第六十九回 楚霊王が陳蔡を滅ぼし、晏平仲が荊蛮を服す(二)

*今回は『東周列国志』第六十九回その二です。
 
即日、蔡侯が車を発して申に至り、霊王に謁見しました。
霊王が言いました「この地で別れてから既に八年になる。貴君の豊姿(優雅な様子。立派な姿)が以前と変わらないのは喜ばしいことだ。」
蔡侯が言いました「般(私)は上国(貴国)のおかげで盟籍に収められ、君王の霊(福)によって敝邑を鎮撫できました。その感恩は浅くありません。君王が商墟(恐らく陳を指します)に地を拡げたと聞き、慶賀のために駆けつけようと思っていました。ちょうどそこに命が降されたのですから、趨承(急いで受け入れること)しないわけにはいきません。」
霊王は申地の行宮で宴を設けて蔡侯をもてなしました。盛大な歌舞が披露され、賓客と主人が痛飲して楽しみます。
その後、他寝(恐らく楚王が宿泊している場所)に席を移しました。伍挙に命じて外館で蔡侯の従者を慰労させます。
蔡侯は歓んで酒を飲み、思わず泥酔しました。
霊王は事前に壁衣(壁を覆う布)の裏に甲士を隠していました。霊王が杯を投げて合図を送ると、甲士が突然現れて蔡侯を席上で縛ります。蔡侯は酔っているため何が起きているのかわかりません。
霊王が人を送って蔡の従者達にこう宣言しました「蔡般はその君父を弑殺したので、寡人が天に代わって討伐した。従者は無罪である。降った者には賞を与えよう。帰順したい者は命に従え。」
蔡侯は普段から臣下に対して恩礼を施していたため、随行した諸臣は一人も楚に降りませんでした。
霊王が一声の号令を出すと、楚軍が包囲して全て捕えます。
やっと酔いから醒めた蔡侯は自分が縛られているのを知り、目を見開いて霊王に問いました「般(私)が何の罪を得たというのですか?」
霊王が言いました「汝は自ら父を弑殺し、天理に悖逆(逆らうこと)した。今日死ぬのは晚いくらいだ。」
蔡侯が嘆いて言いました「帰生の言を用いなかったことを後悔している。」
霊王は蔡侯を磔(八つ裂き)にして殺しました。七十人が蔡侯に従って殺され、輿隸(奴隷)で最も身分が低い者まで全て誅殺されます。
霊王は蔡侯般が弑逆を行った罪を版に大書し、国中に宣布しました。
また、公子棄疾に大軍を統率して蔡に攻め入るように命じました。
この事件を宋の儒者は「蔡般の罪は誅殺に値するが、誘い出して殺すのは非法である」と評価しています。
 
蔡の世子有は父が出発してから朝も夜も諜者を送って様子を窺いました。
諜者の報告で蔡侯が既に殺され、楚兵が日を置かず蔡に迫っていると知ります。
世子有はすぐに兵衆を集め、武器を配って埤(城壁)に登りました。
やがて、楚軍が蔡城に到着して何重もの包囲網を築きました。
公孫帰生が言いました「蔡は久しく楚に附いていますが、晋と楚は講和しており、帰生が載書(盟約)に参加しています。人を送って晋に救援を求め、以前の盟約を恵顧させれば、あるいは援けに来てくれるかもしれません。」
世子はこれに従って国人の中から晋に行く者を募りました。
蔡洧の父蔡略は蔡侯に従って申で殺された七十人の一人です。
蔡洧は父の仇に報いるため、自ら名乗り出ました。国書を受け取ると夜の間に縄で城壁を降り、北に向かって走ります。
 
晋国に入った蔡洧は晋昭公に謁見し、慟哭して事件を訴えました。
昭公が群臣を集めて意見を問うと、荀呉が言いました「晋が盟主になり、諸侯がそれを頼るのは、安定を求めているからです。既に陳を救うことができず、今回また蔡も救わなかったら、盟主の業が潰えてしまいます。」
昭公が問いました「楚虔(霊王)は暴虐横柄で、我が兵力では及ばない。どうすればいい?」
韓起が言いました「たとえ及ばないと分かっていても、座して視ているわけにはいきません。諸侯と共に謀るべきです。」
昭公は韓起に命じて諸国と厥憖で会見させました。
宋、斉、魯、衛、鄭、曹各国が大夫を派遣して会見の場で命を聴きます。
ところが、韓起が蔡の救援について語ると各国の大夫は舌を伸ばし(伸舌。困難を表す表情)、それぞれ首を振り、一人も救援の任務を担おうとしませんでした。
韓起が言いました「諸君はこれほど楚を畏れているが、楚に自由に蚕食(侵食)させるつもりか?もし楚兵が陳蔡から諸国に拡大したとしても、寡君は関われなくなる。」
諸大夫は顔を互いの顔を見るだけで何も言いません。
宋国の右師華亥も参加していたため、韓起が華亥に向かって言いました「盟宋の役(宋で行った停戦の盟約)は汝の家の先右師が提唱し、南北が弭兵(休戦)して先に兵を用いた者を各国が共に討伐すると約束した。今、楚が先に盟約を破って陳蔡に兵を加えたのに、汝は手をこまねいて一言も発しようとしない。楚に信がないのではない。汝の国が欺謾(いい加減な発言で人を惑わすこと)なのだ。」
華亥が恐縮して言いました「下国は敢えて欺謾を行って盟主の罪を得ようとは思いません。しかし蛮夷は信義を顧みないので、下国にはどうしていいのかわからないのです。今、各国とも武備を緩めて久しいため、一旦にして兵を用いても勝負を卜えません(勝敗が予測できません)。弭兵の盟約を守り、一人の使者を送って蔡のために赦しを請えば、楚にも辞(蔡を攻める名分)がなくなるのではないでしょうか。」
韓起は各国の大夫が楚を懼れているのを見て、蔡救援を鼓舞することはできないと判断しました。そこで諸大夫と相談して一通の書を準備し、大夫狐父を送って申城の楚霊王に届けさせました。
蔡洧は各国が蔡を援ける兵を出そうとしないため、号泣して去りました。
 
