第四十八回 五将が晋を乱し、寿餘が秦を欺く(三)

*今回は『東周列国志』第四十八回その三です。
 
周頃王四年、秦康公が群臣を集めて言いました「寡人が令狐で恨みを呑んでから五年が経つ。今、趙盾は大臣を誅戮して辺政(国境の政治)を修めず、陳、蔡、鄭、宋が交臂(手を組むこと。拱手)して楚に仕えることになった。それを止めることができない晋は明らかに弱くなっている。今、晋を討たなかったら、いつまで待つことになるだろう。」
諸大夫が「死力を尽くします!」と言ったため、康公は車徒を選んで軍を整えました。孟明に都を守らせ、西乞術を大将に、白乙丙を副将に、士会を参謀に任命し、車五百乗を出陣させます。堂々とした大軍が黄河を東に渡り、羈馬(地名)を攻めて攻略しました。
 
国境の報告を聞いた趙盾は急いで迎え討つ準備をしました。自ら中軍の将となり、上軍大夫・荀林父を中軍の佐に移して先克の欠を埋めました。提彌明を車右に任命します。郤缺が箕鄭父の代わりに上軍元帥になりました。
趙盾の従弟・趙穿は晋襄公の愛婿でした。今回、自ら上軍の佐を求めましたが、趙盾は「汝はまだ若くて勇を好み、歴練(経験)もない。暫く待て」と言って拒否し、臾駢を佐にしました。
欒盾を下軍元帥に任命して先蔑の欠を埋め、胥臣の子・胥甲を副将にして先都の欠を埋めます。
趙穿が再び私属(自分の兵)を率いて上軍に入り、功を立てることを望みました。趙盾はこれを許可します。
軍中に司馬がいません。韓子輿の子・韓厥は幼い頃から趙盾の家で育ち、成長してからは門客になりました。趙盾は韓厥が賢人で能力もあると知っていたため、霊公に推挙して司馬に任命しました。
整然とした三軍が晋都・絳城を出ます。
 
十里も進まない所で一乗の車が中軍の列を乱して進入しました。韓厥が人を送って問うと、御者がこう言いました「趙相国が飲具(飲食の道具)を忘れたので、軍令を奉じて取りに行き、ここに持って来ました。」
韓厥が怒って言いました「兵車の行列が既に定まったのに、車に乗って妄りに列に入る道理があるか!軍法に則って斬首せよ!」
御者が泣いて言いました「これは相国の命です!」
しかし韓厥はこう言いました「厥は司馬の職をいただいた。ただ軍法のみを知っているのであり、相国の存在は知らない。」
御者は斬られ、車は破壊されました。
諸帥が趙盾に言いました「相国は韓厥を推挙しましたが、厥は相国の車を壊しました。彼は恩に背く人物なので、恐らく用いることはできません。」
すると趙盾は微笑んで人を送り、韓厥を招きました。諸将は趙盾が韓厥を辱めて怨みに報いるつもりだと思っています。しかし趙盾は席を降りて韓厥を礼遇するとこう言いました「『国君に仕える者は、団結するが徒党は作らない(事君者,比而不党)』という。子がこのように法を行うことができるのなら、私の推挙が裏切られることはない。これからも努力せよ。」
韓厥は拝謝して退きました。
趙盾が諸将に言いました「後日、晋の政治を行うのは厥だろう。韓氏はこれから興隆する。」
 
晋軍は河曲に駐軍しました。
臾駢が趙盾に言いました「秦師は数年の間鋭気を養ってきたので、その勢いにまともにぶつかるべきではありません。溝(濠)を深くし、塁壁を高くして固守するべきです。敵は長く駐留することができず、必ず兵を退きます。退却する敵を撃てば必ず勝てます。」
趙盾はこの計に従いました。
 
