第八十回 夫差が越を赦し、勾践が呉に仕える(四)

*今回は『東周列国志』第八十回その四です。
 
句践は心中で会稽の恥を念じていたため、会稽に築城して都を遷し、戒めにしようとしました。そこで范蠡に新都建設を委ねます。
范蠡は天文地理を観察し、新城を設計しました。会稽山を中に包み、天門(天界に通じる門)を象徴して西北の臥龍山に飛翼楼を建て、地戸(地界に通じる戸)を象徴して東南に漏石竇(穴)を作り、外郭(外城)で周りを囲み、西北だけを空けてこう公言しました「既に呉に臣服したので、貢献の道を塞ぐことはできない。」
実際は後日秘かに進攻する時の便宜を図るためです。
 
城が完成すると、突然、城内の地が膨らんで山ができました。周囲は数里もあり、亀のような形です。自然に草木が生い茂りました。
この山を知っている者がいました。瑯琊の東武山だといいます。理由はわかりませんが、一晩で場所を移したそうです。
范蠡が上奏しました「臣の築城は、上は天象に応じさせました。そのため天が『崑崙(神仙が住むといわれている山)』を降し、越の伯(覇業)を開いたのです。」
喜んだ越王はこの山を怪山と名づけました。または飛来山、亀山ともいいます。山頂に霊台を造り、三層の楼を建てて霊物を観察することにしました。
 
新都が完成し、句践が諸から会稽に遷都しました。
句践が范蠡に言いました「孤は不徳のために国を失って家を亡ぼし、身を奴隸に落としてしまった。相国と諸大夫の助けがなかったら、今日もなかっただろう。」
范蠡が言いました「これは大王の福によるものです。臣等の功ではありません。大王がいつまでも石室の苦を忘れなければ、越国を復興させ、呉の仇に報いることができます。」
句践は「謹んで教えを受け入れよう」と言い、文種に国政を治めさせ、范蠡に軍旅を治めさせました。賢人を尊重して士人を礼遇し、老人を敬って貧困を撫恤したため、百姓が喜んで心服します。
 
越王は糞を舐めてから常に口臭を患いました(口の臭いが気になるようになりました)
范蠡は城北の山に蕺という蔬菜(野菜)があり、それを食べればわずかな気息(息。口臭)ができると聞いていたため、人を送って蕺を採り、朝廷を挙げて食べさせました。朝廷中の気(息。口臭)を乱して越王の口臭が気にならないようにします。
後の人はこの山を蕺山とよびました。
 
句践は仇に報いることを強く願い、夜も昼も休まず心身を苦しめました。目が疲れてまぶたを合わせたくなったら蓼(苦みのある草)で目を刺激し、足が寒くて縮めたくなったら敢えて水に浸けました。冬でも常に氷を抱え、夏でも火(熱い物)を握ります。床褥(布団)を使わず薪を重ねて臥せました。また、膽を坐臥の場所(起居する部屋)に吊り下げ、食事や寝起きする度にそれをとって嘗(舐)めました(臥薪嘗胆です)。夜中に一人で泣き、泣いたら声を洩らし、必ず会稽の二文字を口にします。
 
越国は喪敗(大敗)したため生歯(人口)が損なわれています。そこで壮者には老妻を娶らないように命じ、老者には少婦(若い妻)を娶らないように命じました。女子が十七歳になっても嫁がず、男子が二十歳になっても娶らなかったら、父母ともに罰を受けます。妊婦が子を生む時には官(政府)に報告させ、政府は医者を送って出産を守らせました。男が生まれたら一壺の酒と一頭の犬を下賜し、女が生まれたら一壺の酒と一頭の豚を下賜し、三人生まれたら官が二人を養い、二人生まれたら官が一人を養います。
民が死んだら越王自ら哭弔しました。
句践が外出する時は必ず飯と羹を後車に積み、童子に遭う度に食糧を与えて食べさせてから、姓名を問いました。
農耕の時期になったら自ら耒(農具)を持ち、夫人も織物をして、民間と労苦を共にしました。
七年にわたって民から税をとらず、食事には肉を加えず、衣服は采(絹織物)を重ねず、質素な生活を続けました。
呉を問候する使者は毎月欠かさず派遣しました。また、男女を山に送って葛を採らせ、黄絲細布を作って呉王に献上しようとしました。しかしそれを呉に贈る前に呉王が使者を送ってきました。従順な句践を嘉して封地を増やします。越の地は、東は句甬、西は檇李、南は姑蔑、北は平原に至り、縦横八百余里が境内となりました。
句践は葛布十万疋、甘蜜百壜、狐皮五双、晋竹十艘を準備して、封地に感謝する礼物としました。
夫差は大いに喜び、越王に羽毛の飾を下賜します。
これらの事を聞いた伍子胥は病と称して入朝しなくなりました。
 
