第二十三回 衛懿公が国を亡ぼし、斉桓公が楚を伐つ(前編)

第二十三回 衛懿公が鶴を好んで国を亡ぼし、斉桓公が兵を興して楚を伐つ
(第二十三回 衛懿公好鶴亡国 斉桓公興兵伐楚)
 
*今回は『東周列国志』第二十三回前編です。
 
衛懿公は恵公の子で、周恵王九年に即位しました。在位して九年間、遊楽に耽り、怠惰驕慢で国政に顧みませんでした。
懿公は特に鶴を愛しました(鶴の説明および『相鶴経』省略)。色形が清らかで、美しく鳴き、優雅に舞うことができるからです。俗諺にこうあります「上にいる人が愛さなければ、下にいる人も必要としない(「上人不好,下人不要」。上にいる者が好む物を下にいる者も必要とする)。」
懿公が鶴を寵愛したため、鶴を献上した者は重賞を与えられました。弋人(鳥を狩りする者)が百方に網を張り、皆が進んで鶴を献上します。苑囿から宮廷に至るまで、数百を数える鶴が埋め尽しました。
懿公が飼っていた鶴には全て品位・俸禄がありました。上等な鶴には大夫の俸禄が、次等の鶴には士の俸禄が与えられます。懿公が外遊する時には、鶴をいくつかの班に分けて大軒(貴族の車)の前に乗せ、「鶴将軍」と号して従わせました。鶴を養う者にも常俸(固定した俸禄)が与えられます。これらの費用は民に対する重税でまかなわれました。鶴の食糧を満足させるために民が飢凍に苦しみましたが、懿公はそれを顧みることがありませんでした。
 
大夫・石祁子は石碏の後代で、石駘仲の子です。忠直で名が知られており、寧荘子(名は速)と共に国政を行っていました。
二人とも賢臣だったので頻繁に懿公を諫めましたが、懿公は聞く耳を持ちませんでした。
公子・燬は恵公の庶兄で、公子・碩が宣姜と関係を結んでできた子です。後に即位して文公とよばれます。公子・燬はこのままでは衛が滅びると判断して斉を頼りました。斉桓公は公子・燬に宗女を嫁がせて斉国内に留めます。
衛人は以前殺された太子・急子を憐れんでいたため、恵公が復位してから日夜咒詛してこう言いました「もし天道に知覚があるのなら(天が物事を知ることができるのなら)、その禄位(俸禄と爵位。ここでは国君の地位)を全うできないはずだ。」
急子と寿には子がなく、公子・碩は早死し、黔牟も既に滅ぼされました。公子・燬だけが賢徳の人物として生き残っていたため、人心が秘かに帰附します。ところが懿公の失政のために公子・燬も出奔してしまったため、衛人は懿公を怨みました。
 
北狄の紹介をします。
周太王の時代、獯鬻が強盛になり、太王に迫って岐に遷都させました。武王が天下を統一してからは周公が南の荊舒と北の戎狄を討伐したので、中国は久しく安泰の世になりました。しかし平王が東遷すると、南蛮北狄が入り乱れて各地を横行するようになりました。
北狄の主は瞍瞞といい、数万の兵を擁しています。かねてから中原に進出する野心を抱いていました。
斉が山戎を討伐したと聞いた瞍瞞は怒って「斉兵が遠くまで討伐したのは我々を軽視しているからだ。先に動いて制してやろう」と言うと、胡騎二万を動員して邢国を攻撃しました。邢国は蹂躙されて廃墟と化します。
瞍瞞は斉が邢を援けようとしていると知り、兵を衛に移しました。
この時、衛懿公は鶴を車に乗せて外遊しようとしていました。
間諜が「狄人が入寇して来ました!」と報告すると、懿公は驚愕し、城を守るために兵を集めて武器を配るように命じます。ところが百姓は村野に逃走し、守備兵になろうとしません。懿公が司徒を派遣して民を逮捕させると、ようやく百余人が連れて来られます。懿公が逃避の理由を問いました。すると人々はこう言いました「国君がある物を用いれば狄を防ぐことができます。なぜ我々を使うのですか?」
懿公が「それは何だ?」と問うと、人々は「鶴です」と答えました。
懿公が問いました「鶴がなぜ狄を防げるのだ?」
人々が答えました「鶴が戦えないのだとしたら、それは無用の物です。国君は有用の物を棄てて無用の物を養ってきました。だから百姓が服さないのです。」
懿公が言いました「寡人は自分の罪を知った。鶴を放って民を従わせたいが如何だ?」
石祁子が言いました「主公は早くそうするべきです。すぐ実行したとしても、まだ遅いくらいです。」
懿公は全ての鶴を放ちました。しかし人に養われていた鶴は宮殿の上を旋回するだけで、遠くに去ろうとはしませんでした。
 
