第五十八回 魏相が医者を迎え、養叔が芸を献じる(四)

*今回は『東周列国志』第五十八回その四です。
 
翌日五鼓(午前三時から五時。早朝)、両軍が戦鼓を敲いて兵を進めました。
晋の上軍元帥・郤錡が楚の左軍を攻め、公子・嬰斉に対します。下軍元帥・韓厥が楚の右軍を攻め、公子・壬夫に対します。欒書と士燮はそれぞれ自分が率いる車馬を指揮して中軍で厲公を守り、楚共王と公子・側に対します。
晋厲公の車は郤毅が御し、欒鍼が車右将軍になり、郤至等が新軍を率いて後隊として続きました。
楚共王も出陣しました。本来、午前は右広に乗ることになっていましたが、右広は養繇基が将だったため、共王は射術の腕を自慢している養繇基を嫌い、右広を用いず左広に乗りました。彭名が御し、屈蕩が車右将車になります。鄭成公が本国の車馬を率いて後隊として続きました。
 
晋厲公は頭に沖天鳳翅盔を被り、体に蟠龍紅錦戦袍をまとい、腰に宝剣を掛け、手に方天大戟を持ち、金葉(黄金の薄片)に包まれた戎輅(兵車)に乗っています。右に欒書、左に士燮を従え、軍門を開いて楚陣に殺到しました。
ところが陣前に泥淖(泥沼)がありました。黎明だったためよく見えず、晋侯の車を勇猛に御していた郤毅が車輪を泥淖に落としてしまいます。馬が動けなくなりました。
楚共王の子熊茷は若くで勇を好んだため、前隊を指揮していました。遠くで晋侯の車が動けなくなっているのを見つけると、飛ぶように車を駆けさせて接近します。
その時、欒鍼が急いで車から飛び降り、泥淖の中に立って日頃の気力を出し尽くしました。両手で両方の車輪を持ち上げたため、車が浮いて馬が動き出し、一歩一歩進んで泥淖からなんとか抜け出します。
熊茷が到着した時、欒書も軍馬を率いて到着し、大喝して言いました「小将に無礼はさせない!」
熊茷は旗の上に「中軍元帥」と書かれているのを見て大軍が来たと判断します。驚いて車を返しましたが、欒書に追いつかれて生け捕りにされました。
熊茷が捕らえられたため、楚軍が一斉に救援に向かいました。しかし士燮が兵を率いて殺到し、後隊の郤至等もそろったため、楚兵は埋伏を恐れて営内に引き返しました。
晋兵も追撃せずそれぞれ営寨に戻ります。
 
晋の哨馬が「楚の左軍は慎重で動きません」と報告したため、晋の上軍は交戦しませんでした。
下軍は楚の右軍と二十余合戦い、双方に死傷者が出ました。
晋・楚両軍は勝負がつかず、翌日の再戦を約束します。
 
欒書が戦功を報告して熊茷を献上しました。晋侯は斬首しようとします。
しかし苗賁皇が言いました「楚王は自分の子が捕虜になっていると知れば、明日、必ず自ら出撃します。囚(捕虜)の熊茷を軍前に置いて誘い出すべきです。」
晋侯は納得して「善し」と言いました。
その夜は何も起きずに時が過ぎます。
 
黎明、晋の欒書が営門を開いて戦いを挑みました。
大将・魏錡が欒書に言いました「私は昨夜、夢で天上に一輪の明月が出ているのを見ました。そこで弓を引いて矢を射てみると、矢は月の中心に命中しました。矢が刺さった月から一筋の金光が放たれ、まっすぐ下に延びて来ます。慌てて後ろにさがったところ、思わず足元を狂わせて営前の泥淖に落ちてしまいました。そこで驚いて目が覚めましたが、これは何の兆でしょう。」
欒書が解説して言いました「周と同姓の者(晋等の諸侯)は日を指し、異姓の者(楚等の諸侯)は月を指します。月を射て命中したというのは、楚君のことに間違いありません。しかし泥淖は泉壤の中(泉下。地下。あの世)を象徴するので、退いて泥に入ったというのは吉兆ではありません。将軍は用心するべきです。」
魏錡が言いました「楚を破ることができるのなら死んでも恨みはありません。」
欒書は魏錡の出陣を許可しました。
 
