第五十一回 董狐が直筆し、絶纓の大会を開く(二)

*今回は『東周列国志』第五十一回その二です。
 
趙盾は桃園の事件をいつも心に留めていました。
ある日、趙盾が歩いて史館を訪ね、太史・董狐に会って簡史書を求めました。董狐が史簡を持ってくると、こう明記されていました「秋七月乙丑(恐らく九月乙丑の誤り。二十六日)、趙盾がその君・夷皋を桃園で弑す(趙盾弑其君夷皋于桃園)。」
趙盾が驚いて言いました「太史、これは間違いだ!私は河東に出奔していた。絳城から二百余里も離れていたのだから、弑君の事は知らなかった。子(あなた)は罪を私に着せようとしているが、誣(誣告。冤罪、濡れ衣)ではないか!」
すると董狐はこう言いました「子は相国でありながら、出亡(出奔)しても越境せず、国に帰っても賊を討ちませんでした。それなのに子が主謀ではないと言っても、誰が信じるでしょう。」
趙盾が問いました「改めることができるか?」
董狐が言いました「是を是とし、非を非とする(是是非非)。これを信史と号します。私の頭は断つことができますが、この簡を改めることはできません。」
趙盾が嘆息して言いました「ああ(嗟乎)、史臣の権とは卿相よりも重いのか。私が国境を越えなかったために、万世の悪名から逃れられなくなってしまった。後悔してももう手遅れだ。」
 
この後、趙盾は成公に対してますます敬謹を加えました。
趙穿は自分の功を誇って正卿の位を求めました。しかし趙盾は公論を恐れて許可しません。趙穿は憤慨の末、背に疽(腫瘍)ができて死んでしまいました。趙穿の子・趙旃が父の職を継ぐことを願いましたが、趙盾はこう言いました「後日、汝が功を立てたら卿位を得るのも困難ではないだろう。」
後世の史臣は董狐の直筆のおかげで趙盾が趙穿父子を優遇しなかったとし、董狐を良史(優れた史家)として称賛しました。
周匡王六年のことです。
この年、匡王が死んで弟の瑜が立ちました。これを定王といいます。
 
 
周定王元年、楚荘王が兵を興して陸渾の戎を討ち、雒水を渡って周の境界で兵威を示しました。周の天子を脅して天下を分けようと考えています。
定王は大夫・王孫満を派遣して荘王を慰労させました。
荘王が問いました「大禹が九鼎を鋳造し、三代(夏・商・周代)に伝えられて世宝となり、今は雒陽にあると聞いた。鼎の形や大小、軽重はどのようなものだ。寡人に教えてほしい。」
王孫満が言いました「三代は徳によって継承してきたのです。大切なのは鼎ではありません。昔、禹が天下を擁した時、九牧(九州の長)が金を献上したので九鼎を鋳ました。しかし夏桀が無道だったため鼎は商に遷りました。その後、商紂も暴虐だったため、鼎はまた周に遷りました。もしも徳があれば、鼎は小さくても重くて動かせません。逆に徳がなければ、大きくても軽々と運べます。成王が鼎を郟雒陽)に定めた時、卜は三十世七百年と出ました。天命がまだ存在しているので、鼎の大小軽重を問うべきではありません。」
荘王は恥じ入って退き、この後、周を狙う野心を持たなくなりました。
 
 
楚の令尹・鬥越椒は荘王が令尹の政権を分散してから心中に恨みを抱き、王と対立するようになりました。また、鬥越椒は自分の才勇無双を自負しており、しかも先代の功労によって人民が信服していたため、以前から謀反の野心を抱き、こう言っていました「楚国の人才は司馬・伯嬴(蔿賈)一人だけだ。他は取るに足らない。」
荘王は陸渾を討伐した時、鬥越椒の謀反を恐れて蔿賈を国内に留めました。
しかし鬥越椒は荘王が自ら兵を率いて出征するのを見て、挙兵を決意します。
鬥越椒は本族の衆を動員するつもりでしたが、鬥克が従わなかったため殺しました。更に司馬・蔿賈も襲って殺します。蔿賈の子・敖は母を抱えて夢沢に逃走しました。
 
