戦国時代99 東周赧王(三十七) 范睢の報復 前266年

今回は東周赧王四十九年です。
 
赧王四十九年
266年 乙未
 
[] 秦が魏の邢丘(または「丘」「廩丘」)を攻略しました。
これは『資治通鑑』の記述で、『史記・范睢列伝(巻七十九)』と『六国年表』を元にしています。『秦本紀』は「夏、魏を攻めて邢丘と懐を取った」としています。懐に関しては二年前にも書きました。
 
[] 秦王はますます范睢を信任し、政治を行わせるようになりました。
そこで范睢が機会を伺って秦王に言いました「臣が山東に住んでいた頃、斉には孟嘗君がいると聞いたことがあっても王がいると聞いたことはありませんでした。そして秦も、太后と穰侯(魏冉)がいると聞いたことがあっても、王がいるとは聞いたことがありませんでした。国を専断する者を王といい、利害を決することができる者を王といい、殺生の権利を制する者を王といいます。しかし今の秦では、太后は勝手にふるまって王を顧みず、穰侯は国外に出ても報告せず、華陽君と涇陽君は事を決断するのにはばかるものがなく、高陵君は進退を自由に決して王に許可を求めることがありません。このような四貴(下述)がそろっているのに、国を危うくしなかった者は今まで存在せず、(国民が)四貴の下にいたら、王がいないのと同じです。穰侯は王の重権を操っており、使者を派遣して諸侯を制する決定を行い、剖符(穣侯の使者が諸侯に送った符)が天下に遍いています(諸侯は穣侯の指示を聞いています)(穣侯が)敵国を討伐したら、従わない者はいません。しかももし戦に勝って利を得たら、全て陶(穰侯の封邑)に入れています。逆に戦に敗れて百姓の怨みを招いたら、禍を社稷に帰させています(勝っても利は魏冉が独占し、負けたら国の禍となります)。木の実が繁茂しすぎたら枝を折り、枝が折れたら心(木の根幹)を損なうといいます。都(邑)を大きくしたら国を危うくし、臣下を尊んだら主の地位を低くします。淖歯が斉を管轄した時(東周赧王三十一年284年)は、斉王の股に矢を射て筋を抜き、廟の梁に懸けて一晩かけて(斉王を)死に至らしめました。李兌が趙で政治を行った時は、主父を沙丘に閉じ込めて百日かけて餓死させました(赧王二十年295年)。今、臣が四貴の用事(政治を行う様子)を見たところ、淖歯や李兌の類と違いがありません。三代が国を亡ぼしたのは、国君が臣下に専政させて酒や弋猟(狩猟)に明け暮れ、政権を授かった者は賢能に嫉妬し、下の者を制して上の者を偽り、私利だけを計ったからです。彼等は主のために計ることなく、主も悟ることがありませんでした。だから国を失ったのです。今は秩がある小官から諸大吏(左中更以上の大官)及び王の左右にいる者まで、全て相国(魏冉)の人です。王が一人で朝廷に立っているのを見て、臣はいつも心配しています。万世の後(王の死後)、秦国を有すのは王の子孫ではなくなるでしょう。」
納得した秦王は太后を廃し、穰侯、高陵君、華陽君、涇陽君を関外に追放しました。
范睢が丞相になり、応侯に封じられます。
資治通鑑』胡三省注によると、応はかつて西周武王の子が封じられた国です。
 
四貴について簡単にまとめます。
穣侯(魏冉)は宣太后の異父同母弟で、華陽君(羋戎)は宣太后の同父同母弟です。
涇陽君(公子・市。『資治通鑑』胡三省注では悝)と高陵君(公子・悝。『資治通鑑』胡三省注では顕)は昭襄王の同母弟で、父は恵文王、母は宣太后です。
太后の血縁者である四貴を倒して范雎が政治の中心に座ることになったこの事件は、秦の王族外戚から政治権力を奪い、王権を拡大して中央集権を強化させる大きなきっかけとなりました。
秦帝国の基盤が築かれていきます。
 
[] 秦が韓と魏に兵を向けようとしました。それを聞いた魏王は須賈を使者にして秦に派遣しました。
須賈は秦相に会う必要があります。秦相は范雎ですが、范睢は魏を出た時から張禄と名乗っていたため、魏人は范睢が既に死んだと思っています。
 
以下、范睢の復讐を『史記范睢列伝(第七十九)』と『資治通鑑』からです。
須賈が来たと知った范睢はわざと敝衣(破れた古い服)を着て、歩いて須賈が住む客館に行きました。
須賈が驚いて言いました「范叔(叔は范睢の字)に変わりはないか(無恙乎)?」
范雎は「はい(然)」と答えます。
須賈が笑って言いました「范叔は秦で遊説しているのか?」
范睢が言いました「いいえ。雎(私)は以前、魏相の罪を得てここまで逃げてきました。遊説などできません。」
須賈が問いました「それでは、今は何をやっているのだ?」
范雎は「人の庸賃(使用人)をしています」と言いました。
須賈は范睢が憐れに思えたため、客館に留めて共に座り、飲食をふるまいました。
須賈は「范叔はいつもそのように寒そうな姿をしているのか」と言うと、一着の綈袍(繒袍。綿の服)を取り出して范睢に与えました。
須賈が問いました「秦相の張君は公(汝)も知っているであろう。彼は王に寵信されており、天下の事は全て相君が決めていると聞いた。私の事がうまくいくかどうかも張君しだいだ。孺子(若者。汝)には相君と親しい客(知り合い)がいないか?」
范雎が言いました「主人翁(范睢の主人)がよく知っているので雎も謁見できます。雎があなたを張君に会せましょう。」
須賈が言いました「私の馬は病にかかり、車軸も折れてしまった。私は大車駟馬(四頭の馬が引く大車)でなければ外出する気がない。」
范雎が言いました「あなたのために主人翁から大車駟馬を借りてきましょう。」
范雎は大車駟馬を準備して戻ると、須賈を車に乗せました。范睢が御者になります。
 
