第二十三回 衛懿公が国を亡ぼし、斉桓公が楚を伐つ(後編)

*今回は『東周列国志』第二十三回後編です。
 
鄭伯は聃伯が捕えられたと聞いて、再び斉に人を派遣して援軍を請いました。
管仲が斉桓公に進言しました「主公はここ数年で燕を救い、魯を存続させ、邢に築城し、衛を封じました。恩徳が百姓に加えられ、大義が諸侯に布かれています。諸侯の兵を用いたいと思うのなら、まさに今です。もし主公が鄭を救いたいなら楚を攻めるべきです。楚を攻めるには諸侯を糾合する必要があります。」
桓公が問いました「諸侯を集めたら楚は必ず備えをする。それで勝てるか?」
管仲が言いました「蔡人は主公の罪を得ており、主公は以前から討伐しようと思っていました。楚と蔡は隣接しているので、蔡討伐の名目で兵を出して楚を急襲すれば、楚には備えをする余裕がありません。これが『兵法』にある『敵の不意を撃つ(出其不意)』というものです。」
 
以前、蔡穆公が妹を桓公に嫁がせて第三夫人にしました。
ある日、桓公と蔡姫が一緒に小舟に乗って池で遊び、蓮を採って楽しみました。
蔡姫が戯れて桓公に水をかけました。桓公が止めるように命じましたが、蔡姫は桓公が水を怖がっていると知って、わざと舟を揺らしました。桓公の衣服に水がかかります。桓公が激怒して言いました「婢子()は国君につかえることができない!」
桓公は豎貂に命じて蔡姫を送り帰らせます。
すると蔡穆公も怒って言いました「既に嫁がせたのにそれを帰らせるとは、絶縁したのと同じだ。」
穆公は妹を楚国に嫁がせました。楚成王夫人になります。それを知って桓公は深く蔡侯を憎みました。管仲が話したのはこの事です。
 
桓公が言いました「江と黄の二国は楚の暴虐に堪えられず、我が国に使者を送って納款(帰順)を伝えた。寡人は彼等と会盟し、楚討伐の時には内応としたいが如何だ?」
管仲が言いました「江・黄は斉から遠く楚に近いので、今までずっと楚に服してきました。だからなんとか存続できたのです。今、楚に背いて斉に従ったら、楚人が必ず怒って討伐します。その時に我々が助けようとしても、遥か遠い道のりに邪魔されることになります。しかしもし助けなかったら、同盟の義を裏切ることになります。そもそも、今までも中国(中原)の諸侯が五合六聚してことごとく功を成してきました。なぜ蕞爾(小国)の助けが必要なのですか?好言を使って婉曲に拒絶するべきです。」
桓公が言いました「遠国が義に慕ってきたのだ。それを拒否したら人心を失うだろう。」
管仲が言いました「主公は私の言を記憶に留め(原文「識吾言于壁」。「壁」は「一方」の意味)、後日、江・黄の急を忘れないようにしてください。」
 
桓公は江・黄の二君と会盟し、楚討伐の密約を結びました。期日は翌年春正月に定められます。
二君が言いました「舒人が楚を助けて暴虐を行っているので、天下は『荊舒』と併称しています。討伐しなければなりません。」
桓公が言いました「寡人は先に舒国をとって楚の翼を斬り落そう。」
そこで密書を書いて徐子に送りました。徐は舒に近く、徐嬴は斉桓公の第二夫人だったため、斉に帰順していました。桓公が密書を送って舒の事を託したのはそのためです。
徐は兵を率いて舒国を急襲し、国を奪いました。
桓公は徐子を舒城に駐軍させて緊急事態に備えました。江・黄の二君も自国の国境を守って出撃の準備をします。
 
魯僖公が季友を派遣し、斉に謝罪してこう伝えました「邾・莒との対立があったため、邢・衛の役に協力できませんでした。今、江・黄と会盟したと聞き、賛同を示すために訪れました。今後、征伐の事がある場合は、鞭を持って前駆になることを望みます。」
喜んだ桓公は魯にも楚討伐の計画を話し、密約を結びました。
 