夫差は越が既に臣服して二心がないのを見て、伯嚭の言を深く信じました。
ある日、夫差が伯嚭に問いました「今日、四境が平穏無事になったので、寡人は宮室を拡げて自分の楽しみにしたいと思うが、どこの地が相応しいだろうか?」
伯嚭が言いました「呉都周辺における崇台勝境(高台がある景勝の地)では、姑蘇に勝る場所はありません。しかし前王が築いた台は巨覧(覧は景色、奇景)とするには足りないので、王はその台を新たに修築するべきです。百里を見渡せる高さと六千人を収容できる広さにし、歌童舞女を台上に集めれば、人間(人の世)の楽(歓楽)を極めることができるでしょう。」
納得した夫差は賞を懸けて大木を求めました。
これを聞いた文種が越王に言いました「『空高く飛ぶ鳥は美食によって死に、泉の深くを泳ぐ魚は芳餌によって死ぬ(高飛之鳥,死於美食。深泉之魚,死於芳餌)』といいます。王の志は呉への報復にあります。まず呉が好むものを投じ、それからその命を制するべきです。」
句践が問いました「彼が好むものを得たとして、どうしてその命を制することができるのだ?」
文種が答えました「臣には呉を破る七つの術があります。一つ目は貨幣を譲ってその君臣を喜ばせます。二つ目は高く粟槀を買い取ってその積聚(蓄え)を空虚にさせます。三つめは美女を送ってその心志を惑わします。四つ目は巧工良材を送って宮室を造らせ、その財を浪費させます。五つ目は諛臣を派遣してその謀を乱します。六つ目は諫臣を強硬にさせて自殺に追い込み、呉王を補佐する臣下を弱くします。七つ目は財を貯めて兵を鍛え、敵の弊(隙)に乗じます。」
納得した句践が言いました「素晴らしい(善哉)。今日はまずどの術を行うべきだ?」
文種が言いました「今、呉王は姑蘇台を修築しようとしているので、名山の神材を選んで奉献するべきです。」
越王は木工三千余人を山に送って木を伐らせました。しかし年を経ても神木を見つけることができません。工人は家に帰りたいと思い始め、皆、怨望の心を抱きます。そこで『木客之吟』を作って歌いました「朝に木を採り、暮に木を採る。朝朝暮暮(朝も夜も)山曲に入り、断崖深谷を徒に往復する。天が生まず地も育てない。木客(木工)に何の罪があってこのような労酷を受けるのか(朝採木,暮採木,朝朝暮暮入山曲,窮巖絶壑徒往復。天不生兮地不育,木客何辜兮,受此労酷)。」
毎晩遅くまで歌い続け、聴いた者は凄絶な心境になりました。
するとある晩、天が一対の神木を生みました。太さは二十囲、高さは五十尋もあります。山の陽(南)の樹は梓、山の陰(北)の樹は楠です。
木工は見たこともない大木に驚いて目を凝らし、奔って越王に報告しました。
群臣が皆祝賀して言いました「大王の精誠が天に通じたから、天が神木を生んで王の衷(内心。誠心)を慰めたのです。」
喜んだ句践は自ら赴いて祭祀を行ってから神木を伐りました。彫刻を施して表面を磨き、丹青(赤と青の顔料)を交えて五采の龍蛇を描きます。
完成すると文種に命じて江から運ばせ、呉王に献上してこう伝えました「東海の賎臣句践が大王の力によって小殿を築こうとしたところ、偶然にも巨材を得ました。しかし自らそれを使うわけにはいかないので、下吏を使って王の左右に献上することにしました。」
夫差は尋常ではない木材を見て大いに喜びます。
伍子胥が諫めて言いました「昔、桀は霊台を建て、紂は鹿台を建てたため、民力を窮乏させて滅亡に至りました。句践は呉を害したいからこの木を献じたのです。王は受け入れてはなりません。」
しかし夫差は「句践はこの良材を手に入れたのに自ら使わず寡人に献上した。このような好意になぜ逆らう必要があるのだ」と言って諫言を聞きませんでした。
神木は姑蘇台の建築に使われます。
 
三年で材料が集められ、五年経ってやっと姑蘇台が完成しました。高さは三百丈、広さは八十四丈に及び、台に登れば二百里を見渡せます。
また、以前は九曲徑(曲がりくねった道)に沿って山を登りましたが、台の完成に伴って道も更に広くなりました。
百姓は昼夜とも建築に従事し、疲労のために命を落とした者は数え切れません。
これを聞いた越王が文種に言いました「子(汝)が言った『巧匠良材を送って宮室を造らせ、その財を尽きさせる』という計は既に実行した。今、崇台の上では間違いなく歌舞を厳選して満たそうとしているはずだ。絶色(美女)がいなければその心志を侈(浪費すること。大きくすること)にできない。子は寡人のために策を練れ。」
文種が言いました「興亡の数は上天によって定められています。既に神木が生まれたのですから、美女がいないことを憂いる必要はありません。しかし民間で美女を探したら人心を動揺させます。臣に一計があり、国中の女子を観察して王が選ぶことができます。」
文種がどのような計を述べるのか、続きは次回です。

第八十一回 美人の計で西施を寵し、子貢が列国を説く(一)