国都を出た鬥越椒は蒸野の地に駐軍し、帰国する荘王を迎撃しようとしました。
異変を知った荘王は昼夜兼行します。漳澨に接近した時、鬥越椒が兵を率いて道を塞ぎました。鬥越椒の軍威は極めて壮盛で、鬥越椒自ら弓や戟を持って本陣を駆けています。その様子を見た楚兵は恐れを抱きました。
そこで荘王が言いました「鬥氏は楚国において代々の功勲がある。伯棼(鬥越椒)が寡人を裏切ったとしても、寡人が伯棼を裏切ることはできない。」
荘王は大夫・蘇従を鬥越椒の陣営に派遣して講和を求めます。司馬を殺した罪を赦し、王子を人質として預けるという条件を出しました。
ところが鬥越椒は「わしは自分が令尹であることを恥だと思っているのだ。赦しを望んでいるのではない。戦う気があるのなら向かって来い」と答えました。蘇従が再三諭しても聞く耳を持ちません。
蘇従が去ると、鬥越椒は軍士に戦鼓を打たせて前進を始めました。
荘王が諸将に問いました「誰か越椒を退けられる者はいないか!」
大将・楽伯が声を上げて出撃しました。
鬥越椒の子・鬥賁皇が向かって来ました。楽伯は賁皇に敵いません。それを見た潘が急いで車を走らせて陣を出ました。すると更に越椒の従弟・鬥旗が車を駆けて応じます。
荘王は戎輅(兵車)の上で自ら袍(ばち)をとり、戦鼓を叩いて督戦しました。
鬥越椒が遥か遠くで荘王の姿を確認しました。鬥越椒は車を駆けさせて一直線に荘王に向かい、勁弓を引いて一矢を放ちます。矢は車轅(馬車と馬を繋ぐ部分)を飛び越えて鼓架の上に刺さりました。驚いた荘王は鼓槌を車の下に落としてしまいました。荘王が急いで矢から逃げるように叫び、荘公を守るために左右の各将が大笠を持って集まります。
鬥越椒が再び一矢を射ると、左の大笠を二つ射抜きました(原文「射箇対穿」。意訳しました)
荘王は急いで車の向きを変えさせ、金(鉦や鐘)を敲いて撤兵しました。
鬥越椒は勇を奮って追撃しましたが、右軍の大将である公子・側と左軍の大将である公子・嬰斉が両側から殺到したため、やっと兵を退きました。
楽伯と潘も金声を聞き、陣を棄てて退却します。
大きな損傷を被った楚軍は皇滸まで退いて営寨を築きました。
 
楚軍が鬥越椒の矢を見ると、長さは通常の矢の半倍1.5倍)もあり、矢羽は鸛翎(鸛は大きな水鳥。翎は羽)でできており、とても鋭利な豹の牙が鏃に使われていました。それを見た近臣は皆舌を出します(「吐舌」。驚き恐れる様子)
その夜、荘王自ら営内を巡視すると、軍卒が所々に集まってこう話していました「鬥令尹の神箭は恐ろしい。勝つのは難しいだろう。」
そこで荘王は近臣を送ってこういう噂を流しました「昔、先君・文王(楚)の時代に戎蛮が鋭利な箭(矢)を作った。それを聞いた文王が人を送って求めると、戎蛮は二本の箭を献上した。これを『透骨風』という。箭は太廟にしまわれたが、越椒に盗まれてしまった。しかし今回、二本とも既に射られたのでもう心配はない。明日、破ることができるだろう。」
噂を信じた兵達はやっと心を落ち着けました。
 
荘王は兵を隨国に退かせる命令を出してこう言いました「漢東漢水東)諸国の衆を動員して鬥氏を討とう。」
命令を聞いた蘇従が言いました「強敵が前にいるのに一度退いたら、敵に乗じられて王は計を失うことになるだろう。」
しかし公子・側がこう言いました「これは王の謬言(嘘)だ。我々が会いに行けば必ず別の指示があるはずだ。」
公子・側は公子・嬰斉と共に夜の間に荘王を訪ねました。荘王が言いました「逆椒の勢いは鋭いから、力で戦うのではなく、計を用いて勝利を得るべきだ。」
荘王は二将に計を与えて埋伏の準備をさせました。二将は納得して陣を出ます。
 
 
 
*『東周列国志』第五十一回その三に続きます。