春秋時代292 東周敬王(六十一) 陳滅亡 前478年(1)

今回は東周敬王四十二年です。二回に分けます。
 
敬王四十二年
478年 癸亥
 
[] 衛荘公が渾良夫に問いました「わしは先君を継いだが、宝器がない(出公が出奔する時に運び出したからです)。どうすればいいだろう?」
渾良夫が燭を持つ者を去らせて自分で持ちました。燭というのは油皿に荊を束ねた紐を置いて火をつける照明用の道具です。大きい物は燎といい、直接地面に立てることができましたが、燭は小臣が部屋の隅に坐って持ち続けていました。渾良夫が自分で燭を持ったのは、人払いのためです。
渾良夫が言いました「疾(荘公の子。出公が出奔してから荘公の太子になりました)と亡君(公子・輒。出公。本来なら荘公の太子ですが、父と対立して出奔しています)はどちらも主公の子です。亡君を招いて能力がある者を(後継者に)選べばいいでしょう。亡君に能力がなければ宝器を得ることができます。」
まず出公を呼び戻し、公子・疾と出公のどちらに能力があるかを確認して後継者に立てればいいという意味です。出公が太子に選ばれなければ、国君になる資格がないので宝器を取り返すことができます。
 
これを聞いた豎(童僕)が太子・疾に伝えました。
太子・疾は五人の部下と豭(結盟の犠牲に使う豚)を自分に従わせ、荘公を捕まえました。自分に跡を継がせることを強制して盟を結び、更に渾良夫を殺すように要求します。
荘公が言いました「彼とは三回死罪を赦すと盟を結んだ。」
太子・疾が言いましたは「三回罪を犯した後、また罪を犯したら殺してください。」
荘公は「わかった(諾哉)」と言いました。
 
春、荘公が藉圃(園の名)に虎幄(虎の装飾をした小屋)を建てました。完成すると名声が知られた人物を集めて最初の食事をします。
太子・疾が渾良夫にも参加させました。
渾良夫は二頭の牡馬に牽かせた衷甸(車)に乗り、紫衣(恐らく当時、紫は国君の服の色)と狐裘(狐の皮で作った大衣)を着て藉圃に向かいました。
渾良夫は到着すると裘衣を脱ぎ、剣をはずさないで食事を始めました。
それを見とどけた太子・疾は渾良夫を引き出して三罪を数え、処刑しました。
三罪は「紫衣」「袒裘」「帯剣」です。但し、三罪までは死刑を免れることになっていたので、もう一つの罪が加えられたはず。一説では、渾良夫が乗っていた「衷甸」は卿の車なので、大夫の渾良夫は乗ってはならなかったといいます。
三罪のうち「袒裘」は少し分かりにくいです。「袒」は上半身の服を脱ぐという意味です。
当時の服装は肌の上に直接着る「明衣(下着)」、その上に着る「中衣」があり、冬はその上に「裘(皮服)」と「裼衣」を着て、最後に「朝服(正服)」を着ました。渾良夫が着ていた「紫衣」は「裼衣」に当たります。
本来、国君の前では「正服」を脱いで「裼衣」を見せることだけが許されていました。渾良夫は食事をして熱くなったため、「正服」を脱ぎます。すると紫の「裼衣」が現れました。紫の服を着ているだけでも礼を失しているのに、更に「裘」まで脱いで「中衣」を見せたため、極めて不敬なこととされました。
 
[] 三月、越王・句践が呉を攻撃しました。
呉王・夫差が笠沢に兵を出し、両軍は川を挟んで対峙します。
越王・句践は一部の兵を左右に分けて駐屯させました。夜になると左右の兵が戦鼓を叩き、喚声を挙げて進攻する姿勢を見せます。
呉軍も越の両軍に対応するため、兵を左右に分けました。
その間に越王・句践が三軍(左右に分けた兵と中軍)を率いて秘かに川を渡り、呉の中軍を目指しました。呉は左右に兵を分けていたため、中軍が手薄になっています。戦鼓が鳴り響いて越軍が突撃すると、呉軍は大混乱に陥って敗北しました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公十七年)』の記述です。『国語・越語上』には「呉を(笠沢)で破り、また没(地名)で破った」とありますが、『春秋左氏伝』には「没」という地名が出てこないようです。
呉越の戦いに関する『国語』と『史記』の記述は別の場所でまとめて紹介しています。
 
