第二十三回 衛懿公が国を亡ぼし、斉桓公が楚を伐つ(中編)

*今回は『東周列国志』第二十三回中編です。
 
石祁子が先に公子・申を抱えて舟に乗りました。寧速が遺民を集めて後に続きます。
漕邑に到着した時、男女の数を確認すると、わずか七百二十人しかいませんでした。あまりにも多くの衛人が狄人によって殺戮されたのです。
二大夫が相談して言いました「国には一日も国君がいないわけにはいかない。しかし遺民が少なすぎる。」
そこで共・滕の二邑から十分の三の民を選び、四千余人を集めました。遺民と併せて五千人になります。
その後、漕邑に廬舍(家)を立てて公子・申を国君に立てました。これを戴公といいます。
 
桓公・御説と許桓公・新臣がそれぞれ人を送って戴公を訪問し、弔問・慰労を行いました。
しかし即位したばかりの戴公は以前から病疾があったため、数日で死んでしまいます。
寧速が公子・燬を迎え入れるために斉に入りました。
 
話を聞いた斉桓公が言いました「公子が敝邑から衛に帰って宗廟を守ることになった。器用(祭祀で用いる器具)が充分でなかったら寡人の罪だ。」
桓公は公子・燬のために良馬一乗(四頭)、祭服五称(称は衣服の量詞)、牛・羊・豕(豚)・鶏・狗各三百を準備しました。また、魚軒(魚の皮で装飾した車)と美錦三十端を公子・燬の夫人に贈ります。
公子・無虧に命じて車三百乗で公子・燬を送らせ、更に門材(門を絶てるための木材)も提供しました。
 
公子・燬が漕邑に到着すると、弘演の従人が臂を折った小内侍と一緒に謁見し、肝を納めた事を報告しました。公子・燬は具棺を滎沢に送って死体を回収し、同時に懿公と戴公の喪を発しました。また、弘演を追封してその子を登用し、弘演の忠を天下に示しました。
諸侯は斉桓公の義を重んじて次々に弔賻(弔問して葬儀の礼物を贈ること)しました。周恵王十八年冬十二月の事です。
 
翌年春正月、衛侯・燬が正式に即位して改元しました。これを文公といいます。しかし車は三十乗しかなく、民間に起居しており、周りも荒涼としています。
文公は麻布の衣服と帛の冠を身に着け、野菜で作った粗末な食事を採り、朝早く起きて夜遅くまで百姓を按撫することに努めたため、人々から賢人として称賛されました。
斉の公子・無虧は別れを告げて帰国しましたが、甲士三千人を留めて漕邑を守らせました。
 
斉国に戻った無虧が桓公に衛燬(文公)の草創の状(復国の様子)や弘演の納肝の事を報告すると、桓公は嘆息してこう言いました「無道の君にもそのような忠臣がいたのか。その国はまだ除かれていない(衛国の命運は尽きていない)。」
管仲が進言しました「戍兵を置いて民の労とするよりも、地を選んで城を築き、一労によって永逸を求めるべきです。」
桓公は同意して衛に築城するために諸侯を集めようとしました。するとそこに邢国の使者が到着してこう報告しました「狄兵がまた本国に現れました。その勢いを止めることができません。伏して救援を求めます!」
桓公管仲に問いました「邢を救うべきか?」
管仲が答えました「諸侯が斉に仕えているのは、斉が災患から諸侯を守ることができるからです。衛を救うことができず、更に邢も救わなかったら、霸業は失墜します。」
桓公が問いました「それでは、邢と衛のどちらを優先するべきだ?」
管仲が答えました「邢の患を平定してから衛に城を築けば、百世の功と成ります。」
桓公は「善し」と言うと、宋、魯、曹、邾の各国に檄文を飛ばし、兵を集めて邢を援けることにしました。聶北での集結が約束されます。
 
