第七十六回 楚昭王が西奔し、伍子胥が屍を鞭打つ(三)

*今回は『東周列国志』第七十六回その三です。
 
麦城を守る鬥巣は呉軍が東西に築城したと聞き、急いで出陣しました。しかし二城は既に完成しており、まるで堅塁のようです。
鬥巣はまず東城に行きました。城壁の上が旌旗で埋められ、鐸声(大鈴の音)が絶えません。
鬥巣は発憤して城を攻めようとしました。
すると轅門が開き、一人の少年将軍が兵を率いて出てきます。
鬥巣が姓名を問うと、「私は蔡侯の少子乾だ!」と言いました。
鬥巣が言いました「孺子はわしの敵ではない!伍子胥はどこだ!」
姫乾が答えました「既に汝の麦城を取りに行った!」
鬥巣はますます怒り、長戟を持って姫乾に向かっていきました。姫乾も戈を奮って迎え撃ちます。
双方が交戦して二十余合に至った時、突然、哨馬が走って鬥巣に報告しました「呉兵が麦城を攻撃しています。将軍は速やかに戻ってください!」
鬥巣は巣穴(拠点)を失うのを恐れ、急いで金(鉦)を鳴らして撤兵しました。軍伍(軍列)が乱れています。
姫乾は勢いに乗じて突撃しましたが、窮追せず引き上げました。
 
鬥巣が麦城まで戻ると、伍員が指揮する軍馬が城を囲んでいました。
鬥巣は戈を横たえて拱手し、伍員に言いました「子胥に変わりはないか?足下には先世(先王時代)の冤があるが、全て無極によるものだ。今、讒人は既に誅した。足下が報いる冤はない。宗国三世の恩を足下は忘れたか?」
伍員が言いました「わしの先人は楚において大功があったが、楚王はそれを念じず、父と兄を冤殺した上にわしの命まで絶とうとした。幸いにも天祐のおかげで難を脱することができたのだ。怨みを抱いて十九年も経ち、やっと今日が来た。子(汝)がそれを察するのなら速やかに遠くに避けろ。我が鋒(勢い。攻撃)に当たらなければ双方とも無事でいられる。」
鬥巣が罵って言いました「背主の賊!汝を避けたら好漢ではない!」
鬥巣は戟を持って伍員に戦いを挑みます。伍員も戟を持って迎え撃ちました。
しかし数合戦っただけで伍員が言いました「汝は既に疲労しているから城に入れ。明日、再戦しよう。」
鬥巣が応えて言いました「明日、死敵を決しよう(決着をつけよう)!」
双方が兵を収めます。
城壁の兵達は自軍の人馬が帰ってくるのを見て、門を開いて迎え入れました。
 
夜半、城壁の上で突然喚声が上がりました。
鬥巣の兵が「呉兵が既に城に入りました!」と報告します。
伍員の軍中には多数の楚国の降卒がいました。故意に鬥巣を放って入城させた時、数人の降卒も鬥巣の兵と同じ姿にして楚兵の中に混入させました。彼等は目立たない場所に潜み、夜半になって城の上から長索(縄)を落として呉軍を吊り上げました。
それに気づいた時には、城壁の上の呉軍は既に百人を超えていました。
城壁の呉兵が一斉に喚声を上げると、城外の大軍が呼応しました。城を守る軍士は混乱して逃げ出します。鬥巣はそれを抑えることができず、やむなく軺車(軽車)に乗って城から逃走しました。
伍員は鬥巣を追わず、麦城を占領してから使者を送って呉王に戦勝を報告しました。
 
孫武は兵を率いて虎牙山を通り、迂回して当陽阪に入りました。漳江を北に眺めると、水の勢いが滔滔(たくさんの水が勢いよく流れる様子)としています。紀南は低地になっており、西に赤湖があります。赤湖の水は紀南と郢都の城下に通じています。
孫武はその様子を見極めて心中に一計を案じました。軍士に命じて高阜(高い丘)に駐軍させてから、それぞれ畚鍤(土を掘る道具)を準備させます。一夜の間に一本の深壕を掘らせ、漳江の水を引き入れて赤湖に通しました。また、大きな堤防を築いて江水を止めました。水は赤湖に入り続け、平地より二三丈も高くなります。
ちょうど冬月(十一月)にあたり、強い西風が吹きました。水はすぐ紀南城に流れ込みます。
守将の宋木は(呉軍の攻撃とは知らず)ただ江水が膨張したと思い、水を避けるために城中の百姓を郢都に逃げさせました。しかし水の勢いが激しいため、郢都の城下も水没して江湖のようになります。
孫武は人を送って山上で竹を伐り、筏を作らせました。呉軍が筏に乗って城に迫ります。
城中の人々はこの時になってやっと呉人が漳江を決壊させたと知り、恐慌して逃走を始めました。
楚王は郢都を守ることが難しいと判断し、急いで箴尹固に命じて西門に舟を準備させました。愛する妹季羋と一緒に舟に乗ります。
子期は城壁の上で軍士を指揮して水を防ごうとしていましたが、楚王が既に逃走したと聞き、やむなく百官と共に城を出て楚王を守ることにしました。家室(家族)を顧みず、城内に残して去ります。
主を失った郢都は戦わずに自滅しました。
 
