第三十二回 晏蛾児が節に殉じ、群公子が朝堂を閙す(後編)

*今回は『東周列国志』第三十二回後編です。
 
官員達は世子の出奔を聞き、朝宗(朝見)の対象がいなくなったため門を閉ざしました。老臣の国懿仲と高虎だけは心中に焦りを抱きましたが、解決したいと思っても策がありません。
こうして諸公子が対峙したまま二カ月余が経ちます。
 
高虎が言いました「諸公子は位を奪うことしか知らず、喪を治めようとしない。今日、私は命をかけて争うつもりだ。」
国懿仲が言いました「子(あなた)が先に入って発言するなら、私も後に続こう。共に一命を棄てて累朝(歴代)の爵禄の恩に報いることができればそれで充分だ。」
高虎が言いました「我々二人が口を開くだけでは成功しない。斉の禄を食す者は全て斉の臣子だ。我々が群臣の家を訪ねて呼び集め、共に朝堂に入り、とりあえず公子・無虧を奉戴して喪を主宰させるのはどうだろうか?」
国懿仲が言いました「子を立てる時は年長者を選ぶものだ。無虧を立てるのは名分がある(だから問題ない)。」
こうして二人は別れて群臣を招きに行き、共に哭臨(哀哭の礼。葬儀)に参加するように誘いました。官員達は二人の老大夫が先頭に立っているのを見て安全だと信じ、次々に喪服を着て入朝します。
寺貂が一行を遮って問いました「老大夫は何をしに来たのですか?」
高虎が言いました「このように対峙していてもきりがない。我々は公子に喪を主宰していただくために来た。他に目的はない。」
寺貂は高虎に揖礼してから招き入れました。高虎が手招きすると、国懿仲も群臣と共に朝堂に入ります。
国懿仲等が無虧に言いました「臣等は『父母の恩は天地に等しい(父母之恩,猶天地也)』と聞いています。だから人の子たる者は、生きている間は父母に敬を尽くし、死んでからは殯葬(葬儀)を行うのです。父が死んだのに殮(死者を棺に入れること)もせず富貴を争うというようなことは聞いたことがありません。そもそも、国君とは臣下の表(模範)であるべきです。国君が不孝であったら、どうして臣下が忠を保てるでしょう。先君が死んでから既に六十七日が経ちましたが、まだ入棺もされていません。公子は正殿におられますが、心は平穏ですか?」
言い終わると群臣が地に伏せて痛哭しました。
無虧も泣いて言いました「孤(国君の自称)の不孝は、その罪が天にも通じる。孤は喪礼を行いたくないのではない。元等が脅威となっているのだ。」
国懿仲が言いました「太子は既に外に奔りました。公子が最年長です。公子が喪事を主持して先君を收殮できるのなら、大位は自ずと公子に属することになります。公子・元等は別々に殿門を占拠しましたが、老臣が義によって譴責すれば、誰も公子と争おうとはしないでしょう。」
無虧は涙を拭くと下拝して言いました「それは孤が願っていたことだ。」
高虎は雍巫に今まで通り殿廡を守らせましたが、群公子が衰麻(喪服)を着て来たら入宮を許可させました。武器を持って来た者だけを捕えて罪を正すように命じます。
寺貂が先に寝宮に入って殯殮の準備をしました。
 
桓公の死体は寝床に置かれたままで、長い間、誰も手を触れていません。冬とはいえ、血肉が損傷して屍気が発散し、蟲がわいて壁の外にまで這い出しています。人々は蟲がどこから出て来たのか分かりませんでしたが、寝室に入って寝床に置かれた窓を除いた時、屍骨に群がる蟲を見て初めて惨状を知りました。
無虧が大哭すると群臣達も泣き始めました。
即日、梓棺に死体が入れられます。皮も肉も腐っていたため、袍帯で簡単に包んだだけでした(本来なら埋葬用の衣服に着替えさせます)
ところが晏蛾児の死体は生きている時と全く変わりがありません。高虎等は晏蛾児を忠烈の婦と認め、嘆息が止みませんでした。晏蛾児も棺に納められます。
 
高虎等が群臣を率いて無虧を主喪の位に奉じました。群臣が序列に従って哭臨します。
その夜、無虧は霊柩の横で寝ました。
公子・元、公子・潘、公子・商人は朝外の陣営にいました。老臣の高・国が群臣を率いて喪服で入朝するのを見ましたが、何が起きているのかは分かりません。暫くして、桓公が既に棺に納められ、群臣が無虧を奉じて喪を主宰させてから、国君に立てたと知りました。諸公子が互いに言いました「高・国が指揮しているのなら、我々が争える相手ではない。」
諸公子は兵衆を解散させ、喪に参加するために衰麻(喪服)を着て入宮しました。兄弟が再会して互いに大哭します。もし高・国が無虧に進言していなかったら、どのような結果になっていたかわかりません。
 