宋と曹の二国が先に到着しました。
しかし管仲桓公にこう言いました「狄寇には勢いがあり、邢の力もまだ尽きていません。敵に勢いがあればこちらの労力は倍になります。助ける対象(邢国)の力が尽きていなければ、我々の功績が小さくなります。暫く待機して邢が狄を支えられなくなるのを待つべきです。力尽きた邢は壊滅し、邢に勝った狄は疲労します。疲労した狄を駆逐して壊滅した邢を恢復させれば、労力を省いて大きな功を立てることができます。」
桓公管仲の進言に同意し、魯・邾の兵を待つという理由で聶北に駐軍しました。間諜が邢と狄の攻守の消息を探ります。
管仲が速く邢と衛を救わず、霸者が乱を養って功を成したことは、後の史家の批難を招きました。
 
三国が聶北に駐軍して約二カ月が経ちました。
狄兵が昼夜休まず邢を攻め、ついに力尽きた邢人が包囲を突破して脱出しました。間諜の報告が入った時、邢国の男女が次々に斉の陣営に投じて援けを求めました。
その中の一人が地に倒れて慟哭しました。邢侯・叔顔です。桓公が抱き起こして言いました「寡人の援軍が遅かったためにこうなってしまった。罪は寡人にある。宋公、曹伯と共議して狄人を駆逐しよう。」
即日、営寨がたたまれて全軍が動き始めます。
 
その頃、狄主・瞍瞞は既に略奪に満足していたため、これ以上戦うつもりはありませんでした。三国の大軍が来たと聞くと、邢に火を放ち、飛ぶように北に去りました。
各国の兵は一面の火光を見ただけで、狄人の姿は既にありませんでした。
桓公は火を消すように命じてから叔顔に問いました「故城はまだ住めるか?」
叔顔が言いました「百姓で難から逃れた者は大半が夷儀の地にいます。夷儀に遷って民の希望に従いたいと思います。」
そこで桓公は三国に版築(築城の道具)を準備させ、夷儀城を築きました。叔顔がそこに遷ります。また、桓公は改めて朝廟(朝廷と宗廟)を建造し、廬舍(家)を増やし、牛・馬・粟・帛等の物資を斉国から運んで邢国を充たしました。邢国の君臣は故国に還ったように歓び、祝福の声が絶えませんでした。
 
邢国の復国が終わると宋と曹が別れを告げて帰国しようとしました。しかし桓公がこう言いました「衛国がまだ安定していない。邢に城を築いたのに衛に築かないようでは、衛は我々を何と言うだろう。」
諸侯は「霸君の命に従います」と応えました。
桓公が命令を発して兵を衛に遷しました。畚鍤(土木工事の道具)の類を全て持ち運びます。
衛文公・燬が遠くまで出迎えました。桓公は衛文公が大布(麻布)を衣服とし、大帛を冠とし、喪服に改めることもできないのを見て、憐れに思ってこう言いました「寡人は諸君の力を借りて貴君のために都を定めようと思う。しかし吉とする地が見つからない。」
文公・燬が言いました「孤は既に吉地を卜い、楚邱が吉と出ました。しかし版築の費がなく、亡国には復興を実現できません。」
桓公が言いました「それは寡人の力に任せよ。」
即日、三国の兵に命じて楚邱に築城させました。新たに門材を運び、朝廟を再建します。これを「封衛(衛国を建てること。改めて文公を衛に封じること)」といいます。
衛文公は斉による再建の恩を感謝して『木瓜』という詩を作りました(『木瓜』は『詩経・衛風』に収録されています。翻訳と解説は省略します)
 
こうして桓公は三つの亡国を復活させたと称賛されるようになりました。僖公を立てて魯を存続させ、夷儀に築城して邢を存続させ、楚邱に築城して衛を存続させたことを指します。この三大功労によって、斉桓公は五霸の首(筆頭)に数えられています。
 
