第四十八回 五将が晋を乱し、寿餘が秦を欺く(二)

*今回は『東周列国志』第四十八回その二です。
 
鄭の公子・堅等は楚兵が戦いを挑みに来なくなったため、不思議に思って間諜を送りました。
間諜が帰って言いました「楚兵は四方に出て食糧を略奪しています。鬥元帥は中軍におり、毎日、鼓楽と飲酒に耽っています。酒を飲んでからは、鄭人は無用(無能)なので戦ができないと罵っています。」
公子・堅が喜んで言いました「楚兵が四方で略奪をしているのなら、その営は空のはずだ。楚将が鼓楽飲酒に耽っているのなら、警戒を怠っているはずだ。夜の間に敵営を襲えば勝てないはずがない。」
公子・龐と楽耳も賛同しました。
その夜、鄭兵が出陣の準備をして充分な食事をとってから、公子・龐が軍を前中後の三隊に分けました。前隊から順に攻撃するつもりです。
公子・堅が諫めて言いました「営を襲うのと陣を対峙させるのとでは異なります。一時に襲撃する場合は、左右に分けるものであって前後に分けてはなりません。」
鄭の三将は同時に並進しました。
楚営に接近すると遠くに灯燭が輝き、笙歌がはっきりと聞こえてきます。
公子・堅が「伯棼(鬥越椒)の命はこれで終わりだ」と言い、車を指揮して直進しました。抵抗する楚兵はいません。公子・堅が寨中に突進すると楽人が四散しました。鬥越椒だけは座ったまま動こうとしません。
ところが前に進んだ公子・堅は驚いて「計に落ちた!」と叫びました。鬥越椒だと思っていたのは草を束ねて作った人形でした。公子・堅は慌てて寨を出ましたが、寨の後ろから砲声が轟き、一人の大将が兵を率いて殺到してきました。大将は「鬥越椒はここだ!」と叫んで公子・堅に迫ります。公子・堅は奔走して公子・龐と楽耳の二将に合流しました。三将一緒に逃走を続けます。
しかし一里も進まない場所で対面から再び砲声が轟きました。蔿賈が埋伏させていた一隊の軍馬が逃走する鄭兵の路を塞ぎます。前からは蔿賈が、後ろからは鬥越椒が襲いかかり、鄭軍は大敗しました。
公子・龐と楽耳が捕えられたため、公子・堅は命を棄てて援けに行きましたが、馬がつまずいて車が転倒したため、楚兵に捕まりました。
 
鄭軍の大敗を知った鄭穆公が恐れて群臣に問いました「三将が捕えられ、晋の救援も来ない。如何するべきだろうか?」
群臣が声をそろえて言いました「楚の勢いは盛んなので、速く投降しなければ早晩に城池を破られます。そうなったらたとえ晋でも何もできません。」
鄭穆公は公子・豊を楚営に送って謝罪し、財物を納めて和を求めました。二度と楚に背かないことを誓います。
鬥越椒は人を送って穆王の命を請い、穆王は講和に同意しました。楚は公子・堅、公子・龐、楽耳の三人を釈放して鄭に還らせました。
 
楚穆王が兵を引き上げました。
途中で楚の公子・朱が陳に敗れたという報告が届きます。副将の公子・茷は陳軍に捕えられました。公子・朱の使者は狼淵から穆王の後を追い、敗戦の報告をして報復の兵を請いました。
激怒した穆王が陳に兵を向けようとした時、「陳の使命が到着しました。公子・茷を楚に返し、しかも上書して投降を求めています」という報告が来ました。
穆王が陳の国書を開くとこう書かれています「寡人・朔は壤地(田地。領土)が褊小(狭小)で、君王の左右に侍る機会を得ることもできません。君王の一旅による訓定(平定。懐柔)を受けましたが、辺人(辺境の者)が愚莽のため、公子の罪を得てしまいました。朔は惶悚(恐れ震えること)しており、横になっても眠ることができないので、謹んで一介(使者)を派遣し、車馬を大国にお送りします。朔は終生、宇下(屋根の下)に頼って蔭庇(庇護)を得ることを望みます。君王はどうか受け入れてください。」
穆王が笑って言いました「陳はわしが罪を討つことを恐れて帰順を求めてきた。見幾の士臨機応変な人物)といえるだろう。」
穆公は陳の投降を受け入れ、鄭・陳二国の君と蔡侯に檄文を送って冬十月朔に厥貉で会見するように命じました。
 
