第七十六回 楚昭王が西奔し、伍子胥が屍を鞭打つ(二)

*今回は『東周列国志』第七十六回その二です。
 
呉軍の追撃を知った射は、対抗するために陣を構えようとしました。しかし呉軍が退いたと聞き、喜んで言いました「呉人が臆病だということは知っていた。窮追できないのだ。」
射は五鼓(五更。午前三時から五時。早朝)に食事をとってから一斉に渡江するように命じます。
ところが十分の三が渡り終えた時、夫概の兵が現れました。残った楚兵が先を争って渡ろうとしたため、大混乱に陥ります。射は兵達を制止できず、やむなく車に乗って疾走しました。軍士で川を渡っていない者も全て主将について逃走します(下の文を見ると、射とそれに従った楚兵も清発水を渡ったようです)
呉軍は逃走する楚軍を後ろから襲って無数の旗甲を奪いました。
孫武は唐蔡の二君に命じ、本国の軍将を率いて渡江に使う船隻を奪わせました。二君は江に沿って渡江を援けます。
 
射は雍澨(清発水の西の地域。または川の名)まで奔りました。将兵は飢えと疲れのためもう走れません。幸い追兵から既に遠く離れたため、暫く駐留することにしました。竈に鍋を置いて飯を作り始めます。
しかし食事がやっとできた時、呉軍がまた現れました。楚兵は飯を呑み込む暇もなく、食糧を棄てて逃走しました。残された出来立ての食事は全て呉兵に食べられます。
腹ごしらえした呉兵は再び尽力して楚兵を追いました。混乱した楚兵は倒れた兵を踏みあい、更に多くの死者を出します。射の車も転倒し、夫概に戟で刺されて死にました。
 
射の子延も呉兵に包囲されました。延は勇を奮って突破を図りましたが、脱出できません。
すると突然、東北から喚声が上がりました。延が言いました「また呉兵が来た。私の命もこれまでだ!」
しかし新たに現れた兵は左司馬の沈尹戍が率いていました。沈尹戍は新息に入った時、囊瓦の敗報を聞いたため、来た道を引き返して雍澨まで戻りました。ちょうどそこで延を包囲している呉兵に遭遇しました。
沈尹戍は部下一万人を三路に分けて突入します。
夫概は連戦に驕って警戒を怠っていました。突然、楚軍が三路から兵を進めてきたため、どれだけの軍馬がいるのかわからず、対抗をあきらめて延の包囲を解きました。
沈尹戍の猛攻によって呉兵の死者は千余人に上ります。
沈尹戍が追撃しようとしましたが、呉王闔閭の大軍が到着しました。両軍は営を構えて対峙しました。
 
沈尹戍が家臣の呉句卑に言いました「令尹が功を貪ったために私の計が完遂できなかった。これも天(天命)だろう。今、敵患が既に深く進入している。明日、私は決死の一戦を求めるつもりだ。もし幸いにも勝てたら、兵は郢に及ばず、楚国の福となる。しかし万一敗戦したら、この首は汝に託す。呉人に奪われてはならない。」
また、延にこう言いました「汝の父は既に敵と戦って没した。汝まで死んではならない。速く帰って子西に報告し、郢を守る計を成せ。」
延は下拝して「司馬が東寇を駆除し、早く大功を立てることを祈ります」と言うと、涙を流して別れました。
 
翌朝、双方が陣を構えて交戦しました。
沈尹戍は以前から士卒を大切にしてきたため、軍卒は命に従って死力を尽くしました。夫概の勇があっても破れず、敗色が濃くなります。
しかし孫武が大軍を率いて到着しました。右に伍員と蔡侯、左に伯嚭と唐侯がおり、強力な弓弩が前に、短兵が後ろに配置され、楚軍に向かって直進して来ます。大攻勢を受けた楚軍は壊滅しました。
沈尹戍は決死の覚悟で厚い包囲を突破しましたが、体にいくつもの矢を浴びて車中に倒れます。戦う力がなくなったため、呉句卑を呼んで言いました「私はもう役に立たない。汝は早くこの首を取り、楚王に会いに行け。」
呉句卑は手を下せません。
沈尹戍は全力を込めて大喝してから目を閉じました。呉句卑はやむなく剣で首を斬り、裳(腰から下の服)を解いて首を包むと懐に抱えました。その後、土を掘って死体を隠し、郢都に奔ります。
呉軍も長駆進軍しました。
 