 
この頃、楚成王・熊惲は令尹・子文を用いて政治を正し、国政を修明していました。志は霸を争うことにあります。斉侯が邢を救って衛を存続させたという称賛の声が荊襄(楚都・郢)に届くと、楚成王は不快になり、子文に言いました「斉侯は徳を布いて名声を買い、人心を帰順させている。寡人は漢東漢水東)に潜んでおり、その徳は人を懐かせることができず、その威は衆を恐れさせることができない。今の世は、斉は存在するが楚は存在しないようなものだ。寡人はこれを恥と思う。」
子文が言いました「斉侯は伯業(覇業)を経営して既に三十年が経ち、尊王を名分としているので諸侯が喜んで帰順しています。今は敵対できません。鄭は南北の間にあり、中原の屏蔽です。王が中原を欲するのなら、まず鄭を得るべきです。」
成王が問いました「鄭討伐を任せられる者はいるか?」
大夫・鬥章が出征を買って出たので、成王は車二百乗を与えて鄭に長駆させました。
 
鄭は以前、純門を攻撃されてから、日夜、楚兵を警戒していました。楚国が兵を興したと聞き、鄭伯は驚いて大夫・聃伯に純門を守らせました。同時に使者を斉に急行させます。
斉侯は檄文を発して諸侯を檉に集め、鄭救援の策を練りました。
鬥章は鄭に備えがあり、斉にも救援の動きがあると知り、敗戦を恐れて国境から引き返しました。
すると楚成王が激怒しました。成王は自分の佩剣を解いて鬥廉に渡し、軍中で鬥章の首を斬るように命じます。
鬥廉は鬥章の兄です。鬥章の陣に入った鬥廉は楚王の命を実行せず、鬥章と相談しました「国法から逃れるには功を立てて贖わなければならない。」
鬥章が跪いて教えを請いました。
鬥廉が言いました「鄭は我が軍が退いたと知り、再び来るとは思ってもいないはずだ。もし急行して襲えば志を得ることができる。」
鬥章は軍を二隊に分け、自ら前隊を率いて先に進みました。鬥廉が後隊を率いて続きます。
 
鬥章は兵馬に枚(兵馬が声を出さないようにするため、口に咬ませる板)を咬ませ、戦鼓をしまい、物音を立てずに鄭の国境に進入しました。ちょうど国境では聃伯が車馬の準備をしています。寇兵が迫っていると知った聃伯は、それがどこの国の兵か分からず、慌てて兵をまとめて国境で迎撃しました。しかし鬥廉の後隊が到着して鄭軍の後ろに回り込みます。前後から挟撃された聃伯は力尽き、鬥章の鉄簡(簡は鞭のような武器)に一撃されて倒れました。聃伯の両手が縛られます。
鬥廉が勝ちに乗じて殺到し、鄭は大半の兵を失いました。
 
鬥章が聃伯を囚車に乗せて鄭に進軍しようとしましたが、鬥廉が言いました「今回既に奇襲が成功した。とりあえず死罪から免れることを考えよう。僥幸(幸運)に頼って事を行うべきではない。」
楚軍は即日引き上げました。
 
帰国した鬥章は楚成王に会うと叩首謝罪し、「臣が軍を還したのは誘敵の計です。戦いを恐れたのではありません」と言いました。
しかし成王はこう言いました「敵将を捕える功を挙げたから、とりあえず罪は赦そう。しかし鄭国はまだ服していない。なぜ撤兵したのだ。」
鬥廉が言いました「兵が少ないので、失敗して国威を損なうことを心配しました。」
成王が怒って言いました「汝は兵が少ないことを口実にしているが、敵を恐れているのは明らかだ。更に兵車二百乗を与えよう。汝は再び出征せよ。鄭が和を請わなかったら、寡人の顔を再び見ることができると思うな!」
鬥廉が言いました「兄弟共に行かせてください。もし鄭が投降しなかったら、鄭伯を縛って連れて来ましょう。」
成王は鬥廉の壮言を褒めて同意しました。鬥廉が大将に、鬥章が副将になり、車四百乗が再び鄭国を目指します。
 
 
 
*『東周列国志』第二十三回後編に続きます。