第五十一回 董狐が直筆し、絶纓の大会を開く(四)

*今回は『東周列国志』第五十一回その四です。
 
荘王は戦勝を祝うために漸台に群臣を招いて大きな宴を開きました。全ての妃嬪も従います。
荘王が言いました「寡人が鐘鼓を置かなくなって既に六年が経つ。今日、やっと叛臣が首を授け、四境を安靖にさせることができた。よって諸卿と一日の遊を共にしたいと思う。これを『太平宴』と名付ける。文武大小の官員は皆席に就き、歓びを尽くせ。」
群臣は再拝してから序列に順じて席に座りました。庖人が食事を運び、太史が音楽を奏でます。
日が西山に落ちても歓興が尽きないため、荘王は蝋燭を点すように命じて宴を続けました。
荘王が寵愛する許姫・姜氏に命じて諸大夫に酒を注がせました。群臣は席に立って酒を飲みます。その時、突然一陣の怪風が吹き、堂内の蝋燭の火を全て消してしまいました。左右の近臣が火を取りに行きましたが、その隙に事件が起きます。群臣の一人が許姫の美貌を見て、暗闇の中で秘かに袂を引きました。許姫は左手で袂を振り払うと、右手でその男の冠纓(冠の紐。顎の下で結びます)をつかみます。冠纓が切れたため男は驚いて手を放しました。
許姫は纓を手に持ったまま早足で荘王の前に戻り、耳元でこう言いました「妾(私)は大王の命を奉じて百官に酒を勧めました。しかしこの中の一人が無礼を行い、燭が消えた隙に妾の袖を無理に引きました。妾はその者の纓をつかみ取ってきたので、王は速く火を点けさせて調べてください。」
すると荘王は火を取りに行った者に向かって急いでこう命じました「暫く火を点してはならない。寡人の今日の会は、諸卿と歓びを尽くすと約束した。諸卿は纓をとって痛飲せよ。纓者をとらない者は歓んでいないとみなす。」
こうして百官が纓を取り外してから蝋燭に火が点けられました。誰が許姫の袖を引いたのかは分かりません。
宴が終わって王宮に帰ると、許姫が荘王に言いました「『男女の関係は犯してはならない(男女不瀆)』といいます。君臣の間ならなおさらこれを守るべきでしょう。今回、大王は妾に命じて諸臣に觴(酒)を献じさせました。これは敬を示すためです。しかし妾の袂を引いたのに王は追及しませんでした。これでどうして上下の礼を厳粛にし、男女の別を正すことができるのでしょうか。」
荘王が笑って言いました「これは婦人に分かることではない。古の礼においては、君臣の享(宴)では三爵(酒三杯)を越えることがなく、宴は昼だけに行って夜まで続けることはなかった。しかし今回、寡人は群臣に歓を尽くさせるために継続して燭を点させた。酒の後に狂態があるのは人の常である。もしその罪を追及したら、婦人の節は明らかにできても国士の心を損ない、群臣が楽しめなくなる。これは寡人が出した令の意思に背くことだ。」
許姫は感嘆して服しました。この宴は後世「絶纓会」とよばれるようになります。
 
ある日、荘王が虞邱と政治を論じで夜になりました。遅い時間に王宮に戻った荘王に夫人・樊姫が問いました「今日は朝廷で何かあったのですか?なぜこれほど遅くなったのですか?」
荘王が言いました「寡人は虞邱と政治を論じており、時間が遅くなったことに気がつかなかった。」
樊姫が問いました「虞邱とはどのような人物ですか?」
荘王が言いました「楚の賢者だ。」
すると樊姫が言いました「妾が見るに、虞邱は賢人とはいえません。」
荘王が逆に問いました「子はなぜ虞邱が賢人ではないと分かるのだ?」
樊姫が言いました「臣下が国君に仕えるのは、婦人が夫に仕えるのと同じです。妾は中官を任せられおり、宮中で美色の者がいたら、必ず王の前に進めています。今、虞邱は王と政治を論じて夜に至るほどですが、一人の賢者を進めたという話も聞いたことがありません。一人の智には限りがあります。しかし楚国の士は無窮です。虞邱は一人の智に頼って無窮の士を覆い隠そうとしていますが、これを賢人といえるでしょうか?」
納得した荘王は、翌朝、樊姫の言を虞邱に伝えました。
虞邱が言いました「臣の智はそこまで及びませんでした。すぐに考えます。」
虞邱は群臣を訪ね回って賢人を探しました。その結果、鬥生が蔿賈の子・蔿敖を推薦してこう言いました「鬥越椒の難を避けて夢沢に隠居しています。彼には将相の才があります。」
虞邱がそれを荘王に話すと、荘王は「伯嬴(蔿賈)は智士であった。その子も非凡なはずだ。子の言がなかったら忘れるところだった」と言い、すぐに虞邱と鬥生を夢沢に送って蔿敖を入朝させました。
 
