第七十九回 女楽を帰して孔子を拒み、会稽に棲んで宰嚭に通じる(二)

*今回は『東周列国志』第七十九回その二です。
 
後日、孔子と弟子が大樹の下で礼について学んでいました。
宋の司馬桓魋は男色によって景公の寵愛を得て信任され、政治を行うようになっていました。孔子の到来を嫌い、人を送って樹を伐るように命じます。その機を利用して孔子を捕えて殺すつもりです。
孔子は微服に着替えて宋を去り、鄭に向かいました。
その後、晋に向かいましたが、黄河に至った時、趙鞅が賢臣の竇犨と舜華を殺したと聞きました。
孔子が嘆息して言いました「鳥獣でも同類が傷つけられることを嫌うのだ。人ならなおさらだろう(賢人を殺した晋に行くことはできない)。」
孔子はまた衛に帰りました。
暫くして衛霊公が死に、国人は輒を国君に立てました。これを出公といいます。
蒯瞶は晋の助けを借りて、陽虎と共に戚を襲って拠点にしました。
衛の父子が国を争い、晋が蒯瞶を助けて斉が輒を助けます。
孔子は逆理(子が父と戦うという道理に背いたこと)を嫌い、衛を去って陳に行ってから、更に蔡に向かいました。
 
楚昭王が陳・蔡の間に孔子が来たと聞き、人を送って招きました。
しかし陳と蔡の大夫が相談し、共に兵を発して野で孔子を包囲しました。楚が孔子を用いたら陳と蔡の危機となると思ったからです。
孔子は食糧がなくなって三日が経っても絃歌(琴の音と歌声)を絶やしませんでした。
(明清時代)でも開封府の陳州界に桑落という場所があり、その地にある台を厄台とよんでいます。ここが孔子の食糧が尽きた場所です。
ある晚、身長が九尺余もある異人が現れました。皂衣高冠(皂は黒)を身に着け、甲冑を着て戈を持ち、孔子に向かって叱咤します。その声は左右を震わせました。子路が外に連れ出して庭で戦いましたが、異人の力が大きくて敵いません。傍で長い間詳しく観察していた孔子子路に言いました「なぜ脅(肋骨)を探さないのだ?」
子路が脅を狙って戦うと、巨人は力が尽きて手を垂らし、敗れて地に倒れました。その姿が大鮎魚に変わります。
弟子達が不思議がると孔子が言いました「どんな物でも老いたら衰え、群精が附くようになる。殺せばそれで終わりだ。不思議に思うことはない。」
孔子は弟子達に大鮎魚を煮させて飢えをしのぎました。弟子達は「天から下賜された」と言って喜びました。
やがて楚の使者が兵を発して孔子を迎え入れました。
 
孔子が楚に入りました。喜んだ昭王は千社の地を孔子に封じようとします。しかし令尹子西が諫めて言いました「昔、文王は豊(地名)におり、武王は鎬におり、その地はわずか百里しかありませんでしたが、徳を修めることができたので、ついに殷を滅ぼして代わりました。今、孔子の徳は文王や武王に劣らず、その弟子も皆、大賢です。もし拠点とする土壤を得たら、彼が楚に代わるのも難しくないでしょう。」
昭王は中止しました。
孔子は楚が自分を用いることができないと知り、また衛に戻りました。
 
衛出公が国政を孔子に託そうとしましたが、孔子は拒否しました。
この頃、魯の相国・季孫肥が孔子の門人冉有を召しました。孔子冉有のおかげで魯に帰ります。
魯は告老(引退)した大夫の礼で孔子を遇しました。
孔子の弟子の中で、子路と子羔は衛に仕え、子貢、冉有、有若、宓子賎は魯に仕えました。
 
 
話は呉に移ります。
呉王闔閭が楚を破ってから、その武威が中原を震撼させました。闔閭は遊楽に耽るようになります。
大規模な宮殿を建築し、長楽宮を国(都)内に築き、高台を姑蘇山に建てました。姑蘇山は都城の西南三十里にあり、一名を姑胥山ともいいます。
胥門の外に曲がりくねった徑(小道)を作り、山路に繋げました。
春夏は城外(姑蘇山)で政治を行い(城外に住み)、秋冬は城中で政治を行います(城内に住みます)
 
ある日、闔閭は越人が呉を攻撃した怨みを思い出し、報復を考えました。
そこに斉と楚が聘使を通わせているという情報が入ったため、怒って言いました「斉と楚が通好したら我が北方の憂となる。」
闔閭はまず斉を討伐してから越を攻撃しようとしました。
しかし相国子胥が言いました「交聘は鄰国の常です。斉が楚を助けて呉を害すとは限りません。慌てて兵旅を起こしてはなりません。太子・波の元妃が既に死に、まだ継室がいません。王は使者を送って斉に求婚するべきです。斉が従わないと分かってから討伐しても遅くはありません。」
闔閭はこれに従い、大夫王孫駱を斉に送って太子波のために求婚しました。
 
当時、斉景公は老耄のため志気が衰え、活力がありませんでした。
宮中にはまだ嫁いでいない幼女(末の娘)が一人います。娘を呉の地に棄てるのは忍びありませんが、朝廷には良臣がなく、辺境には良将がいないため、呉の命に逆らって討伐を受けたら、楚国と同じ禍を受けるかもしれません。その時に後悔しても手遅れです。
大夫黎彌も呉を刺激させないために呉との婚姻を勧めました。
景公はやむなく娘の少姜を嫁がせることにしました。
 
