第五十一回 董狐が直筆し、絶纓の大会を開く(三)

*今回は『東周列国志』第五十一回その三です。
 
翌朝、鶏が鳴き始めると荘王が大軍を率いて退走しました。
鬥越椒は状況を探って撤退が事実だと知り、兵を率いて追撃を始めます。
楚軍は昼夜休まず疾走して竟陵を越え、更に北上しました。
鬥越椒も一日一夜で二百余里を進み、清河橋に至ります。
楚軍は橋の北で朝食のために炊事を始めましたが、追手が迫っているのを見て、釜爨(食器)を棄てて遁走しました。
鬥越椒が軍令を出しました「楚王を捕えてから朝餐をとることを許す。」
疲労した鬥越椒の兵達は飢えも我慢しながら前進を続け、ついに楚の後隊を勤める潘の軍に追いつきました。
が車上に立って鬥越椒に言いました「吾子(汝)の志は王を取ることだ。なぜ速く追わない!」
鬥越椒は潘が好意で勧めたものと信じ、潘には構わず六十里進みました。青山で楚将・熊負羈に遭遇します。
鬥越椒が「楚王はどこだ?」と問うと、熊負羈が言いました「王はまだここまで来ていない。」
鬥越椒は疑って熊負羈に言いました「子(汝)がわしのために王を探すのなら、国を得てから、子と分けて治めることを約束しよう。」
熊負羈が言いました「子の衆は飢えて困窮しているようだ。まずは満腹にさせなければ戦えないだろう。」
鬥越椒は納得して車を止め、爨(かまど)を作らせました。しかし食事が出来る前に、公子・側と公子・嬰児が両側から殺到してきました。
鬥越椒の軍は戦う余裕がなく、南に撤退して清河橋まで戻ります。
すると橋は既に落とされていました。楚荘王が自ら兵を率いて橋の左右に潜み、鬥越椒が通りすぎるのを見届けて橋梁を断ったのです。帰路を失ったことに驚いた鬥越椒は左右の者に水の深さを調べさせ、渡河を計りました。
その時、対岸で砲声が響き、楚軍が河畔で叫びました「わしは楽伯だ!逆椒よ、速やかに馬から下りて縄に就け!」
鬥越椒は怒って対岸に矢を射させました。
 
楽伯の軍に一人の小校がおり、射芸に精通していました。姓を養、名を繇基といい、軍中では神箭養叔と称されています。
養繇基は自ら楽伯の前に進み出て鬥越椒と矢の腕を競うことを願いました。
養繇基が河口に立って大声で言いました「河がこのように広いのだから箭(矢)は届かないだろう!令尹は射術が得意だと聞いた。技を較べようではないか!橋堵(橋頭。橋の端)の上に立ち、それぞれ三矢を射て死生を命(天命)に委ねよう!」
鬥越椒が「汝は何者だ!」と問うと、養繇基が言いました「私は楽将軍の部下、小将・養繇基だ!」
鬥越椒は相手が無名な小将だと知って侮り、こう言いました「汝がわしと箭を較べたいのなら、先にわしに三矢を射させよ!」
養繇基が言いました「三矢といわず百矢を射られても、私が恐れることはない!身体をかわしたら好漢ではない!」
両軍は後隊の動きを止めさせました。二人が橋の南北に立ちます。
鬥越椒が弓を引いてまず一矢を射ました。養繇基の頭を川に落とそうという殺気に満ちています。しかし「慌てる者はできず、できる者は慌てない(忙者不會,會者不忙)」という言葉通り、養繇基は飛んで来た矢を見届けると、弓梢(弓の端)を使って冷静に払い落しました。矢は川に落ちます。
養繇基が叫びました「速く射よ(快射,快射)!」
鬥越椒は二本目の矢を弓弦に乗せ、しっかり狙いを定めて放ちました。しかし養繇基がその場に跪いたため、矢は頭上を飛んでいきます。
鬥越椒が叫びました「汝は身をかわしてはならないと言ったではないか!なぜ跪いて箭をかわしたのだ!丈夫ではないのか!」
養繇基が言いました「まだ一箭があるだろう。今度は逃げない。しかしこの一箭も中らなかったら、私が射る番だ!」
鬥越椒は「彼が逃げなければ、この箭は間違いなく命中する」と考え、三本目の矢を手に取ると、狙いを絞って放ちました。鬥越椒が「中った!」と叫びます。
一方の養繇基は両足を踏みしめて立ったまま、身体を動かすことなく、矢が迫ると口を大きく開けました。鏃が養繇基に咬まれて止まります。
鬥越椒は三本の矢を命中させることができなかったため焦りを覚えていましたが、大丈夫としての約束が前にあるので、信を失うわけにはいきません。そこでこう叫びました「汝にも三箭を射させてやろう。もし中らなかったら、またわしが射る。」
養繇基が笑って言いました「三箭を使ってやっと命中させるのは初学の者だ。私は一箭だけでいい。あなたの性命は私の手中にある!」
鬥越椒が言いました「大言を吐くからには少しでも本事(能力)があるのだろう。思うように射てみよ。」
鬥越椒は心中でこう考えています「一箭だけで命中できるはずがない。もし一発目が中らなかったら、一喝してやろう。」
鬥越椒は胆を大きくして養繇基の矢を待ちます。養繇基の矢が百発百中だとは思いもよりません。
養繇基は矢を手に取ると「令尹よ、箭を見よ!」と叫び、弓を引いて手を放しました。しかし矢は放たれていません。鬥越椒は弓弦が響く音を聞くと、「箭が来た」と言って身体を左にひねりました。
養繇基が言いました「箭はまだ私の手にあり、弓にも乗せていない。矢を避けたら好漢ではないと言ったはずだ。あなたはなぜ避けたのだ?」
鬥越椒が言いました「人が逃げるのを恐れるようでは、射術ができるとは言えない(わしが逃げなかったら中ると思っているのか。原文「怕人閃的,也不算会射」)!」
養繇基は再び弓を引いて弦を響かせました。今回も矢はありません。しかし鬥越椒は今度こそ矢が放たれたと思って右に身体を倒します。養繇基はその一瞬を狙って手に持っていた一矢を放ちました。鬥越椒はそれに気付かず、矢から逃げる間もありません。矢は頭を貫きました。
憐れな鬥越椒は楚国の令尹を数年勤めましたが、ここにおいて小将・養繇基の一箭によって命が尽きました。
 
