公)に言うなと命じられた」と答えました。
葉公が「言わなければ烹(煮殺し)にする」と言いましたが、石乞はこう答えました「今回の事は、勝てば卿になれたが、負けたら烹になると決まっていた。恐れることはない。」
石乞は煮殺されました。
白公・勝の弟・王孫燕は頯黄氏(頯黄。呉地に逃げました。
 
暫くの間、葉公・沈諸梁が令尹と司馬の政務を兼任しましたが、国が安定すると公孫寧(子国。子西の子)を令尹に、公孫寬(魯陽公。魯陽文子。平王の孫。子期の子)を司馬に任命し、告老(引退)して葉で過ごしました。公孫寧に関しては翌年再述します。
 
以上、『春秋左氏伝(哀公十六年)』を元にしました。白公の乱に関しては『国語』等にも記述があります。別の場所で紹介します。

[] 『国語・楚語下』に公孫寬(文子)に関する記述があります。
楚恵王が梁(楚北境の地)を文子に封じようとしましたが、文子は辞退して言いました「梁の地は険要でしかも国境にあるので、臣の子孫に二心を持つ者が現れるのではないかと畏れます。国君に従ったら恨みを持ってはならず、もし恨みを持ったら上を脅かすことになり、上を脅かしたら誅殺を恐れて二心を抱くようになります。志が満たされても上を脅かさず、恨みを持っても二心を持たないというのは、臣は保証できますが、子孫についてはわかりません。臣が首領(首)を保って没したとしても(天寿を全うできたとしても)、子孫が梁の険に頼って、臣の祭祀が途絶えるのではないかと恐れます(子孫が梁で謀反して族滅されるのではないかと恐れます)。」
恵王が言いました「子(汝)の仁は子孫を忘れることなく、その恩恵は楚国にも及んでいる。子孫が子に従わないはずがない。」
恵王は魯陽の地を文子に与えました。
 
[] 衛荘公が夢を占いました。
これ以前に荘公の嬖人(寵臣)が大叔僖子(太叔遺)に酒を要求しましたが、拒否されました。そこで寵臣は卜人と手を組み、荘公にこう告げさせました「国君の大臣が西南角(太叔遺が住む場所)にいます。彼を除かなければ、恐らく害になります。」
荘公は太叔遺を追放し、太叔遺は晋に奔りました。
 
[] 越が再び呉を攻撃しました。『国語・越語下』からです。
玄月(九月)、越王・句践が范蠡に問いました「こういう諺がある『贅沢な御馳走は質素な食事に及ばない(觥飯不及壺飧)。』今年ももう終わろうとしている。(汝)はどうするつもりだ?」
諺は、飢餓に苦しんでいる時は、豪華な御馳走ができるのを待つのではなく、質素で少量でも手に入った物を食べるべきだ、という意味で、「速く呉を攻める決断をするべきだ。余力を持つ必要はない」という句践の希望を述べています。
范蠡が言いました「君王の言がなくても、臣は出兵を請おうと思っていました。時に従うというのは、火事を収めたり、逃亡者を追いかけるのと同じだといいます。急いで駆けてもまだ間に合わないことを心配するものです。」
越王は賛同し、呉を討伐する兵を起こして五湖に至りました。
 
 
 
次回に続きます。