戦国時代58 東周慎靚王(一) 五国伐秦 前320~318年

今回から東周慎靚王の時代です。
 
慎靚王
顕王が死んで子の定が立ちました。慎靚王といいます。
慎靚王のように複数の文字による諡号を複諡といいます。
 
慎靚王元年
辛丑 前320
 
[] 衛は「侯」を称していましたが、更に号を落として「君」と称すことにしました。君は大夫以上の階級で、土地を持つ者に与えられる称号です。衛嗣君五年の事です。
『衛康叔世家』には「衛は濮陽だけを有す」とあります。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、秦が魏を攻めて曲沃と平周を取りました。
資治通鑑』『史記』はこの出来事を二年前(東周顕王四十七年322年)に書いています。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦恵文王が北河(戎地)に巡遊しました。
 
[] 『史記田敬仲完世家』によると、斉が秦から婦人を迎え入れました。
 
 
 
翌年は慎靚王二年です。

慎靚王二年
319年 壬寅
 
[] 秦が韓を攻めて鄢(鄢陵)を取りました。
 
[] 魏恵王(恵成王)が死に、子の襄王が立ちました。
 
史記』にはこの年に襄王が死んで哀王が即位したと書かれていますが、『資治通鑑』『竹書紀年』『世本』とも哀王の名はありません。
史記』では恵王が王位に即いて改元した年を襄王元年としており、『資治通鑑』等の襄王を哀王としていますが、恐らく誤りです(東周顕王三十四年335年および顕王三十五年・前334参照)
 
孟子が襄王に会いましたが、退出してから知人にこう言いました「新王は遠くから見ても人君のようには見えず、実際に会っても畏敬の気持ちは起きなかった。王は突然こう聞いた『どうすれば天下を定めることができるか?』私はこう答えた『統一すれば安定させることができます。』『誰が統一できるか?』『殺人を好まない者が統一できます。』『誰がそれを望んでいるか?』『天下にそれを望まない者はいません。王も苗をご存知でしょう。七、八月(周暦。夏暦なら夏五月から六月)の間に旱害があったら、苗は枯れてしまいます。しかし天が雲を密集させ、激しく雨を降らせたら、苗は勢い盛んに育ちます。そうなったら誰も勢いを止めることができません。』」
孟子は仁義の思想を説いています。仁義とは夏に潤いをもたらす雨と同じです。しかし襄王は実利しか頭になかったため、早くも孟子に見限られました。
 
[] 『史記魏世家』はこの年に張儀が秦に帰ったとしていますが、東周慎靚王四年(前317年)の誤りだと思われます。
 
[] 『史記六国年表』によると、楚が広陵に城を築きました。
 
 
 
翌年は東周慎靚王三年です。
 
慎靚王三年
318年 癸卯
 
[] 『史記秦本紀』によると、楽池が秦の相になりました。
 
[] 楚、趙、魏、韓、燕が共に秦を討伐して函谷關に至りました。
しかし秦が兵を出して迎撃し、五国の連合軍は敗走しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
史記秦本紀』は「韓、趙、魏、燕、斉(『資治通鑑』とは楚と斉が入れ替わっています)匈奴を率いて共に秦を攻めた。秦は庶長(樗里疾。秦恵王の弟)に迎撃させ、修魚(韓邑)で戦って韓将申差を捕えた。また、趙の公子・渴と韓の太子・奐を破って八万二千を斬首した」と書いています。
『六国年表』を見ると、本年に「魏燕の五国が秦を攻めたが、勝てずに兵を還す」、翌年に「秦が韓魏と戦って八万を斬首する」「秦が韓を脩魚で破り、韓将申差を得る」とあります。
資治通鑑』と『史記韓世家』も脩魚の戦いを翌年に書いています。
 
『楚世家』は、「蘇秦の約従(合従)によって山東六国が共に秦を攻めた。楚懐王が従長(合従の長)になった。連合軍は函谷関に至ったが、秦が出兵して六国を撃ち、六国の兵は皆引き返した。斉だけが残った」としています。
六国がどの国を指すかははっきりしません。
 