 
斉の世子・昭は宋国に逃げて宋襄公に会いました。地に拝して哀哭し、雍巫と豎刁の乱を訴えます。
宋襄公が群臣を集めて言いました「以前、斉桓公は公子・昭を寡人に託して太子に立てた。あれから十年も経つが、寡人は心中にこれをしまい、忘れることはなかった。今、巫・刁が内乱を招き、太子が駆逐された。寡人は諸侯と合流して斉の罪を討ち、昭を斉に入れて君位を定めたいと思う。この挙が成功すれば、大義名分によって諸侯を動かし、会盟を提唱することができるだろう。それによって桓公の伯業(覇業)を継ごうと思うが、卿等の意見は如何だ?」
一人の大臣が進み出て言いました「宋国には斉に及ばないことが三つあるので、諸侯の伯にはなれません。」
襄公が見ると、宋桓公の長子で襄公の庶兄にあたり、かつて国君の地位を譲った公子・目夷(字は子魚)でした。目夷は襄公によって上卿に立てられています。
襄公が問いました「子魚の言う『斉に及ばない三つのこと』とは何だ?」
目夷が言いました「斉には泰山・渤海の険と瑯琊・即墨の饒(肥沃な土地)がありますが、宋は国が小さく土も痩せており、兵は少なく食糧も不足しています。これが一つ目です。斉では高・国が世卿として国の幹(基本)となり、管仲、甯戚、隰朋、鮑叔牙が事を謀ってきました。我が国は文武がそろわず、賢才も登用されていません。これが二つ目です。桓公が山戎を北伐した時には『兪児』が路を開き、郊外で狩りをした時には『委蛇』が現れました。我が国では今年春正月に五星が地に落ちて石になり、二月には大風の異変があって六鷁(鷁は鳥の名)が後ろに飛びました。これらは上の物が下に落ち、進もうとして逆に退がる象です。これが三つ目です。この三つが斉に及ばないのですから、自分を守るので精一杯です。他人の世話をする余裕はありません。」
しかし襄公はこう言いました「寡人は仁義を主としている。遺孤を援けないのは非仁だ。人から託された事を棄てるのは非義だ。」
襄公は太子・昭を斉国に入れるため、諸侯に檄文を送り、翌年春正月に斉の郊外で集結することを約束しました。
 
檄が衛国に到着すると、大夫・寧速が言いました「子を立てる時は嫡子を選び、嫡子がいなければ年長者を立てるのが礼の常です。無虧は年長者で、しかも衛を守った功労があり、我々にとって恩人です。宋に与してはなりません。」
しかし衛文公はこう言いました「昭が世子に立てられたことは天下が知っている。衛を守ったのは私恩だ。世子を立てるのは公義だ。私恩によって公義を廃すようなことは、寡人にはできない。」
 
檄が魯国に到着すると、魯僖公はこう言いました「斉侯が昭を託したのは宋であって寡人ではない。寡人は長幼の序を知るだけだ。宋が無虧を攻めるのなら、寡人はそれを救わなければならない。」
 
周襄王十年、斉公子無虧元年の三月、宋襄公が自ら衛、曹、邾の三国と合流し、世子・昭を奉じて斉を討伐しました。連合軍は斉の郊外に駐留します。
この時、斉の雍巫が位を中大夫に進め、司馬に任命されて兵権を握っていました。無虧は雍巫に兵を率いて城外で敵を防ぐように命じます。寺貂が城内で防戦の準備をしました。高・国の二卿もそれぞれ城池を守ります。
高虎が国懿仲に言いました「我々が無虧を擁立したのは先君の殯が行われていなかったからであり、彼を国君に奉じるつもりではなかった。今、世子が既に戻り、しかも宋の助けを得ている。理を論じるなら彼等が理に順じており、勢を較べるのなら彼等の方が強い。それに、巫・刁は百官を殺し、権力を握って政治を乱している。必ず斉の患いとなるだろう。この機に彼等を除き、世子を迎え入れて国君に奉じるべきだ。そうすれば諸公子の野心も絶つことができ、斉は泰山の平安を取り戻すことができる。」
国懿仲が言いました「易牙は兵を率いて郊外に駐軍している。我々は議事を理由に豎刁を招き、隙を見て殺そう。それから百官を率いて世子を迎え入れ、無虧の位に代わらせれば、易牙は何もできないはずだ。」
高虎は「それは妙計だ」と言って賛成しました。
高虎は壮士を城楼に隠し、重要な機密を語る必要があると偽って豎刁に人を送りました。
 
豎刁の命がどうなるか、続きは次回です。