二人が秦の相府に到着すると、府中の人々が范睢を避けました。その様子を見た須賈は不思議に思いました。
相舍の門についた時、范睢が須賈に言いました「ここで私を待っていてください。私が先に入って相君に報告します。」
須賈は門の前で待ちました。しかし長い間待っても誰も出てきません。
そこで門下(門衛)に聞きました「范叔が出てこないが、なぜだ?」
門下が言いました「范叔という者はいない。」
須賈が言いました「先ほど私を馬車に乗せてここに連れてきて、門を入った男だ。」
門下が言いました「あれは我が国の相張君だ。」
須賈は騙されたと知って驚愕し、肉袒膝行(上半身を裸にして膝で歩くこと)しました。門下を通して謝罪を請います。
そこで范雎は帷帳を張り、多くの侍者を集めてから須賈を接見しました。
須賈は頓首して死罪を謝り、こう言いました「あなたが自らの能力で青雲の上に至ったとは思いもよりませんでした。賈(私)は今後、天下の書を読まず、天下の事に参画することもありません。賈には湯鑊(煮殺すこと。死刑)の罪がありますが、どうか胡貉の地に捨ててください。生も死もあなた次第です。」
范雎が問いました「汝にはいくつの罪がある?」
須賈が答えました「賈の髪を抜いて罪を数えてもまだ足りないくらいです。」
范雎が言いました「汝には三つの罪がある。昔、楚昭王の時代、申包胥が楚のために呉軍を退けたので、楚王は彼に荊(楚)の五千戸を封じた。しかし包胥は辞退した。彼の丘墓(先祖の墓陵)が荊にあったからだ(先祖の墓陵が楚にあったから呉軍を退けたのであって、封地が目的だったのではない)。今、雎の先人の丘墓も魏にある。しかし公(汝)は雎が魏に対して外心を持ち、斉と通じていると疑って魏斉に讒言した。これが一つ目の罪だ。魏斉が私を厠に捨てて辱めた時、それを止めなかった。これが二つ目の罪だ。酔って私に小便を浴びせた時、公は忍びないと思わなかった。これが三つ目の罪だ。しかし公が死から免れられるのは、わしに綈袍を贈り、わずかでも故人の意(旧知としての情)が残っていたからだ。だから公の命は助けてやろう。」
須賈は范雎に謝意を述べました。
 
范雎が宴席を設けて諸侯の賓客を集めました。范睢と賓客は堂の上に座って御馳走を食べます。
しかし須賈は堂下に座らせました。莝(切り刻んだ藁)や豆(どちらも馬の餌)を与え、二人の黥徒(刺青の刑に処された囚人)が須賈をはさんで馬のように食べさせます。
范睢が須賈に言いました「魏王にこう伝えよ。速やかに魏斉の頭を斬って持って来い。逆らったら大梁を屠す(皆殺しにする)。」
帰国した須賈が魏斉に報告しました。
魏斉は趙に逃走して平原君趙勝(恵文王の弟)の家に隠れました。
 
范雎が秦で相になってから、王稽がこう言いました「事象には予期できないことが三つあり、手の打ちようがない事も三つあります。ある日突然、宮車が晏駕するかもしれません(「宮車晏駕」とは国君の車がいつも通りに出発しないという意味で、国君の死去を指します)。これが予期できないことの一つ目です。あなたが突然、館舍を捨てる(死ぬという意味です)ことになるかもしれません。これが二つ目です。使臣(使者。王稽)が突然、溝壑を埋める(これも死ぬという意味です)ことになるかもしれません。これが三つ目です。ある日突然、宮車が晏駕した時、あなたが臣に対して後悔しても(王が死んでしまった時、まだ王稽の恩に報いていなかったことを後悔しても)、どうしようもありません。あなたが突然、館舍を捨てることになった時、あなたが臣に対して後悔してもどうしようもありません。使臣が突然、溝壑を埋めることになった時、あなたが臣に対して後悔してもどうしようもありません。」
納得した范雎が秦王に進言しました「王稽の忠がなかったら臣が函谷関に入ることはできず、大王の賢聖がなかったら、臣がこのように尊貴な位に就くこともできませんでした。今、臣の官は相に上り、爵も列侯に位置しています。しかし王稽の官はまだ謁者のままです。これは臣を国に入れた彼の本意ではありません。」
秦王は王稽を召して河東守に任命し、三年間は上計(政治、経済に関する報告)を免除しました。
范睢は鄭安平も推挙しました。秦王は将軍に任命します。
 
范雎は家の財物を投じて困窮していた時に自分を助けた者に恩返しをしました。たとえ一飯の恩を受けただけでも必ず報います。逆に少しでも怨みがある者には必ず復讐しました。
 
[] 趙恵文王が在位三十三年で死に、太子丹が立ちました。孝成王といいます。
 
資治通鑑』はここで趙が平原君趙勝を相にしたと書いていますが、『史記六国年表』では翌年の事としています。
『趙世家』には記述がなく、『平原君列伝(巻七十六)』には「平原君は趙恵文王と孝成王の相となり、三回、相を去って、三回、復位した」とありますが、具体的な年は書かれていません。
 
[] 『史記魏世家』にこの頃の魏に関する出来事が書かれていますが、具体的にいつの事かははっきりしません。別の場所で紹介します。

戦国時代 魏の出来事(1)

戦国時代 魏の出来事(2)

 
 
 
次回に続きます。