戦国時代7 東周貞定王(二) 智氏と趙氏 前464~459年

今回は東周貞定王五年から十年までです。
 
貞定王五年
464年 丁丑
 
[] 晋の荀瑤が鄭を攻撃しました。
晋軍が到着する前に、鄭の駟弘が言いました「知伯は愎(頑固で剛情)で勝利を好む。我々が早く弱い姿勢を見せれば、彼は兵を退くだろう。」
駟弘(駟桓子)は城外の南里を守って晋軍を待ちました。
荀瑤が南里に入ると、鄭軍は少し抵抗しただけで撤退しました。晋軍は桔の門(鄭の城門)を攻めます。
鄭軍が晋の士・魁塁を捕虜にしました。卿の地位を与えることを条件に帰順を誘いましたが、魁塁は拒否します。鄭は魁塁の口を塞いで殺しました。
 
晋軍が鄭の城門を攻撃する前に、荀瑤が趙無恤(趙襄子)に言いました「(城門に)入れ。」
しかし趙無恤はこう応えました「主がここにいます。」
主は荀瑤を指します。元帥がここにいるのに自分が先に入ることはできない、という意味です。
荀瑤が言いました「悪(容貌が見にくい)なうえに無勇で、なぜ(趙氏の)跡を継げたのだ?」
趙無恤が言いました「恥を忍ぶことができるからです。趙宗(趙氏の宗族)を害すことはないでしょう。」
この後も荀瑤が無礼な態度を改めなかったため、趙無戌は荀瑤を嫌うようになりました。
後に知伯が趙無恤を滅ぼそうとしましたが、知伯は貪婪で頑固だったため、韓氏と魏氏に裏切られて滅亡しました。
以上、『春秋左氏伝』を元にしました。これが『春秋左氏伝』最後の記述になります。魯悼公四年(東周貞定王五年・前464年)のことです。
 
趙氏に関しては『史記・趙世家』等にも書かれていますが、別の場所で紹介します。
史記・鄭世家』には「鄭声公三十六年に晋の知伯が鄭を攻めて九邑を取った」とあります。
鄭声公三十六年は昨年ですが、一年ずれて本年の戦いを指しているのかもしれません(前回参照)
 
知氏の鄭討伐に関して、『史記・六国年表』にも記述があります。
知伯が鄭を攻めた時、鄭の駟桓子(駟弘)が斉に入って援軍を求めました。
斉が鄭を援けたため、晋軍は引きあげます。斉に亡命していた中行文子(荀寅)が田常に「(今回の戦で)なぜ亡命することになったのかを知りました」と言いました。
『春秋左氏伝』はこれを東周貞定王元年468年)に書いています(前回参照)
 
 
『国語・晋語九』に鄭から帰国後の事が記述されています。
鄭討伐後、智伯(荀瑤)が衛を経由して帰国しました。智襄子(荀瑤)、韓康子(韓虔。または韓虎。韓簡子・不信の孫。韓荘子・庚の子。)、魏桓子(または魏宣子。魏駒。魏襄子・曼多の子、または孫)の三卿が藍台(地名)で宴を開きます。趙無恤は鄭討伐中に智瑤に侮辱されたため、宴に参加しなかったようです。
宴の席で智襄子が韓康子に戯れ、段規(韓康子の相。『資治通鑑』胡三省注によると春秋時代初期に鄭で謀反した共叔・段の子孫)を辱めました。
それを聞いた大夫・智伯国(智氏の一族。『資治通鑑』では「智国」)が智伯を諫めて言いました「主は警戒しなければ必ず難を招きます。」
智伯が言いました「難とはわしから人に発するものだ。わしが難を与えないのだから、誰も難を興すことはない。」
智伯国が言いました「それは違います。郤氏には車轅の難(郤犨は長魚矯と田地を争い、長魚矯の父母・妻子を捕えて車轅に縛りつけたことがありました。後に郤氏は長魚矯等によって滅ぼされました。東周簡王十二年・前574年参照)があり、趙氏には孟姫の讒(孟姫は趙武の母・趙荘姫です。趙嬰と趙荘姫が私通したため、趙同と趙括が趙嬰を追放しました。後に趙荘姫が趙同と趙括を讒言したため、二人は晋景公に殺されました。東周定王二十一年・前586年および簡王三年・前583年参照)があり、欒氏には叔祁の愬(愬は訴えの意味。叔祁は欒盈の母。州賓と私通し、欒盈に討たれることを恐れて逆に欒盈を讒言しました。欒盈は出奔し、後に滅ぼされました。東周霊王二十年・前552年参照)があり、范氏と中行氏には亟治の難(「亟治」は「函冶」とも書き、范皋夷の邑。范皋夷は范吉射の側室の子でしたが、寵を得ることがなかったため、乱を起こして范氏を乗っ取ろうとしました。これが原因で范氏と中行氏は滅亡しました。東周敬王二十三年・前497年参照)がありました。これらの事は主も全て知っているはずです。『夏書尚書・五子之歌)』にはこうあります『一人が三人に対して過ちを犯したが(または頻繁に過ちを犯したが)、怨みが明らかになるのを待つのか。怨みが見えないうちに考慮するべきだ(一人三失,怨豈在明。不見是図)。』また、『周書尚書・康誥)』にはこうあります『大切なのは怨みの大小ではない(怨不在大,亦不在小)。』君子は小事にも気を配ることができるから、大患がないのです。今、主は一宴において人の君(韓康子)と相(段規)を辱め、しかも警戒することなく『誰も難を興さない』と言っています。これでいいはずがありません。誰でも人を喜ばせることができ、惧れさせることもできます。蜹(だに)・蟻・蜂・蠆(さそり)といった小さな虫でも人を害すことができます。君・相ならなおさらです。」
しかし智伯は諫言を聞き入れませんでした。
数年後に智氏は晋陽の難を招き、段規が筆頭になって智氏を滅ぼしました。
 
