戦国時代67 東周赧王(五) 張儀と楚懐王 前311年(1)

今回は東周赧王四年です。二回に分けます。
 
赧王四年
311年 庚戌
 
[] 蜀相陳荘が蜀侯を殺しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。
史記秦本紀』には「丹、犂が秦に臣服し、蜀相(または「状」。陳荘。東周慎靚王五年・前316年参照)が蜀侯を殺して秦に降った」とあります。『史記』の注(正義)によると、丹と犂は戎族の号で、蜀に服していました。蜀相・壮は蜀侯を殺して丹・犂と共に秦に服従したと解説しています。
これを見ると蜀侯は蜀国の君主で秦と敵対していたようですが、実際は秦の公子・通が蜀侯に封じられているので(東周赧王元年・前314年)、恐らく『秦本紀』と『正義』の記述は誤りです。
 
『華陽国志蜀三』は二年後の東周赧王六年(前309年)に「陳壮がが反して蜀侯通国(『史記』では「通」)を殺した。秦が庶長甘茂と張儀司馬錯を派遣して再び蜀を討伐し、陳壮を誅殺した」としています。
 
[] 秦恵王が人を送り、楚懐王に武関の外の地(秦の丹、析、商於の地)と黔中の地(楚地)を交換するように求めました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記楚世家』は「秦が楚との和親を恢復するため、使者を送って漢中の半分を楚に分けることを伝えた」としています。
 
以下、『資治通鑑』からです。
楚王はこう答えました「領地を交換しようとは思わない。張儀を得ることができたら黔中の地を献上しよう。」
これを聞いた張儀は楚に行くことを希望しました。
秦王が言いました「楚が子(汝)に対して甘んじるはずがない(子を無事に帰らせることはない。原文「甘心於子」)。なぜ敢えて行くのだ?」
張儀が言いました「秦は強く楚は弱いので、大王がいれば楚が臣を取ることはありません。それに臣は楚王の嬖臣(寵臣)靳尚と親しくしており、靳尚は幸姫(寵姫)の鄭袖(または「鄭褏」)に仕えています。鄭袖の言を楚王が聞かないことはありません。」
 
史記楚世家』によると、この後、張儀は続けてこう言っています「かつて儀(私)が使者として楚に行き、商於の約束を破りました。今回また秦楚が大戦してますます関係が悪化しています。臣が自ら楚に謝罪しなければ解決しないでしょう。大王がいれば楚も儀を取ることはできません。もし儀が殺されたとしても、国のためになるのなら、それは臣の願いです。」
こうして張儀は楚に向かいました。
 
資治通鑑』に戻ります。
張儀が楚に行くと、楚王は張儀を捕えて処刑しようとしました。
靳尚が鄭袖に言いました「秦王は張儀を非常に愛しており、上庸春秋時代の庸国)六県と美女で贖おうとしています。王が領地を重視して秦を尊重したら、秦女が貴ばれて夫人(あなた)は遠ざけられることになるでしょう。」
この日から鄭袖は昼も夜も泣いて楚王に訴えました「臣はそれぞれ自分の主のために働くものです。もしも張儀を殺したら、秦は必ず激怒します。妾は子母と共に江南へ遷ることを望みます。秦の魚肉にはなりたくありません。」
楚王は張儀を釈放して厚く遇しました。
 
張儀が楚王に言いました「従者(合従を提唱する者)というのは、羊の群れを駆り立てて猛虎を攻めているようなものなので、敵わないのは明らかです。今、王が秦に仕えなかったら、秦は韓に迫り、梁(魏)を駆って、楚を攻めるでしょう。これは楚の危機となります。秦は西に巴蜀があるので、船を整えて粟(食糧)を集め、岷江を下れば、一日に五百余里を進み、十日も経たずに扞関(楚の西境)に至ります。扞関が震撼したら国境以東(楚全土)の城が守りを固めなければならず(それぞれが自分を守ることで精一杯なので)、黔中や巫郡(楚・秦国境付近)は王のものではなくなります。秦が甲兵を挙げて武関を出たら、北地(楚の北境。陳潁等)との交通が絶たれます。秦兵による楚攻撃は三カ月の間で危難を招きますが、楚が諸侯の救援を得るには半年以上待たなければなりません。弱国の救援を待って強秦の禍を忘れるという事態を、臣は大王に代わって心配しています。大王が臣の意見を聞くのなら、臣は秦楚を兄弟の国とし、互いに攻伐の必要がなくなるようにしてみせます。」
楚王は張儀を得たものの黔中の地を秦に譲りたくなかったため、張儀の意見に賛成して楚から去らせました。
 
史記楚世家』の記述は少し異なります
楚懐王は張儀に会おうともせず、捕えて殺そうとしました。
しかし張儀が秘かに靳尚と連絡を取ったため、靳尚が懐王に言いました「張儀を拘留したら秦王が必ず怒ります。天下が楚に秦のないことを知ったら(楚と秦の関係が悪化していると知ったら)、必ず王を軽視します。」
靳尚は夫人鄭袖にもこう言いました「秦王は張儀をとても愛しています。しかし王が張儀を殺そうとしているため、秦は上庸の地六県を楚に譲り、美人を楚王に嫁がせ、宮中で歌を得意とする者を媵(新婦に従って嫁ぐ女)にしようとしています。楚王は領土を重視し、秦女を貴ぶはずなので、夫人は遠ざけられるようになるでしょう。夫人は王に進言して張儀を釈放させるべきです。」
鄭袖が懐王に張儀の釈放を勧めたため、懐王は張儀を釈放して厚遇しました。
張儀は楚王に合従から離れて秦と和すように勧め、秦が楚と婚姻関係を結ぶことを約束しました。
暫くして張儀が楚を去りました。
その頃、楚の屈原が使者として斉に行っていました。帰国した屈原が楚王に「なぜ張儀を誅殺しないのですか」と進言します。
懐王は後悔して追手を送りましたが、追いつけませんでした。
 
 
 
次回に続きます。