狐父が申城に到着して書を献上しました。霊王が開くとこう書かれています「以前、宋の盟で南北が交見(会見)したのは、弭兵の名によるものでした。虢の会で旧約を再び宣言し、鬼神も臨みました(鬼神も盟約の事を知っています)。寡君は諸侯を率いて成言(約束)を恪守(謹んで守ること)し、一度も干戈(武器)を試したことがありません。今、陳と蔡に罪があるため、上国は赫然震怒(大きな怒りで震える様子)し、師を興して討伐しました。義憤が激発したら状況が変わることも許されます。しかし罪人が既に誅されたのに、兵をまだ解かないことについて、上国に辞(名分)があるでしょうか。諸国の大夫執政が皆、敝邑に走って集り、拯溺解紛(危急を救って紛糾を解決すること)の義によって寡君を責めているので、寡君は慚愧しています。それでも寡君は、師徒を徴発したら自ら盟約を犯すことになるのではないかと恐れているので、下臣(韓起)に諸大夫を集めさせ、共にこの尺書(書信)を準備し、蔡のために命を請うことにしました。もし上国が以前の友好を恵顧し、蔡の宗廟を継続させるようなら、寡君も同盟(同盟国)も皆、貴君の賜(恩恵)を受け入れます。蔡人だけのことではありません。」
書の最後には宋、斉等の各国大夫による署名がありました。
 
霊王は読み終ると笑って言いました「蔡城は旦暮(朝夕)にも攻略できる。汝は空言によって包囲を解かせようとしているが、寡人を三尺の童子とみなしているのか?汝は帰って汝の君に報告せよ。陳も蔡も孤(国君の自称)の家の属国であり、汝等北方とは関係がない。よって、わざわざ照管(気をつかうこと)する必要もない。」
狐父は再度哀懇しようとしましたが、霊王が一片の回書も渡さず立ち上がって中に入ってしまったため、やむなく不満を抱えたまま帰りました。
晋の君臣は楚を恨みましたが、どうしようもありません。
 
蔡洧は蔡国に帰りましたが、楚の巡軍に捕まり、公子棄疾の帷幕の前に連れて来られました。
棄疾が投降を強制しましたが、蔡洧は拒否したため囚人として後軍に繋がれます。
 
棄疾は晋の援軍が来ないと知ってますます猛攻を加えました。
帰生が言いました「事は急を要します。臣が一命をかけて楚営に赴き、撤兵を説得しましょう。もし相手が同意したら生霊(民)を塗炭の苦しみから救うことができます。」
世子有が言いました「城中の調度(手配。指揮)は全て大夫(汝)に頼っている。なぜ孤(国君の自称)を棄てて去るというのだ?」
帰生が言いました「殿下が臣を離さないというのなら、臣の子朝呉を使者に任命してください。」
世子有は朝呉を招き、涙をこらえて楚営に派遣しました。
 
朝呉が城を出て棄疾に会うと、棄疾は礼をもって遇しました。
朝呉が言いました「公子が重兵を蔡に加えているので、蔡は自国が滅亡すると知っています。しかしまだ蔡の罪がどこにあるのかを知りません。もし先君般が徳を失ったために赦宥を蒙ることができないとしても、世子に何の罪があるのでしょうか?蔡の宗社に何の罪があるのでしょうか?公子が憐憫によって察することができれば幸いです。」
棄疾が言いました「わしも蔡が滅亡する道理がないことは知っている。しかし命を受けて城を攻めた以上、功を立てずに帰ったら必ず罪を得ることになる。」
朝呉が言いました「呉(私)に話すことがあります。左右の人払いをしてください。」
棄疾が言いました「汝は気兼ねなく話せ。わしの左右の者を心配する必要はない。」
朝呉が言いました「楚王が国を得たのは非正(不当)であることは公子も知っているはずです。人心を持つ者なら誰もが怨憤を抱いています。しかも国内では土木(建築)に脂膏(国民の財産)を尽くし、国外では干戈(戦争)に筋骨(国民の体、命)を尽くし、民を用いても憐れまず、貪婪に限りがありません。昨年は陳を滅ぼし、今回は蔡を誘って殺しました。ところが公子は国君の讎(仇)を想わず、駆使(手先として働くこと)を受け入れています。四方で怨黷(怨恨誹謗)が作られている中、公子がその半分を蒙ることになるでしょう。公子は賢明なうえ名声も聞こえており、しかも『当璧』の祥(後述)もあるので、楚人は皆、公子が国君になることを望んでいます。戈を逆にして国内に向け、弑君虐民の罪を討てば、人心が響応して誰も公子に抵抗しようとはしないでしょう。無道の君に仕えて万民の怨を集めるのとどちらがましですか。もし幸いにも公子が愚計を聴き入れるようなら、呉(私)は生き残った兵を率いて公子の先駆となりましょう。」
聞き終えた棄疾は怒って言いました「匹夫が巧言によって我が君臣を離間させる気か!本来なら斬首するところだが、暫く汝の頭を首の上に預けておこう。世子に伝えよ。速やかに面縛(両腕を後ろに縛って顔を前に向けること。投降の姿)して降伏すれば、まだ餘喘(死にかけた命)を保つことができると。」
棄疾は左右の臣下に叱咤して朝呉を連れ出させました。
 
 
 
*『東周列国志』第六十九回その三に続きます。