[] 『資治通鑑外紀』は本年に越王・句践が死に、子の鼫與(または「鹿郢」)が即位したとしています。
『竹書紀年』(今本・古本)では前年です(前回参照)
また、『資治通鑑外紀』は「鼫與が即位してから琅邪(瑯琊)に遷都した」と書いていますが、『竹書紀年』(今本)は遷都を東周貞定王元年(前468年)の事としています。越王・句践の時代です。
 
後漢書・東夷列伝(巻八十五)』に遷都後の越について書かれています。
それによると、越は琅邪に遷都してから東夷と共に征戦し、諸夏(中原諸国)を虐げて小邦(小国)を滅ぼしていきました。
鼫與の代になってから遷都したとしたら、越は句践の死後も勢力が衰えなかったようです。
 
 
 
翌年は東周貞定王六年です。
 
貞定王六年
463年 戊寅
 
[] 鄭声公が死に、子の哀公・易が立ちました。
声公の在位年数は、『史記・鄭世家』では三十七年(前年)ですが、『史記・十二諸侯年表』と『六国年表』では三十八年(本年)になっています。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、晋の扈で黄河が絶えました。
『古本竹書紀年』は「晋出公二十二年に黄河が扈で絶えた」としています。
晋出公二十二年は十年後の東周貞定王十六年(前453年)になります。
『今本』は「晋出公二十二年は出公十二年の誤り」と解釈して本年(東周貞定王六年)に書いたのかもしれません。
 
[] 『史記・六国年表』によると、この年、晋人と楚人が秦を聘問しました。
 
 
 
翌年は東周貞定王七年です。
 
貞定王七年
462年 己卯
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年(東周貞定王七年)、晋の荀瑤が南梁に城を築きました。
『古本竹書紀年』には「晋出公三十年、智伯・瑤が高梁に城を築く」とあります。
しかし晋出公の在位年数は、『竹書紀年』では二十三年、『史記』では十七年もしくは十八年なので、三十年というのは誤りです。『今本』は「出公三十年」を「出公十三年」と解釈し、東周貞定王七年にこの出来事を書いています。
「出公二十年」とする説もあり、その場合は東周貞定王十四年(前455年)になります。
 
[] 『資治通鑑外紀』はこの年、晋で虹が出て日(太陽)を囲んだと書いています。
 
 
 
翌年は東周貞定王八年です。
 
貞定王八年
461年 庚辰
 
[] 秦が黄河の周辺を掘りました。
史記・秦本紀』の原文は「塹河旁」です。黄河の周りに堤防を築いたという意味だと思われます。
しかし『六国年表』では「塹阿旁」となっており、『資治通鑑前編』は「阿旁」を「阿房」という地名に置き変えています。この場合は阿房という場所に濠を掘ったという意味になりますが、恐らく『年表』と『資治通鑑前篇』の誤りです。
 
[] 『史記・秦本紀』によると、秦が兵二万で大荔を攻め、王城(地名)を取りました。
史記』の注釈(正義)には、「大荔は王城周辺の邑」とありますが、『後漢書・西羌伝(巻八十七)』を見ると大荔は国名のようです。
後漢書・西羌伝』にはこう書かれています。
「当時春秋時代末、戦国時代初)、義渠と大荔が(西域で)最も強盛になり、数十の城を築いてそれぞれ王を称した。しかし周貞王(貞定王)八年、秦厲公(厲共公)が大荔を滅ぼしてその地を取った。」
史記・六国年表』には「大荔を討伐する。龐戯城を修築する」とあります。
 
後漢書・西羌伝』にはこの頃に「趙が代国を滅ぼした」「韓と魏が共に伊・洛・陰戎を攻めて滅ぼし、戎族で残った者は皆逃走して西の汧隴(汧山と隴山の間)に遷った。この後、中国(中原)には戎寇がなくなり、義渠種だけが残った」とあります。
資治通鑑外紀』は代の滅亡を東周元王二年(前474年)、伊・洛・陰戎の滅亡を東周貞定王二十五年(前444年)の事としています。
 
[] この年、杞哀公が在位十年で死に、湣公の子・敕(または「敕」に「しんにょう」)が立ちました。これを出公といいます。
 
 
 
翌年は東周貞定王九年です。
 
貞定王九年
460年 辛巳
 
特に記述することはありません。
『春秋左氏伝』が終わってから、残された記録が乏しくなっています。
 
 
 
翌年は東周貞定王十年です。
 
貞定王十年
459年 壬午
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年、於越子(越王)・鹿郢が在位六年で死に、不寿が立ちました。不寿は盲姑ともいいます。
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年、晋で不思議な虹が現れました。青い虹で、日(太陽)の周りに五回集まったようです。
 
 
 
次回に続きます。