『魏世家』には「五国が共に秦を攻める」とあり、注(正義)は五国を韓、魏、楚、趙、燕としています。『資治通鑑』と同じです。

『趙世家』は大きく異なり、「韓が秦を攻めたが勝てずに兵を還した」としています。また、この年に「五国が相王したが、趙だけは王号を拒否して『実がないのに虚名を名乗ることはできない』と言い、国人に自分を『君』と呼ばせた」と書いています(東周顕王四十六年323年参照)
 
このようにそれぞれの記述に違いがあります。
以下、楊寛の『戦国史』から引用します。
「公孫衍(『楚世家』では蘇秦が東方各国の支持を得て魏相になってから、合従が形成された。その結果、紀元前318年に『五国伐秦』という事件が起きた。これは合従した諸国による秦への攻撃で、参加国は魏楚である(『資治通鑑』と同じです)。この中で楚懐王が合従の長に推された。しかし実際に兵を出して秦と戦ったのは魏韓の三国である。翌紀元前317年、義渠が秦と三晋の戦いに乗じて兵を挙げ、秦を襲って李帛で大勝した。その年、秦の庶長樗里疾が三晋と修魚で戦い、三晋連合軍を大破した。」
 
楊寛は『戦国史』の注釈で「『史記楚世家』はこの年の合従を蘇秦によるものとしているが、公孫衍の誤り」と書いています。
蘇秦は合従の代表とみなされてきましたが、戦国時代に合従を称えた複数の縦横家の活動が全て蘇秦の功労として語られている可能性があります(東周顕王三十六年333年参照)。実際、五年前に「五国相王」を提唱して合従を成立させたのは公孫衍でした(東周顕王四十六年323年)
現在の中国史学界では、本年に五国を連合させて秦を攻撃したのは蘇秦ではなく公孫衍であるとする見方が一般的なようです。
 
また、『戦国史』は『秦本紀』にある「匈奴」を「義渠の誤り」としています。
義渠は東周顕王四十二年(前327年)に秦に服従して県が置かれましたが、その後、復国したようです。
義渠の参戦も公孫衍が関わっています。以下、『戦国策秦策二』からです(上述の通り、『戦国史』は義渠の戦いを翌年の事としていますが、ここで紹介します)
義渠君が魏に行きました。そこで公孫衍が義渠君に会って言いました「貴国への道が遠いので、臣が再び会うことはないでしょう。この機会に真実を話させてください。
義渠君が「聞かせてください」と答えたため、公孫衍が言いました「中国(中原諸国)が秦に対して行動しなければ、秦は貴君の国を滅ぼすでしょう。しかし中国が秦に対して行動したら、秦は重幣を贈って貴君の国に仕えるでしょう(中原が秦を攻めなければ、秦は義渠を滅ぼします。中原が秦を攻めれば、秦は義渠を大切にします)
義渠君は「謹んでお言葉を受け入れます」と言いました。
暫くして五国が秦を討伐しました。
秦の陳軫が秦王に言いました「義渠君は蛮夷の賢君です。財物を用いて慰撫するべきです。
秦王は同意して文繍千匹と美女百人を義渠に贈りました。
すると義渠君は群臣を集めてこう言いました「公孫衍が言ったとおりだ(五国が秦を攻撃したから財物を贈ってきた。戦いが終わったら義渠が滅ぼされるだろう)
義渠は兵を起こして秦を襲い、李帛(秦邑)で大勝しました。
 
これとほぼ同じ記述が『史記張儀列伝』にもあります(省略します)
五国連合軍が敗退する中、義渠だけは秦軍を破りました。しかし局地的な勝利だけでは、成長を続ける秦の勢いを止めることはできませんでした。
 
[] 宋が王を称しました。宋君偃十一年の事です。
史記宋微子世家』の注(索隠)によると、『戦国策』『呂氏春秋』では宋君偃の諡号を「康王」としています。
 
 
 
次回に続きます。