王孫駱が帰国して呉王に報告しました。呉王は再び婚姻のための幣物を斉に贈り、使者に斉女を迎えさせました。
景公は娘を愛していましたが呉を畏れています。愛情と畏れの感情が交錯して思わず涙を流しました。嘆息して「平仲か穰苴の一人でもいれば、孤が呉人を憂いる必要はないのだが」と言い、大夫鮑牧に「卿が寡人のために娘を呉に送れ。これは寡人の愛女(愛娘)だ。呉王に善く遇するように伝えよ」と命じました。
鮑牧が出発する時、景公自ら少姜を抱えて車に載せ、南門を出るまで送ってやっと帰りました。
鮑牧は少姜を呉に送って斉侯の命を伝えます。その後、鮑牧は伍子胥の賢才を慕っていたため深い交わりを結びました。
 
少姜はまだ幼かったため、夫婦の楽しみを知りません。太子波と結婚してからも一心に父母を念じて日夜号泣します。太子波が再三慰めても哀しみが止まらず、憂鬱が原因で病にかかってしまいました。
憐れんだ闔閭は北門の城楼を改造して華美壮麗にし、望斉門と改名しました。少姜に命じていつもそこで遊ばせます。しかし少姜は欄干に身を寄せて北を眺めても斉国が見えないため、悲哀がますます積もり、病が重くなってしまいました。
臨終が迫った時、少姜が太子波に言いました「虞山の頂は東海を見ることができると聞きました。そこに私を埋葬してください。もし魂魄に知覚があるのなら、あるいは斉国を一望できるかもしれません。」
太子波が父に上奏したため、少姜は死んでから虞山の頂上に埋葬されました。
(明清時代)も常熟県の虞山に斉女墓と望海亭があります。
 
太子波も斉女を想って病を患い、暫くして死んでしまいました。
闔閭は諸公子の中から後継者を選ぼうとしましたが、決心できないため、伍子胥を招いて相談することにしました。
太子波の前妃は夫差という子を生みました。この時既に二十六歳になっています。生まれつき英偉で気概がある(昂藏英偉)立派な人物でした。祖父の闔閭が後嗣を選ぼうとしていると知り、急いで伍子胥に会ってこう言いました「私は嫡孫です。太子を立てるというのなら、私を置いて誰がいるでしょう。相国の一言にかかっています。」
伍子胥はこれに同意しました。
暫くして闔閭の使者が来ました。後継者を選ぶために伍子胥が招かれます。
伍子胥が言いました「子を立てる時は嫡を選ぶべきです。だから乱が生まれないのです。今、太子は既に不禄(死ぬこと)しましたが、嫡孫の夫差がいます。」
闔閭が言いました「わしが観るに夫差は愚才の上に不仁だ。恐らく呉の統(正統。血統)を奉じることができないだろう。」
伍子胥が言いました「夫差は信をもって人を愛し、礼義に厚い人物です。そもそも父が死んだら子が代わるのは明文化された道理です。何を疑うのですか?」
闔閭が言いました「寡人は子(汝)の言を聴こう。子が善く補佐せよ。」
こうして夫差が太孫に立てられました。
夫差は伍子胥の家を訪ね、稽首して恩に謝しました。
 
 
周敬王二十四年、年老いた闔閭はますます性急になりました。
越王允常が死んで子の句践が即位したと聞き、喪に乗じて越を攻撃することにしました。
伍子胥が諫めて言いました「越には呉を襲った罪がありますが、大喪があったばかりです。今、討伐するのは不祥なので、暫く待つべきです。」
闔閭は諫言を聞かず、伍子胥と太孫夫差を留めて国を守らせ、自ら伯嚭、王孫駱、専毅等を率いて出陣しました。精兵三万を選んで南門から越国に向かいます。
 
越王句践も自ら軍を率いて対抗しました。諸稽郢が大将に、霊姑浮が先鋒に、疇無餘と胥犴が左右両翼になります。
越軍は檇李で呉軍と遭遇しました。両軍は十里離れてそれぞれ営寨を構えます。
双方が戦いを挑みましたが、勝負がつきませんでした。
怒った闔閭は兵を総動員して五台山に整列させました。妄りに動かないように軍令を徹底させ、越兵に隙が生まれるのを待ちます。
 
句践が呉の陣を眺めました。隊列が整然とし、戈甲も精鋭がそろっています。句践が諸稽郢に言いました「彼等の兵勢は盛んだ。敵を軽んじてはならない。計を用いて混乱させる必要がある。」
そこで大夫疇無餘と胥犴に決死の士を指揮するように命じました。左の五百人がそれぞれ長槍を持ち、右の五百人がそれぞれ大戟を持ちます。左右が喚声を上げて呉軍に殺到しました。
しかし呉陣は全く相手にせず、陣脚(陣の前方)を弓弩手が鉄壁のように堅く守りました。越軍は三回突撃しましたが、陣を突き崩すことができず、やむなく引き上げます。
 
句践に打つ手がなくなると、諸稽郢が秘かに言いました「罪人を使うことができます。」
句践はこの意味を悟りました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十九回その三に続きます。