秦康公は晋軍に戦いを求めましたが相手にされないため、士会に策を問いました。士会が言いました「趙氏は最近新しく一人の者を信任しています。姓は臾、名は駢といい、広い智謀の持ち主です。壁を固めて戦わないのは彼の策謀を用いたのでしょう。我が軍の疲労を待っているはずです。趙氏には趙穿という庶子がおり、晋先君の愛婿となりました。今回、上軍の佐を求めたのに、趙孟はそれを拒否して臾駢を用いたと聞きました。趙穿は必ず恨みを持っています。趙孟は臾駢の謀を用いましたが、趙穿は不服でしょう。自ら私属を率いて従っているのも、臾駢の功を奪いたいからです。もし軽兵で上軍を挑発すれば、臾駢が出陣しなくても、趙穿が勇に頼って出て来るはずです。それを機に一戦を求めることができるでしょう。」
納得した秦康公は白乙丙に車百乗を率いて晋の上軍を挑発させました。
郤缺と臾駢は守りを固めて動きませんでしたが、趙穿は秦兵が攻撃を仕掛けて来たと知り、私属百乗を率いて出陣します。
白乙丙は車を返して退却しました。秦軍が車を疾駆させたため、趙穿は十余里追撃しても追いつけず、やむなく兵を還します。
趙穿は臾駢等が追撃に協力しなかったことを恨み、軍吏を招くと罵ってこう言いました「食糧を蓄えて甲冑を身にまとうのは、戦いを求めるためだ。しかし今、敵が来ても出撃しない。上軍は皆、婦人になったのか!」
軍吏が言いました「主帥に敵を破る謀があります。しかしそれは今日のことではありません。」
趙穿が再び罵って言いました「鼠のような輩に何の深謀があるというのだ!ただ死を恐れているだけだ!他の者が秦を恐れても、この趙穿だけは恐れることがない!わしが単独で秦軍に奔走し、一戦にかけて堅壁の恥を雪いでみせよう!」
趙穿は車を駆けさせて再び前進し、軍中で「志気(意気。志)のある者は皆わしに続け!」と叫びました。しかし三軍で呼応する者はいません。ただ下軍の副将・胥甲だけは嘆息して「彼は本当の好漢だ。私が助けよう」と言い、出撃しようとしました。
これを知った上軍元帥・郤缺が急いで人を送り、趙盾に報告しました。趙盾は驚いて「狂夫が一人で出たら必ず秦の擒となってしまう。救わないわけにはいかない!」と言い、三軍に総攻撃を命じました。
こうして晋・秦両軍が交戦することになりました。
 
趙穿が秦陣の壁に突入しました。白乙丙が応戦して三十余合戦い、互いに殺傷を与えます。西乞術が兵を率いて挟撃しようとした時、前方から晋の大軍が一斉に迫ってきました。両軍は混戦になることを避けてそれぞれ金(鐘や鉦。撤兵の相図)を鳴らします。
趙穿が本陣に戻って趙盾に問いました「私は単独で秦軍を破って諸将の恥を雪ごうとしました。なぜ金を鳴らして撤兵させたのですか?」
趙盾が言いました「秦は大国だ。軽視してはならない。計を用いて破るべきだ。」
趙穿が言いました「計を用いる、計を用いると言いますが、腹は気(怒り。鬱憤)でいっぱいです(吃了一肚子好気)!」
言い終わる前に報告が来ました「秦国が戦書を届けて来ました。」
趙盾は臾駢を送って戦書を受け取らせました。臾駢が楚の戦書を趙盾に渡します。
趙盾が開いて見るとこう書かれていました「両国の戦士にはまだ損傷がない。明日、勝負を決したい。」
趙盾は秦の使者に「謹んで命に従おう」と答えました。
使者が去ってから、臾駢が趙盾に言いました「秦の使者は口頭では決戦を請いましたが、その目は四方に泳いでおり、不寧(不安定)な状況があるようでした。我々を恐れているのでしょう。夜の間に必ず遁走します。河口に兵を隠して渡河するところを襲えば、必ず大勝できます。」
趙盾は「それは妙計だ」と言って埋伏を命じようとしました。
 
埋伏の計を知った胥甲が趙穿に話しました。趙穿は胥甲と共に軍門でこう叫びました「軍士達よ、聞いてくれ!我が晋国は、兵は強く将も多い。なぜ西秦の下になる必要があるのだ?秦が決戦を求め、既にそれに同意したのに、河口に伏兵を置いて掩襲(奇襲)の計を行おうとしている。これが大丈夫がやることか!」
これを聞いた趙盾が趙穿を呼んで言いました「わしにそのつもりはない。軍心を撹乱するようなことはするな!」
 
趙穿と胥甲の軍門の話は秦の間諜が聞いていました。
秦軍は撤兵を開始し、夜を通して遁走しました。瑕邑に進入してから桃林塞を出て帰国します。
趙盾も兵を還しました。
 
帰国した趙盾は軍情を漏らした罪を正そうとしました。しかし趙穿は国君の婿で、自分の従弟なので裁かず、胥甲一人の罪として官爵を削り、衛国に追放しました。
ただし趙盾は「臼季(胥臣)の功を途絶えさせてはならない」と言い、胥甲の子・胥克を下軍の佐に任命しました。
 
 
 
*『東周列国志』第四十八回その四に続きます。