楚将の工尹・襄が真っ先に陣を出ました。
数合も戦わないうちに晋兵が囚車を出し、陣前で往来させます。
楚共王は子の熊茷が晋陣の前で捕えられているのを見て、心に火が点いたように焦り、急いで彭名に命じて馬に鞭打たせました。共王の車が囚車を奪うために前進します。
遠くからそれを見つけた魏錡は尹襄(工尹・襄)を棄てて楚王に迫り、一本の矢を構えて放ちました。矢は共王の左眼に命中します。
潘党が力戦して楚王を守り、車を引き返させました。楚王が痛みを堪えて矢を抜き取ると、瞳子(眼球)が鏃についてはずれてしまいました。共王は地面に投げ捨てます。しかし小卒が拾い上げて献上し、「これは龍睛です。軽々しく捨ててはなりません」と言いました。
楚王は受け取って箭袋にしまいました。
 
晋兵は魏錡が利を得たのを見て一斉に襲いかかりました。公子・側が兵を率いて必死に抵抗し、なんとか楚共王を脱出させます。
郤至が鄭成公を包囲しましたが、成公の御者が大旌(大旗)を弓衣(弓袋)の中に隠したため、成公も脱出できました。
 
この時、激怒した楚王が神箭将軍・養繇基に救援を命じました。それを聞いた養繇基は急いで駆けつけましたが、一本の矢も持っていません。
楚王が二本の矢を抜き出してこう言いました「寡人を射た者は緑袍を着た虯髯(巻鬚)の者だった。将軍は寡人のために仇に報いよ。将軍の絶芸があれば、多くの矢を費やすことはなかろう。」
養繇基は矢を受け取ると車を駆けさせて晋陣に入りました。すぐに緑袍を着た虯髯の者を見つけます。魏錡と知って大声で罵りました「匹夫に何の本事(能力)があって我が主に矢傷を負わせたのだ!」
魏錡が応えようとした時には、養繇基の矢が既に放たれ、魏錡の首の下に刺さりました。魏錡は弓衣に伏せて死にます。
欒書が軍を率いて魏錡の死体を奪取しました。
 
戻った養繇基は残りの一矢を楚王に還してこう言いました「大王の威霊のおかげで緑袍虯髯の将を殺すことができました。」
喜んだ共王は自ら錦袍を脱いで下賜し、更に狼牙箭百本を与えました。養繇基は軍中で「養一箭」と呼ばれるようになります。二本目の矢を必要としないという意味です。
 
晋兵が楚兵を執拗に追撃しましたが、養繇基が陣前で矢を抜いて弦を引くと、追撃して来た晋兵が次々に倒されました。晋兵は敢えて近づこうとしなくなります。
楚将・嬰斉と壬夫が楚王の負傷を聞き、それぞれ兵を率いて駆けつけました。両軍混戦の末、晋兵はやっと引き上げました。
欒鍼は遠くに令尹の旗号を見つけ、公子・嬰斉の軍だと知って晋侯にこう言いました「臣はかつて命を奉じて楚に行きました。楚の令尹・子重が晋国の用兵の法を尋ねたので、臣は『整・暇』の二文字で答えました。今、混戦のため『整』を見ることができず、それぞれ引き返す様子にも『暇(余裕)』がありません。臣が行人を派遣して飲物を献上させ、昔日の言を実践することをお許しください。」
晋侯は「善し」と言って同意します。
欒鍼は行人に酒榼(酒器)を持たせて嬰斉の軍に派遣し、こう伝えました「寡君は人材に欠如しているため、鍼(欒鍼)に矛を持たせて車右としました。よって自ら(嬰斉の)従者を労うことができません。そこで某(私)に代わって(行人を派遣して)一觴(一杯)を献上することにしました。」
嬰斉は「整・暇」の言を実現させたと悟って嘆息し、「小将軍はよく物事を覚えている」と言いました。
嬰斉は酒榼を受け取り、使者の方を向いて飲み干してから、こう言いました「来日(明日。後日)、陣前で直接謝意を伝えよう。」
 
行人が帰って報告すると欒鍼が言いました「楚君が矢に中ったのにその師はまだ引き上げようとしない。どうするべきだ。」
苗賁皇が言いました「車乗を蒐閲(閲兵。ここでは精鋭を選ぶこと)し、士卒を補充し、秣馬厲兵し(馬に餌を与え、武器を磨き)、陣を整えて隊列を固め、雞(鶏)が鳴いて(朝が来て)食事を充分取ってから死戦を決すれば、楚を畏れる必要はありません。」
この時、魯・衛に出兵を求めに行った郤犨と欒黶が帰ってきました。二国がそれぞれ兵を発し、既に二十里まで迫っていると報告します。
この動きは楚の間諜も知りました。
報告を聞いた楚王が驚いて言いました「晋兵だけでも多いのに魯と衛も来た。どうするべきだ。」
楚王は近臣を送って中軍元帥を勤める公子・側を呼び出します。
 
この後の事がどうなるか、続きは次回です。