先に帰った延は、昭王に会うと慟哭して囊瓦の敗奔と父の死を報告しました。
驚いた昭王は急いで子西、子期等を集めて商議し、更に軍を出そうとします。
暫くして呉句卑も到着しました。呉句卑は沈尹戍の首を献上し、敗戦の理由を詳しく語ってこう言いました「全て令尹が司馬の計を用いなかったのでこうなってしまったのです。」
昭王は痛哭して「孤(国君の自称)が早く司馬を用いなかったのが原因だ。孤の罪だ」と言ってから、囊瓦を罵りました「国を誤らせた奸臣がこの世で生き永らえようとするのか。犬豕(豚)でもその肉を食わないだろう!」
呉句卑が言いました「呉兵が日々迫っています。大王は郢を守る計を速く定めるべきです。」
昭王は沈諸梁を招いて父(沈尹戍)の首を渡し、厚い葬具を与えました。諸梁を葉公に封じます。
同時に城を棄てて西に走ることを群臣と相談しました。
しかし子西が号哭して言いました「社稷陵寝(陵墓)は全て郢都にあります。王がそれを棄てて去ったら、二度と入ることができなくなります。」
昭王が言いました「我が国が頼っていたのは江(長江と漢水の険だ。すでにその険を失ってしまった。呉師は旦夕(朝晩)にも到着するだろう。手を束ねて擒になるわけにはいかない。」
子期が言いました「城中の壮丁は数万もいます。王が宮中の粟帛を全て出して将士を激励すれば、まだ城堞(城壁)を固守できます。また、使者を四方に送って漢東漢水以東)の諸国に向かわせ、兵を合わせて援けるように命じましょう。呉人は我が国境から深く進入しているので、糧餉が続きません。持久戦は不可能です。」
昭王が言いました「呉は我々の食糧を奪っているから飢えを心配する必要はない。それに、晋人が一度声をかけただけで頓胡も全て集まり、呉兵が東下(西進のはずです)したら唐蔡が先導となった。楚の宇下支配下は全て離心している。頼りにならない。」
子西が言いました「臣等が師を総動員して敵を防ぎます。戦って勝てないとわかってから走っても遅くはありません。」
昭王は「国家の存亡は全て二兄にかかっている。行うべきことを行え。寡人が謀に加わることはできない」と言うと、涙を浮かべて公宮に入りました。
 
子西と子期が計議して国防の配置を決めました。大将鬥巣が兵五千で麦城を守り、北路を防ぎます。大将宋木が兵五千で紀南城を守り、西北路を防ぎます。子西は自ら精兵一万を率いて魯洑江に営を構え、東渡の路(東路)を塞ぎます。西路の川江(長江上流)と南路の湘江はどちらも楚の地に属しており、険しくて遠いため、呉が楚に入る道には当たらず、守備も必要ありませんでした。
子期は王孫繇于、王孫圉、鍾建、申包胥等を指揮して城内を巡視し、厳しく警戒しました。
 
呉王闔閭も諸将を集めて郢に入る計画を相談しました。
伍員が言いました「楚は連敗していますが、郢都は盛んです。しかも三城が連携しているので、容易には落とせません。西に行けば魯洑江がありますが、楚に入る徑路(道。小道)なので、必ず重兵が守っています。よって北から大きく迂回しなければなりません。そこで軍を三つに分けます。一軍が麦城を攻め、一軍が紀南城を攻め、大王は大軍を率いて直接、郢都を突いてください。敵は疾雷に耳を覆う余裕がない時のように、こちらを顧みたらあちらを失うという状態になります。二城が落ちたら郢は守れません。」
孫武が言いました「子胥の計は間違いありません(甚善)。」
こうして楚都攻撃の計画が決まりました。伍員と公子山が兵一万を指揮して麦城を攻めます。蔡侯が本国の兵を率いて二人を助けました。
孫武と夫概が兵一万を指揮して紀南城を攻めます。唐侯が本国の兵を率いて二人を助けました。
闔閭は伯嚭等と共に大軍を率いて郢城を攻めます。
 
伍員が東(西の誤り?)に進んで数日後、諜者が報告しました「ここから麦城までは一舍(三十里)しかありません。大将鬥巣が兵を率いて守っています。」
伍員は軍馬を止めて微服(平服。庶民の服)に着替えると、小卒二人を連れて営外を歩き、地形を観察しました。
ある村で村人が驢馬に麦を挽かせていました。村人が棰(木の棒)で驢馬を撃つと驢馬が歩いて磨(臼)が回り、麦の粉が下から出てきます。
伍員が突然悟って言いました「麦城を破る方法がわかった。」
呉員はすぐ営に帰り、秘かに軍令を伝えました「全ての軍士が土でいっぱいにした布袋一つと一束の草を準備せよ。期限は明日の五鼓(午前三時から五時)とし、もし準備できない者がいたら斬る。」
翌日五更(五鼓)、再び軍令を伝えました「全ての車に多数(原文「若干」。不定数の意味)の乱石を積め。石がない者は斬る。」
空が明るくなる頃、軍を二隊に分けました。蔡侯が一隊を率いて麦城の東に進み、公子乾が一隊を率いて麦城の西に進みます。それぞれに運んできた石土や草の束を使って小城を築かせました。麦城に対抗する営塁にします。伍員自ら築城を指揮し、軍士を監督して尽力させ、わずかな時間で完成させました。
東城は細長くて驢馬に似ているため「驢城」と名づけ、西城は正円で磨(臼)に似ているため「磨城」と名づけます。
蔡侯がその意図を計りかねていると、伍員が笑って言いました「東に驢があり西に磨があれば、麦を下せないはずがない。」
 
 
 
*『東周列国志』第七十六回その三に続きます。