第四十八回 五将が晋を乱し、寿餘が秦を欺く(四)

*今回は『東周列国志』第四十八回その四です。
 
周頃王五年、趙盾は秦軍が再び攻めて来るのを恐れて、大夫・詹嘉を瑕邑に住ませ、桃林塞の守りとしました。
臾駢が言いました「河曲の戦いで秦のために画策したのは土会です。彼が秦にいたら、我々は枕を高くして寝ることができません。」
趙盾は納得し、諸浮(郊外)の別館に六卿を集めて相談しました。六卿というのは趙盾、郤缺、欒盾、荀林父、臾駢、胥克です。
趙盾が問いました「今、狐射姑が狄におり、士会が秦にいる。二人とも晋国を害そうとしたが、どう対応するべきだろうか?」
荀林父が言いました「射姑を招いて官を復しましょう。射姑は境外の任に堪えることができ、しかも子犯(狐偃)は旧勲です。子犯に対する賞を引き継がせるべきです。」
郤缺が言いました「射姑は宿勲ですが、勝手に大臣を殺した罪があります。もしも官を復したら、どうして今後の戒めとすることができますか。士会を招くべきです。士会は順柔で智が多く、そもそも秦に奔ったのも彼自身の罪が原因ではありません。狄は遠く秦は隣接しています。秦の害を除くには、まず秦の助けを除かなければなりません。士会を招くべきです。」
趙盾が問いました「秦は士会を寵任している。招いても従わないだろう。呼び戻すための計がないだろうか?」
臾駢が言いました「駢はある者と親しくしています。先臣・畢万の孫で名を寿餘といいます。魏犨の従子にあたります。魏を食邑としており、国内では世爵世襲の位)を得ていますが、職任(官職)がありません。彼は極めて権変臨機応変な対応)をよくします。士会を招くとしたら彼に任せるしかありません。」
臾駢は趙盾の耳元で「このようにしたら如何でしょうか」と言って策を授けました。
大喜びした趙盾は「吾子(汝)がわしのために招いてくれ」と言いました。
方針がまとまって六卿が解散します。
その日の夕方、臾駢が寿餘の門を叩きました。寿餘が臾駢を迎え入れて席に着きます。すると臾駢は密室に入ることを請い、士会を招く策を寿餘に告げました。寿餘は同意します。
臾駢は帰って趙盾に報告しました。
 
翌朝、趙盾が霊公に上奏しました「秦人が度々晋を侵しているので、河東諸邑の宰(邑の管理者)に命じ、各地で民兵を訓練させ(団練甲伍)黄河岸口に寨を構えて順番に守備させるべきです。併せて食采の人(食邑を与えられた者。邑主。通常は国都にいます)に任を与えて国境守備を監督させ、もしも利を失ったらその食邑を奪えば、国境の者達が防範に心を尽くすようになるでしょう。」
霊公は同意しました。
趙盾がまた言いました「魏は大邑です。魏が先頭に立てば、諸邑でそれに従わないものはいないでしょう。」
趙盾は霊公の命を奉じて魏寿餘を招きました。魏邑の有司(官員)を監督させ、団兵民兵に国境を守備させるように命じます。
ところが魏寿餘はこう上奏しました「主上が先世の功を忘れることがなかったため、臣は大県を治めることになりました(衣食大県)。しかし軍旅の事は知りません。しかも河上は百余里も続き、どこからでも渡ることができます。軍士を晒して守っても益はありません。」
趙盾が怒って言いました「小臣が我が大計を妨害するのか!三日以内に軍籍をまとめて報告せよ!もしこれ以上逆らうようなら、軍法を正すことになる!」
魏寿餘は嘆息して家に帰り、鬱々としていました。妻子がその理由を問うと、魏寿餘はこう言いました「趙盾は無道だ。私に河口の守備を監督させようとしているが、この任務に終わりはない。汝は家資をまとめ、私と共に秦国に行く支度をせよ。士会に従うことにしよう。」
こうして家人が車馬の整備を始めました。
その夜、魏寿餘が酒を求めて痛飲しました。酔った魏寿餘は膳夫(料理人)が進めた饌(食事)が汚れているのを見て、怒って膳夫を鞭で百余回打ちました。その後も不満を述べて膳夫を殺したいと発言します。
膳夫は趙府に逃走し、魏寿餘が晋に背いて秦に奔ろうとしている事を報告しました。
趙盾は韓厥に兵を率いて逮捕させます。韓厥は魏寿餘をわざと逃がし、妻子を捕えて獄に入れました。
 
