戦国時代11 東周貞定王(六) 趙襄子 前453年(2)

今回は東周貞定王十六年の続きです。
 
[] 晋の智氏が亡んでから、その土地が分けられることになりました。『戦国策・韓一』からです。
三晋(趙・韓・魏)が智氏を破り、その地を分けました。
段規が韓王(この時はまだ王を称していませんが、原文のまま訳します。「韓主」の誤りかもしれません)に言いました「成皋の地を取るべきです。」
韓王が言いました「成皋は石溜の地(石ばかりの地)だ。寡人にとっては役に立たない場所だ。」
段規が言いました「それは違います。一里の地は千里の権(土地の支配権)を動かすことができるといいます。これはその地に利があるからです。また、万人の衆は三軍を破ることができるといいます。これは敵の不意を突くからです。王が臣の言を用いれば、韓は鄭を取ることができます。」
韓王は「善し」と言って成皋の地を取りました。
後に韓は鄭を占領しますが、成皋から始まったことです。
 
史記・韓世家』には「韓康子は趙襄子、魏桓子と共に知伯を破ってその地を分けてから、ますます領地が広くなり、諸侯よりも大きくなった」とあります。
 
次は『新序・義勇(第八)』からです。
知伯・囂(智瑤。襄子。囂は諡号・襄の誤りかもしれません)の時代、長児子魚という士が仕えていました。しかし知伯の生前に子魚は知伯との関係を絶って晋を去りました。
三年後、東の越に向かおうとした時、子魚は知伯・囂が殺されたと聞いて御者に言いました「車を返せ。私は彼のために死ぬつもりだ。」
御者が言いました「夫子(あなた)が知伯との関係を絶って既に三年になります。今戻って彼のために死んだら、属(関係)を絶ちながら別れていなかったことになります。」
長児子魚が言いました「それは違う。仁者には余愛がなく、忠臣には余禄がない(「仁者無余愛,忠臣無余禄。」仁者は全ての愛を人に与えるから愛が余ることはない。忠臣は余分な俸禄を受け取ることがない)という。私は知伯の死を聞いて心が動かされた(心はまだ知伯にある)。余禄を私に加える者は今も活きている。私はそれに身を委ねるつもりだ(原文「余禄之加于我者,至今尚存,吾将往依之。」理解が困難ですが、恐らく、私に俸禄を与える者というのは生き残った者、つまり知氏を滅ぼした趙氏等の勢力を指します。「趙氏等から俸禄を受け取ったら忠臣ではなくなってしまうので、趙氏等に会って知伯に対する忠心を示し、死ぬつもりだ」という意味だと思われます)。」
子魚は晋に戻って死にました。
 
趙襄子が論功行賞を行いました。『淮南子』の『汜論訓』と『人間訓』に記述があります。二つの内容を合わせて紹介します。
晋陽の役では五人が功を立てました。しかし趙襄子は高赫(高共)一人を賞の筆頭にしました。群臣が言いました「晋陽の存続は、張孟談の功によるものです。赫に大功はありません。なぜ賞の筆頭とするのですか?」
襄子が言いました「晋陽の包囲では、寡人の社稷も国家も危機に陥り、群臣には驕侮の心(軽蔑・軽視の心)が生まれた。しかし赫だけは君臣の礼を失わなかった。だから彼一人を筆頭にするのだ。」
 
趙襄子に仕えていた張孟談が去りました。『戦国策・趙策一』からです。
張孟談は趙宗(趙氏の地位)を固め、封疆(領土)を拡大し、五百(五覇。春秋時代の覇者)の功績を発揚してから、簡子(趙鞅)の教訓を襄子に語って言いました「先の国地君(君主。簡子)の御(政治)にはこのような言葉がありました『五百(五覇)が天下を治めることができたのは、主が臣を制御できており、臣が主を制御することがなかったからである。よって、列侯(諸侯。国君)になるべき尊貴な者を相位(大臣)に置いてはならず、将軍以上の地位にある者を近大夫(親近の大夫?)にしてはならない。』今、臣の名は既に広く知られ、身も尊くなり、権力は大きく民衆も服しています。臣は功名を棄て、権勢から去って民衆から離れたいと思います。」
襄子が言いました「それは何故だ。主を補佐する者はその名が広く知られ、功が大きい者はその身が尊ばれ、国を任せられた者は権を大きくし、信忠を持つ者は衆が服すという。このようであるから先聖は国家をまとめ、社稷を安定させることができたのではないのか。子はなぜ去ろうとするのだ?」
張孟談が言いました「主公が話すのは功を成す時の美です。臣が話すのは国を維持する時の道です。臣は今まで事の成就を観察し、往古の故事を聞いてきましたが、天下の美とは共通しているものです。臣と主の権力が等しくなるという美が存在したことはありません。前事を忘れなければ、後事の師とすることができます(前事之不忘,後事之師)。主公がこのことを善く考えないのなら、臣が力になることはできません。」
張孟談は別れを決意した悲しみを抱きました。
襄子は張孟談を家に帰らせました。
 