鄭国では、楚兵が再び攻めてきたため、鄭文公が楚に和を求めて民の禍を減らそうとしました。しかし大夫・孔叔が言いました「いけません。斉が楚と事を起こそうとしているのは我が国のためです。人が我々に徳(恩恵)をもたらそうとしているのに、我々がそれを棄てるのは不祥です。城壁を固めて待機するべきです。」
そこで再び斉に使者を送って急を告げました。
桓公は鄭の使者に計を与えました。まず、斉の援軍が鄭に向かっているという情報を流して楚の動きを牽制させます。前もって決めた期日が来たら、鄭の国君か臣下が一軍を率いて虎牢から出陣し、上蔡で諸侯と合流して共に楚を攻めるという内容です。
桓公は宋、魯、陳、衛、曹、許の国君と出兵の日を決めました。名分は蔡討伐ですが、本当の目的は楚にあります。
 
翌年は周恵王十三年です。春正月元旦、斉桓公は朝賀が終わると蔡討伐について討議しました。管仲が大将に任命され、隰朋、賓須無、鮑叔牙、公子・開方、豎人・貂等がその指揮下に入ります。車三百乗、甲士一万人が隊を分けて出征することになりました。
太史が「七日の出軍は上吉です」と進言しました。
豎貂が先に一軍を率いて蔡を奇襲し、各国の車馬と合流することを請います。桓公は同意しました。
 
蔡人は楚に頼っていたため全く備えをしていません。斉軍が接近した時、やっと兵を集めて守りを設けました。
豎貂は城下で武威を示し、攻城の命令を下しました。夜になってやっと兵を退きます。
蔡穆公は斉軍の将が豎貂だと知りました。豎貂はかつて斉の後宮で蔡姫に仕えて恩恵を受けていたのに、蔡姫が返された時には豎貂が送ってきました。宵小の輩(小人)です。そこで夜が深くなった頃、穆公は秘かに車一輌分の金帛を贈り、攻撃を緩めるように請いました。豎貂はこれを受け入れると、斉侯が七路の諸侯を糾合したこと、まず蔡を侵してから楚を討伐するつもりであること等、全ての軍機を細かく蔡に教えてこう言いました「数日も経たずに各国の軍が集結し、蔡城は蹂躙されて平地になるだろう。早く逃げた方がいい。」
使者が帰って報告すると、蔡侯は大いに驚き、その夜のうちに宮眷を率いて楚に出奔しました。百姓は国主がいなくなったためあっという間に潰散します。豎貂はこれを自分の功績とし、急いで使者を送って斉侯に報告しました。
 
蔡侯は楚に入って成王に会うと豎貂の話を伝えました。成王は斉の謀を知り、兵車を整えて斉に備えさせ、同時に鄭を攻撃している鬥章に撤兵を命じました。
 
数日後、斉侯の兵が上蔡に至りました。豎貂が謁見を済ませます。
七路の諸侯が続々と集まりました。それぞれ自ら車徒を率いて参戦し、軍威を壮観にします。
七路というのは、宋桓公・御説、魯僖公・申、陳宣公・杵臼、衛文公・燬、鄭文公・捷、曹昭公・班、許穆公・新臣です。主伯(覇者)である斉桓公・小白を合わせたら八人になります。
このうち、許穆公は病を抱えながらも軍を率いて最初に蔡地に到着しました。桓公はその労を嘉して序列を曹伯の上にしました。しかしその夜、許穆公は死んでしまいました。
斉侯は蔡に三日間駐留して喪を発し、許国に侯爵の礼で葬儀を行うことを許しました(許は男爵の国です)
 