鬥家の軍は飢えと疲労に苦しんでいます。主将が矢に中るのを見ると驚いて四散しました。楚将の公子・側と公子・嬰斉が路を分けて追撃し、死体が山のように積まれ、血が河を紅く染めました。
鬥越椒の子・鬥賁皇は晋に走りました。晋侯が大夫に任命して苗(地名)を食邑として与えたため、苗賁皇と名乗るようになりました。
 
大勝した荘王は撤兵を命じました。捕虜になった者は軍前で斬首されます。
郢都に凱旋してから、鬥氏の宗族が老若を問わず殺されました。しかし鬥班(鬥般)の子・克黄は箴尹の官に就いており、これ以前に荘王の命によって斉と秦を聘問していたため、処刑を免れました。鬥克黄は斉から戻って宋国まで来た時、鬥越椒の乱を知ります。左右の近臣が「国に帰るべきではありません」と言いましたが、鬥克黄はこう言いました「国君とは天と同じである。天命を棄てることができるか。」
鬥克黄は急いで郢都に帰って復命すると、自ら司寇(法官)を訪れてこう言いました「私の祖父・子文はかつて『越椒には反相がある。主となったら必ず族を滅ぼす』と警告し、臨終の際に私の父に他国へ逃げるように勧めた。しかし私の父は代々楚の恩を受けていたため、他国に逃げることが忍びず、越椒のために誅殺された。今日、祖父の言葉の通りになってしまった。私は不幸にも逆臣の一族であり、また、不幸にも先祖の訓(警告)に逆らったので、今日の死は当然なことだ。刑から逃げるつもりはない。」
これを聞いた荘王は感嘆して「子文はまさに神人だった。しかも楚を治めた功は大きい。その子孫を絶やしてはならない」と考え、鬥克黄の罪を赦してこう言いました「克黄は死ぬと分かっていて刑から逃げなかった。忠臣である。」
鬥克黄は元の官に戻され、鬥生に改名しました。死から生を得たことを示します。
 
荘王は養繇基の一箭の功を称賛して厚く賞賜を与え、親軍の将として車右の職を任せました。
令尹に任命するのに相応しい人材が見つかりませんでしたが、沈尹・虞邱が賢人だと聞き、暫定的に国事を委ねました。
 
 
 
*『東周列国志』第五十一回その四に続きます。