『戦国策』はこの後の事も書いていますが、理解が困難です。原文は「襄子去之。臥三日,使人謂之曰『晋陽之政,臣下不使者如何』対曰『死僇。』張孟談曰『左司馬見使于国家,安社稷,不避其死,以成其忠,君其行之。』君曰『子従事。』乃許之」です。
 
この部分の訳は主語を誰にするかで変わってきます。
一つ目の解釈はこうです。
趙襄子は張孟談を帰らせてから、三日間床に臥せました。その後、人を送って張孟談にこう問いました「晋陽(趙氏)の政務を命じても臣下が着任しようとしない。どうするべきだ?」
張孟談は「死僇(殺戮・死刑)にするべきです」と答えました(「主君の指示に従わない者は処刑するべきだ」と答えたため、引退を望んだ張孟談自身も主君の許可がなければ去れなくなりました)
張孟談がこう言いました「左司馬(張孟談)は国家に仕えて社稷を安定させ、死から逃げることなくその忠を成就させました。主公は同意してください(私を去らせてください)。」
襄子は「子は自分の事を行え」と言って去ることに同意しました。
 
もう一つの解釈は前半が異なります。
趙襄子が張孟談を帰らせてから、張孟談は三日間家に籠って床に臥しました。その後、人を送って襄子にこう問いました「晋陽の政を臣下(張孟談)が行わなかったらどうするつもりですか?」
襄子が言いました「死僇しかない。」
張孟談が言いました「左司馬(張孟談)は国家に仕えて社稷を安定させ、死から逃げることなくその忠を成就させました。主公は同意してください。」
襄子は「子は自分の事を行え」と言って去ることに同意しました。
 
後半の主語が異なる解釈の仕方もあります。原文の「張孟談曰」を大きく変えています。
趙襄子は張孟談を帰らせてから、三日間床に臥せました。その後、人を送って張孟談にこう問いました「晋陽の政務を命じても臣下が着任しようとしない。どうするべきだ?」
張孟談は「死僇にするべきです」と答えました。
(後にある人が)張孟談のために(襄子に)言いました「左司馬(張孟談)は国家に仕えて社稷を安定させ、死から逃げることなくその忠を成就させました。主公は彼に同意するべきです。」
襄子は「それならば子()(張孟談の)事を行え(張孟談に代われ)」と言って張孟談が去ることに同意しました。
 
三つ目が一番つじつまが合っているようですが、原文と較べて大きな違いがあります。二つ目の解釈が妥当とも思えますが、どれが正しいか判断できないので併記しておきます。
いずれにしても張孟談は自ら厚遇・厚賞を棄てたため名声を得ました。封地と政権を返し、尊貴な地位から離れ、負親の丘で農耕を始めます。人々はこれを「賢人の行い、明主の政」と称しました。
 
三年後、韓、魏、斉、燕(恐らく「楚」の誤り)が趙との友好に背いて進攻を考えました(『戦国策・趙策一』の内容です。『資治通鑑』や『史記』には記述がありません)
襄子が張孟談に会いに行って言いました「かつて知氏の地を分けた時、趙氏は十城を多く取った。今回、諸侯が来たのはそのためだ。誰かわしのために謀る者はいないか。」
張孟談が言いました「主公は剣を背負い、臣を御して国に帰ってください。臣を廟に住ませ、吏大夫(官位)を授けるなら、臣が試しに計を謀ってみましょう。」
襄子は「わかった(諾)」と言って張孟談を連れて帰りました。
張孟談は妻を楚に、長子を韓に、次子を魏に、少子を斉に派遣しました。その結果、四国は互いに猜疑しあい、趙への進攻を中止しました。
 
晋陽の戦いの後の趙について、『史記・趙世家』はこう書いています。知氏の地を併せ、二国よりも強盛になった。そこで趙は百邑に三神の祠を建て(百の邑では大きすぎるので、恐らく邑人百人が守る祠という意味)原過霍泰山祠祀を主宰させた。」
 
 
 
次回に続きます。