七国の兵は南に向かって進み、楚の国境に至りました。すると衣冠を正した一人の男が車を道の左に止めて大軍の到着を待っていました。男は腰を屈めて一礼すると、こう言いました「そこに来たのは斉侯か?楚国の使臣がここで待って久しくなると伝えよ。」
男は姓を屈、名を完といい、楚の公族で官位は大夫です。楚王の命を受けて行人(外交官)となり、斉軍を出迎えました。
桓公が言いました「楚人はなぜ我が軍が来ることを預知できたのだ?」
管仲が言いました「誰かが消息を漏洩したのです。使者を送ってきたからには言うことがあるのでしょう。臣が大義によって譴責し、愧屈(慙愧して屈服すること)させましょう。そうすれば戦わずに降すことができます。」
管仲も車に乗って前に進み、屈完に向かって車上で拱手しました。
屈完が言いました「寡君は上国の車徒がわざわざ敝邑に来たと聞き、下臣・完に命(言葉)を伝えさせた。寡君が使臣()に命じた伝言の内容はこうだ『斉と楚はそれぞれの国に君臨している。斉は北海に住み、楚は南海に近い。互いに馬牛を失っても至ることがないほど離れているのに(「風馬牛不相及」。「風」は「失う」の意味)、貴君がわざわざ我が地に足を運んだのはなぜだ?』敢えてこの理由を問おう。」
管仲が言いました「昔、周成王が我が先君・太公を斉に封じ、召康公に王命を伝えさせた。その命とはこうだ『五侯九伯に対し、汝(太公)が代々征伐の権利を持って周室を補佐せよ。東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る地で、王職を共にしない者(王に服従しない者)を汝は赦宥してはならない(赦してはならない)。』周室が東遷してから諸侯が放恣しているので、寡君は王命を奉じて会盟を主宰し、先業を修復した。汝等楚国は南荊にあり、本来、包茅を貢物にして王の祭祀を助けることになっていたが、汝等が貢物を欠くようになってから、縮酒(祭祀の酒を濾過すること)ができなくなった。寡人はこれを譴責に来たのだ。また、昭王が南征して還らなかったのも汝に原因がある。汝はどう弁解するつもりだ?」
屈完が言いました「周が綱指導力を失い、朝貢が廃されて欠如しているのは、天下の全てが同じであり南荊だけのことではない。とはいえ、包茅を献上しなかったことに関しては、寡君も罪を認めよう。貴君の命を受け入れて入貢することにする。しかし昭王が還らなかったのは膠舟のせいである。貴君は諸水の浜に聞け。寡君が咎を受ける必要はない。完はこれから寡君に復命しよう。」
言い終わると屈完は車に指示を出して還りました。
管仲桓公に言いました「楚人は倔強なので口舌で屈服させることはできません。進軍して圧力を加えるべきです。」
桓公は八軍を同時に進軍させて陘山に至りました。
 
漢水から遠くない場所で管仲が軍令を出しました「ここで屯札(駐軍)せよ。前に進んではならない。」
諸侯が問いました「兵が既に深くまで入ったのに、なぜ漢水を渡って決戦せず、ここに留まるのですか?」
管仲が言いました「楚は使者を送ってきました。必ず備えがあります。兵鋒を一度交えたら解くことができません。この地に駐軍して我々の威勢を遠くまで及ぼせば、楚は我々の大軍に恐れて再び使者を派遣して来るでしょう。そこで講和を得ることができます。楚を討伐するために国を出て、楚を服させて帰国できるのなら、それでいいではありませんか。」
諸侯は楚が使者を送って来るという管仲の言を信じず、議論がまとまりませんでした。
 
楚成王は鬥子文を大将に任命し、甲兵を整えて漢水南で待機させていました。諸侯の軍が漢水を渡り始めたら邀撃するつもりです。しかし間諜がこう報告しました「八国の兵は陘地に駐軍しています。」
子文が成王に言いました「管仲は兵法を知っているので、万全でなければ動きません。八国の大軍を擁しながら逗留しているのは謀があるからです。再び使者を送って強弱を探らせ、敵の意向を調べるべきです。決戦か講和かを決めるのは、それからでも遅くありません。」
成王が問いました「誰が使者に相応しいか?」
子文が言いました「屈完は既に夷吾と面識があるので相応しいでしょう。」
屈完が言いました「包茅の貢納が欠けていることに対し、臣はその咎を認めました。主公が盟を請うのなら、臣は両国の紛糾を解決することに勉めます。しかしもし戦いを欲するのなら、他に相応しい者を選んでください。」
成王が言いました「決戦も会盟も卿の決定に委ねる。寡人が汝を制約することはない。」
屈完は再び斉陣に向かいました。
 
斉・楚両国は如何なるのか、続きは次回です。