孫武が闔閭を奉じて郢の都城に入りました。人を送って水壩(堤防)を掘らせ、水を漳江に返します。
また、兵を集結させて四郊を守りました。
伍員も麦城から王に会いに来ました。
闔閭が楚王の殿に登り、百官が拝賀します。その後、唐と蔡の二君が入朝して慶賀の言葉を送りました。
闔閭は喜んで高会(盛大な宴)を開きます。
その夜、闔閭は楚王の宮殿に泊まりました。左右の近臣が楚王の夫人を闔閭に献上します。
闔閭は侍寝させたいと思いましたが、躊躇しました。すると伍員が言いました「国すら奪ったのです。その妻を奪うのは当然でしょう。」
王は夫人を留めて寝ました。楚王の妾媵にも淫行を働きます。
左右の者が言いました「楚王の母伯嬴は太子建の妻になるはずでしたが、その美貌によって平王に奪われました。まだ若く、美色は衰えていません。」
闔閭は心を動かされ、人を送って伯嬴を招きました。しかし伯嬴は出て来ません。
闔閭が怒って左右の近臣に言いました「引きずり出して寡人に会いに来させろ。」
しかし伯嬴は戸を堅く閉め、剣で戸を叩いてこう言いました「諸侯(国君)とは一国の教(模範)であると聞いています。礼においては、男女が一緒に住んでも席を共にせず、食事をしても器を共にせず、そうすることで男女の別を示すことになっています。今、君王は表儀(儀表。模範となる態度)を棄て、淫乱によって国人に名が知られていますが、未亡人(私)は剣に伏して死んだとしても、命を受けるつもりはありません。」
闔閭は慚愧して謝り、「寡人は夫人を敬慕しているので顔を知りたいと願っただけだ。乱を及ぼすつもりはない。夫人は手を置いてくれ(または「夫人は休んでくれ」。原文「夫人休矣」)」と言いました。伯嬴の旧侍に戸を守らせ、従人が妄りに入らないように戒めます。
 
伍員は楚昭王を探したのに見つけられなかったため、孫武、伯嚭等に楚の諸大夫の室(家)を占拠させ、その妻妾と通淫させて辱めました。
唐侯と蔡侯は公子山と一緒に囊瓦の家を捜索し、笥(衣類を入れる箱)の中から裘と佩を見つけ、厩舎で肅霜を見つけました。二君はそれらを取り返して呉王に献上します。他にも宝貨金帛が家中を満たしていましたが、全て左右の近臣が運び去り、道にまで散乱しました。
囊瓦は生涯賄賂を貪ってきましたが、何の役にも立ちませんでした。
公子山が囊瓦夫人を得ようとしましたが、夫概が来て公子山を追い出し、夫人を奪いました。
当時、呉の君臣が公然と淫事を行ったため、男女の別(秩序)が失われ、郢都の城中は禽獣の集りのような状態になりました。
 
伍員が呉王に楚の宗廟を破壊するように進言しました。
孫武が言いました「兵は義によって動くから名分があるのです。平王は太子建を廃して秦女の子を立て、讒貪の臣を信任し、国内では忠良の臣を殺戮し、国外では諸侯に暴を行いました。だから呉がここに来れたのです。楚都は既に破れました。太子建の子羋勝を招いて国君に立て、宗廟を主宰させて昭王(昭王は諡号なので生前に昭王と呼ぶことはありませんが、原文のままにしておきます)の位を改めるべきです。楚人は旧太子の無辜を憐れんでいるので、必ず安んじます。また、勝も呉の徳を想うので、世々代々貢献(貢納)が絶えなくなります。これなら王が楚を赦しても楚を得たのと同じなので、名も実も共に全うできます。」
しかし闔閭は楚を滅ぼしたいと思っていたため、孫武の言を聞かず、宗廟を焼き払いました。
 
唐と蔡の二君はそれぞれ別れを告げて本国に去りました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十六回その四に続きます。

第七十六回 楚昭王が西奔し、伍子胥が屍を鞭打つ(四)