石祁子と寧速の二大夫が街市に行き、衛侯が過ちを悔いていることを国人に伝えました。やっと少しずつ兵が集まります。
狄兵は既に滎沢まで来ており、わずかな期間に三回も危急を告げる報告が入りました。
石祁子が上奏しました「狄兵は驍勇なので軽々しく敵対できません。臣が斉に救援を求めに行きます。」
懿公が言いました「斉はかつて命を奉じて我が国に討伐に来た。あの時は兵を退いたが、その後、我が国は聘謝を修めなかったから(謝罪して講和しなかったから)、援けに来るとは思えない。一戦して存亡を決しよう。」
寧速が言いました「臣が師を率いて狄を防ぎます。主公はここを守ってください。」
懿公が言いました「孤が自ら行かなければ、人々は尽力しないだろう。」
懿公は石祁子に玉玦を渡して国政を代理させ、「卿はこの玦のように決断せよ」と命じました。また、寧速に矢を与えて防御に専念させました。
懿公が言いました「国中の事は全て二卿に委ねる。寡人は狄に勝たなければ帰ることはない。」
二大夫は涙を流して別れを惜しみます。
懿公は命を言い終わると、車徒(車兵と歩兵)を集結させ、大夫・渠孔を将軍に、于伯を副将に、黄夷を先鋒に、孔嬰斉を後隊に任じて出発しました。
しかし士卒は道中、不満を口にします。夜、懿公が士卒の様子を探ると、こういう歌が聞こえてきました「鶴が禄を得て、民が農耕に力を尽くす。鶴が軒(車)に乗り、民が武器を操る。狄の勢いには敵わない。戦って九死に一生を得ることを願う。鶴は今どこにいる。我々は恐々としてここを進む(鶴食禄,民力耕。鶴乗軒,民操兵。狄鋒厲兮不可攖,欲戦兮九死而一生。鶴今何在兮而我瞿瞿為此行)。」
懿公は歌を聞いて憂鬱になりました。
 
大夫・渠孔が軍法を厳しくしたため、ますます人心が離れていきました。
滎沢の近くで千余の敵軍を見つけます。狄の兵達は左右に奔走し、隊列の秩序を失っていました。
渠孔が言いました「人は狄の勇を語るが虚名に過ぎない!」
渠孔が戦鼓を叩いて前進を命じました。
狄人は破れたふりをして衛軍を埋伏した場所に誘い込みました。狄兵が一斉に天地が崩れるような喚声を挙げて襲いかかります。衛軍は三つに分断され、それぞれの連絡がとれなくなりました。もともと衛兵には戦意がなかったため、凶猛な敵の勢いを見ると車仗(車や武器)を棄てて逃走します。
懿公は狄兵による数重の包囲を受けました。渠孔が言いました「事は急を要します。大旆(大旗)を降ろし、微服(庶人の服)に着替えて車を降りれば、危機を脱することができるかもしれません。」
懿公が嘆息して言いました「二三子(彼等。諸大夫、諸将兵が援けに来るとしたら旆を目印にするはずだ。それができないのなら(誰も援けに来ないのなら)、旆を降ろしても無益だ(旆を立てていても誰も援けに来ないのなら、降ろしたところで助からない)。孤はここで死んで百姓に謝罪したい。」
やがて衛の前後の隊が完全に敗北しました。黄夷は戦死し、孔嬰斉は自刎します。
狄軍の包囲はますます厚くなりました。于伯は矢に中って車から落ち、懿公と渠孔は前後して殺され、狄人によって斬り刻まれます。全軍が覆滅しました。
 