[] 晋の趙鞅(簡子)が衛に使者を送ってこう伝えました「衛君(荘公・蒯聵)が晋にいた時は、志父(趙鞅の別名)が主でした。貴君の太子が(朝聘のため晋に)来れば、志父は(寡君の譴責から)免れることができるでしょう。もしも来なかったら、寡君は志父がそうさせている(趙鞅が衛に入朝をさせないでいる)と譴責するはずです。」
しかし衛荘公は国内が安定していないことを理由に晋への朝聘を拒否しました。
一方、太子・疾は晋の使者の前で荘公の欠点を訴えました。
 
夏六月、趙鞅が衛を包囲しました。
衛荘公の夫人が斉女だったため、斉の国観(国書の子)と陳瓘(子玉)が衛を援けました。晋の致師の者(会戦の前に単車で敵陣に挑戦する勇士)が斉軍に捕えられます。
陳瓘が捕虜(勇士)に服を返し(囚人の服から元の服に換えさせたようです)、接見して言いました「国子が斉柄(斉国の政権)を掌握し、瓘(私)にこう命じた『晋師を避けてはならない。』誰が命を廃すことができるだろう。子(汝)を煩わせる必要はない(致師の必要はない。我々が自ら戦いに赴く)。」
陳瓘は捕虜を釈放しました。
 
趙鞅は帰還した勇士の報告を聞き、陳瓘との衝突を恐れてこう言いました「わしは衛の討伐は卜ったが、斉との戦いはまだ卜っていない。」
晋軍は撤兵しました。
 
[] 楚で白公が乱を起こした時、陳は自国に食糧や物資の蓄えがあったため、楚を侵しました。
しかし楚はすぐに乱を平定して国を安定させます。そこで楚恵王は陳を攻めて麦を奪うことにしました。
恵王が大師(太師)・子穀と葉公・子高(沈諸梁)に意見を求めると、子穀はこう言いました「右領・差車と左史・老はいずれも令尹(子西)と司馬(子期)を援けて陳討伐に参加してきました。任務を任せることができます。」
子高が言いました「将帥が賎(賎しい者。下の文を見ると、二人とも捕虜になったことがあるため、賎しい者とされたようです)なら、民()が怠慢となり、その命を聞かなくなる恐れがあります。」
子穀が言いました「観丁父も鄀国の捕虜になったことがありますが、武王(楚武王)が彼に軍を率いさせたおかげで、州と蓼を占領し、隨国と唐国を服従させ、大いに群蛮の地を開くことができました。彭仲爽も申国の捕虜になったことがありますが、文王(楚文王)が彼を令尹に命じたおかげで、申国と息国を滅ぼして県を置き、陳国と蔡国を朝見させ、封畛(封疆。国土)が汝水に至りました。任務を全うできるかどうかだけが重要です。賎かどうかは関係ありません。」
子高が言いました「天命を疑うことはできません。令尹(子西)は陳に対して怨みを持っていました(二年前に子西が呉を攻めた時、陳は呉を慰労しました。これが原因で子西は陳を憎んでいたようです)。もしも天が陳を亡ぼそうとしているのなら、令尹の子に天の保護が与えられるはずです。国君はなぜ彼を選ばないのですか?臣は右領と左史に二俘の賎(二人が捕虜になった賎しい過去)だけがあり、令徳(美徳)が無いことを畏れます観丁父と彭仲爽も捕虜になりましたが、美徳があったから成功したのです)。」
恵王が卜うと、武城尹(公孫朝。子西の子)が吉と出ました。
公孫朝が陳の麦を奪うために出征することになりました。
 
楚の出兵を知った陳は兵を出して抵抗しましたが、敗戦しました。
楚軍は陳を包囲します。
 
秋七月己卯(初八日)、楚の公孫朝が陳を滅ぼしました。陳の最後の国君は閔公(湣公)で、在位年数は二十四年です。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公十七年)』の記述です。
史記・十二諸侯年表』を見ると、陳の滅亡は陳閔公二十三年(前年)となっています。『周本紀』も周敬王四十一年(前年)、『鄭世家』も鄭声公二十二年(前年)としており、『楚世家』も楚恵王十年、白公の乱が起きた年(前年)に陳を滅ぼしたと書いています。
『陳杞世家』では陳湣公二十四年(本年)ですが、同年に孔子が死んだとしているので孔子が死んだのは前年です)、誤りがあります。
このように『史記』はおおむね前年に滅んだという説を採っています。
尚、『陳杞世家』によると陳湣公は楚に殺されたようです。
 
 
 
次回に続きます。