蔿敖は字を孫叔といい、人々は孫叔敖と呼んでいました。母を連れて難から逃れ、夢沢に住んで農業で自給自足していました。
ある日、鋤を背負って出かけると、田の中に両頭の蛇がいるのを見つけました。孫叔敖が驚いて言いました「両頭蛇は不祥の物で、見た者は必ず死ぬという。私はそれに遭ってしまった。」
しかしすぐにこう考えました「もしもこの蛇を生かしておいたら、後の人がまた蛇を見て命を失うことになるだろう。私が一人で背負うことにしよう。」
孫叔敖は鋤で蛇を殺し、田のわきに埋めました。
その後、走って帰って母の前で泣きました。母が理由を問うと孫叔敖が言いました「両頭蛇を見た者は必ず死ぬといいます。児(私)は今日それを見てしまったので、恐らく母を養うことができなくなりました。これを悲しんでいるのです。」
母が問いました「今、蛇はどこですか?」
孫叔敖が言いました「後の人がまた蛇を見るのではないかと心配し、既に殺して埋めました。」
すると母はこう言いました「人に一念の善があれば、必ず天が祐(守り)を与えます。汝は両頭蛇を見ましたが、後人に禍が及ぶことを恐れ、殺して埋めました。この善は一念に留まりません。汝は死ぬことなく、逆に福を得ることになります。」
数日後、虞邱等が荘王の命を奉じて孫叔敖を迎えに来ました。
母が笑って言いました「これは蛇を埋めた報いでしょう。」
孫叔敖と母は虞邱に従って郢に帰りました。
 
孫叔敖を接見した荘王は終日語り合い、喜んでこう言いました「楚国の諸臣で卿に並ぶ者はいない。」
即日、孫叔敖を令尹に任命します。しかし孫叔敖が辞退して言いました「臣は田野から出て来たばかりです。突然、大政を執っても誰が服すでしょう。諸大夫の後に従わせてください。」
荘王が言いました「寡人は卿を理解している。卿は辞退するな。」
孫叔敖は再三謙讓してから令尹の職を受け入れました。
 
楚国の軍制では、軍行(行軍。軍の行動)には軍右と軍左がありました。軍右は馬車を整えて戦闘に備え、軍左は草蓐(食糧)を準備して露営に備えます。また、前茅慮無、中権後勁という決まりがありました。前茅慮無というのは、旌幟を前に置き、偵察して敵の有無を見極めてから謀を練ることです。中権というのは、権謀は全て中軍から出され、周りの影響を受けないことを指します。後勁というのは、勁兵(強兵)が後殿しんがりとなり、戦が始まったら奇兵として用いられ、帰還する時には後ろを断つために用いられることを意味します。
王の親兵は二広に分けられます。それぞれの広に車十五乗が配置され、一乗に歩卒百人が従い、その後ろに二十五人が遊兵として続きます。右広は丑、寅、卯、辰、已の五時(午前一時から十一時まで)を、左広は午、未、申、酉、戌の五時(午前十一時から午後九時まで)を担当し、毎朝鶏が鳴く頃になると右広が馬車を準備して軍装し、日中(正午)になると左広と交代して、黄昏に軍装が解かれます。
亥・子の二時(夜九時から一時)の間は内宮が班を作って巡視し、異変に備えました。
荘王は虞邱を中軍の将に、公子・嬰斉を左軍の将に、公子・側を右軍の将に、養繇基を右広の将に、屈蕩を左広の将に任命しました。四時(四季)の蒐閲(狩猟・閲兵。軍事訓練)ではそれぞれが常典(通常の軍法)に従って行動します。三軍は厳粛になり、百姓は悩みがなくなりました。
また、芍波(芍陂。堤防)を築いて水利を興しました。六国と蓼国の境で万頃の地が灌漑され、民は荘王を褒め称えます。
荘王が孫叔敖を重用し始めた時、楚の諸臣は心中不服でしたが、孫叔敖の政治が理にかなっているのを見て、誰もが嘆息して言いました「楚国には幸があり、このような賢臣を得ることができた。子文がまた現れたのだ。」
かつて令尹・子文も善政によって楚国を治めたため、孫叔敖は子文の再生とされました。
 
 
この頃、鄭で穆公・蘭が死に、世子・夷が即位しました。これを霊公といいます。
公子・宋と公子・帰生が政治を行いましたが、晋・楚の間で関係を保って態度をはっきりさせませんでした。
そこで楚荘王が孫叔敖と共に鄭討伐の相談をしました。すると突然、鄭霊公が公子・帰生に弑殺されたという報告が届きます。
荘王が言いました「鄭討伐に名分ができたぞ。」
 
果たして帰生は如何して国君を弑殺したのか、続きは次回です。