魏寿餘は夜を通して秦に奔り、康公に謁見しました。魏寿餘が趙盾の強横無道を訴えて言いました「妻子は獄に入れられ、某(私)一人で逃走しました。ここに来たのは投降のためです。」
康公が士会に「真実だと思うか?」と問うと、士会はこう言いました「晋人は詐術が多いので信じてはなりません。もし寿餘が本当に降るつもりなら、何かを献じて功とするはずです。」
すると魏寿餘は袖の中から文書を取り出しました。魏邑の土地に住む民の数です。魏寿餘が康公に献上して言いました「明公が寿餘を受け入れてくださるのなら、食邑を奉献します。」
康公が再び士会に問いました「魏を取ることはできるか?」
魏寿餘は目で士会に合図を送り、足で士会をつつきました。士会は秦にいましたが、心は晋を想っています。魏寿餘の様子を見てその意図を知り、こう言いました「秦が河東五城を棄てたのは婚姻の好のためでした。しかし今、両国は兵を治めて互いに攻撃しあい、数年の間、休んだことがありません。城を攻めて邑を取るのは力が全てです。河東の諸城で魏よりも大きなものはありません。もし魏を得て拠点にできれば、この後、河東の地を収めることもできるでしょう。これは長期の策となります。しかし魏の有司が晋の討伐を恐れて帰順しない恐れがあります。」
魏寿餘が言いました「魏の有司は晋の臣ですが、実際は魏氏の私(家臣)です。もし明公が一軍を率いて河西に駐軍し、遠くから声援(後援)となれば、臣の力で帰順させることができます。」
秦康公が士会を見て言いました「卿は晋の事を熟知している。寡人と同行せよ。」
康公は西乞術を将に、士会を副将に任命し、自ら大軍を率いて前進しました。
 
河口に到着した秦軍が陣営を完成させた時、前哨が報告しました「河東に一枝(一隊)の軍が駐留しています。その意図は分かりません。」
魏寿餘が言いました「魏人が秦兵の動きを聞いたから警戒したのでしょう。彼等は臣が秦にいることを知りません。東方の人で晋の事に熟知した者を臣に同行させてください。禍福を諭せば魏の有司は必ず従います。」
康公は士会に同行を命じました。しかし士会は頓首してこう言いました「晋人には虎狼の性があり、その暴は測り知れませ。もし臣が諭して帰順すれば国家の福となります。しかしもし帰順せず、臣の身が捕えられたら、主公は臣が任務に堪えられなかった事を理由に、臣の妻孥(妻子)に罪を加えるでしょう。それでは主公にとって無益なだけでなく、臣の身と家も無意味な殃(禍)をこうむることになります。九泉の下で悔いても手遅れです。」
康公は士会の計と知らず、こう言いました「卿は心を尽くして進めばよい。もし魏の地を得ることができたら、厚く封賞を加えよう。逆にもし晋人に拘留されたとしても、寡人は家口(家族)を送り帰し、相与の情(交流の情)を示そう。」
康公は士会と共に黄河を指さして誓いを立てました。
秦の大夫・繞朝が諫めて言いました「士会は晋の謀臣です。彼を行かせるのは巨魚を壑(深い淵)に逃がすようなものです。帰って来るはずがありません。主公はなぜ軽々しく寿餘の言を信じて謀臣を敵に渡すのですか?」
康公が言いました「この事は寡人が責任を持つ。卿が疑う必要はない。」
士会は魏寿餘と共に康公に別れを告げて出発しました。
繞朝が慌てて車で後を追い、皮鞭を士会に贈って言いました「子(汝)は秦国に智士がいないと思って侮るな。主公が私の言を聞かなかっただけだ。子はこの鞭で馬を打って速く帰れ。遅くなれば禍があるだろう。」
士会は拝謝して車を駆けさせました。
 
士会等は渡河して東に帰りました。
どうやって晋国に帰るのか、続きは次回です。