晋の趙盾は鄭人が急を告げたため、宋・魯・衛・許四国の兵と合流して鄭救援に向かいました。しかし鄭の国境に着く前に鄭人が楚に降り、楚軍も既に撤退したと知ります。更に陳も楚に降ったという情報が入りました。宋の大夫・華耦と魯の大夫・公子遂が陳と鄭の討伐を請いましたが、趙盾はこう言いました「私が急いで援けられなかったのだ(悪いのは私だ)。二国を失うことになったが、彼等に罪はない。今は兵を退いて政治を修めるべきだ。」
諸侯は兵を還しました。
 
陳侯・朔と鄭伯・蘭は秋の終わりに息の地で合流し、楚穆王の到着を待ちました。
穆王が来るとそれぞれ会見の礼を行います。穆王が問いました「厥貉で会を行う予定だったが、なぜこの地に留まっていたのだ?」
陳侯と鄭伯が声をそろえて答えました「君王の相約(会見の約束)を得ることができましたが、期日に遅れて罪を得ることを恐れたので、あらかじめこの地で待機し、隨行することにしたのです。」
穆王は二人の答えに喜びました。
そこに間諜の報告が来ました「蔡侯・甲午が先に厥貉の境界に到着しました。」
穆王は陳・鄭の二君と共に車を疾駆させました。
蔡侯は厥貉で穆公を出迎え、臣礼で再拝稽首しました。
陳侯と鄭伯が驚いて秘かにこう言いました「蔡はこのように屈して礼を行った。楚は我々を怠慢だと思うだろう。」
そこで二君は穆王の批難を他に向けるためにこう言いました「君王がここで税駕(車を止めること)しましたが、宋君が参謁に来ません。君王は討伐するべきです。」
穆王が笑って言いました「孤がここに兵を留めたのは、まさに宋を討つためだ。」
 
この情報は早くも宋国に届きました。
当時の宋では、成公・王臣が死んで子の昭公・杵臼が即位し、既に三年が経っていました。昭公は小人を信用して公族を遠ざけたため、穆・襄の党(穆公と襄公の一族)が乱を成し、司馬・公子卬を殺しました。司城・蕩意諸は魯に奔り、国が大いに乱れます。やがて司寇・華御事が国事を調停し、蕩意諸の官を戻すように求めたため、国内がやっと安定し始めました。
ちょうどその頃、楚が諸侯と厥貉で合流して宋を攻撃しようとしているという情報が届きます。
華御事が宋公に言いました「『小国が大国に仕えなければ国が亡ぶ(小不事大,国所以亡)』といいます。今、楚は陳と鄭を臣服させました。まだ得ていないのは宋です。先に赴いて和を請うべきです。もしも討伐を受けてから和を求めたら、手遅れになります。」
宋公は納得して自ら厥貉に赴き、楚王を謁見しました。
 
宋公は田獵(狩猟)の準備を整えて、孟諸の藪で諸侯と共に狩り行うように勧めました。喜んで同意した穆王は陳侯を前隊にして道を開かせ、宋公を右陣に、鄭伯を左陣に、蔡侯を後隊にして、楚穆王の狩猟に従わせました。
穆王は狩猟に従う諸侯に「黎明に出発する。それまでに燧(火を点ける道具)を準備して車中に積め」と命じました。
当日、諸侯が狩り場を包囲しました。久しい時が流れます。
穆王が車を駆けさせて右師(右陣)に入った時、やっと狐の群れに遭遇しました。狐は深い穴に逃げ入ります。穆王は宋公に燧で火を起こして狐を焙り出すように命じました。ところが宋公は車に燧を積んでいませんでした。楚の司馬・申無畏が穆王に言いました「宋公は軍令に違反しました。しかし国君に刑を加えることはできません。その僕(御者)を罰してください。」
穆王は宋公の御者を叱責し、三百回棒で殴って諸侯に対する警告としました。宋公は大いに慙愧します。
これは周頃王二年の事です。この頃は楚が最も強横でした。
 
穆王は鬥越椒を斉と魯に送って聘問し、公然と中原の覇者として振る舞いました。しかし晋はそれを制御できませんでした。
 
 
 
*『東周列国志』第四十八回その三に続きます。