狄人は衛の太史・華龍滑と礼孔を捕えて殺そうとしました。二人は胡(異民族)には鬼神を信じる風習があると知っていたため、こう言いました「我々は太史として国の祭祀を掌ってきた。我々が先に還って汝等のために神に報告しよう。そうでなければ、鬼神は汝等に佑(福)を与えず、国を得ることもできない。」
瞍瞞は信じて二人を釈放し、車に乗せて帰らせました。
 
この時、寧速が戎服(軍服)を着て城を巡視していました。遠くから単車が駆けて来ます。車上の人が二太史だと知り、驚いて問いました「主公はどこですか?」
二人が答えました「既に全軍が覆滅しました。狄師は強盛なので、坐して滅亡を待つべきではありません。とりあえず敵の鋭鋒を避けるべきです。」
寧速が門を開いて城内に入れようとすると、礼孔は「国君と共に国を出たのに、国君と共に国に入らないようでは、人臣の義とはいえない。私は地下で我が君にお仕えする」と言い、剣を抜いて自刎しました。
華龍滑は「史氏(太史)の籍(書籍)を失うわけにはいかない」と言って城に入りました。
 
寧速は石祁子と相談し、衛侯の宮眷(妃妾・宮人)や公子・申を連れて城を出ました。夜に乗じて小車で城東に走ります。華龍滑も典籍を抱えて従いました。
国人は二大夫が既に逃走したと知り、手をとりあい援けあって後を追いました。人々の哭声が天を震わせます。
狄兵は勝ちに乗じて長駆し、衛城に直進しました。落後した百姓はことごとく殺されました。
狄は更に兵を分けて逃げた衛人を追撃します。
石祁子が宮眷を守って先に進み、寧速が後を絶ちました。戦いながら逃走しましたが、従った民の半数が狄兵に殺されます。
黄河に至った時、幸いにも宋桓公が援軍を率いて迎え入れました。既に船が用意されていたため、夜の間に河を渡ります。
狄兵はやっと引き上げました。
狄兵のために衛都の府庫は空になり、民が蓄えていた金粟(金属や食糧)の類が全て奪われます。狄兵は城郭(城壁)を破壊し、戦利品を車に満載して還りました。
 
衛の大夫・弘演は聘問のため陳を訪れていました。使者の任務を終えて帰国すると、衛国が既に壊滅しています。
弘演は衛侯が滎沢で死んだと聞き、死体を探しに行きました。道中に骸骨が晒され、血肉が飛び散っていたため、心を深く痛めました。暫く進むと大旆が荒沢の傍に落ちているのを見つけました。弘演が言いました「旆がここにあるということは、屍は遠くないはずだ。」
数歩進んだ時、呻吟の声が聞こえてきました。近づいて見ると一人の小内侍が臂(腕)を折って臥せています。弘演が問いました「汝は主公がどこで死んだか知っているか?」
内侍が一塊の血肉を指さして言いました「あれが主公の屍です。私は自分の目で主公が殺されるのを見ました。しかし臂の傷が痛いため動くことができず、ここに臥して屍を守り、国人が来たら教えるために待っていました。」
弘演が死体を見ると、全く跡形を留めず、肝だけが元の姿のまま残っていました。弘演は死体に向かって再拝してから大哭し、肝の前で使者の任務を終えたことを報告します。国君が生きている時と同じ礼を用いました。
報告が終わってから弘演が言いました「主公を埋葬する者がいないから、私が自分の身をもって棺になろう。」
弘演が従人に命じました「私が死んだら私を林に埋め、新君が即位するのを待って報告せよ。」
弘演は佩刀を抜くと自分の腹を割き、手で懿公の肝を持って自分の腹に納めました。暫くして息が絶えます。
従者は指示に従って林に死体を埋めてから、車に小内侍を乗せて黄河を渡り、新君の消息を伺いました。
 
 
 
*『東周列国志』第二十三回中編に続きます。