戦国時代125 秦王政(十一) 荊軻 前228~227年
今回は秦王政十九年と二十年です。
秦王政十九年
前228年 癸酉
[一] 前年、趙は自らの手で趙最後の名将・李牧を殺してしまいました。秦の侵攻を防げる者がいなくなります。
秦の王翦が趙軍を攻めて大勝し、趙葱を殺しました。顔聚は逃亡します。
秦軍は邯鄲を攻略して趙王・遷(幽繆王)を捕えました。
趙の地にも秦の郡が置かれました。
その後、秦王は太原、上郡を通して秦に帰還しました。
趙都周辺の地図です。
[四] 趙の公子・嘉が宗室数百人を率いて代に奔り、自ら代王を称しました。
旧趙国の大夫が代に集まります。
代王は燕と兵を併せて上谷(燕地)に駐軍しました。
かつて趙悼襄王には嫡太子がいましたが、倡(妓女)を愛したたため、太子を廃して倡の子・遷を太子に立てました。これが幽繆王(趙国最後の王)です。太子を廃された嫡子が代で王位に即いた公子・嘉です(秦王政十一年・前236年参照)。公子・嘉は幽繆王の庶兄になります。
こうして一度滅んだ趙国に代わって代国が誕生しました。しかし代国も約六年後に滅ぼされます。
[五] 楚幽王が在位十年で死に、国人は同母弟の郝(『資治通鑑』『六国年表』が「郝」。『楚世家』では「猶」)を立てました。これを哀王といいます。哀王の母は春申君を殺した李園の妹です(秦王政九年・前238年参照)。
負芻は楚国最後の王となります。
[六] 魏景湣王が在位十五年で死に、子の假が立ちました。王・假は魏国最後の王になります。
[八] 燕の太子・丹は秦王を怨んでおり、報復を考えていました。そこで傅(教育官)の鞠武に策を求めました。
『資治通鑑』胡三省注によると、鞠氏は后稷の孫で、生まれた時に手のひらに鞠という文字があったため、それを氏にしたといいます。
しかし太子はこう言いました「太傅の計は長い時間を必要とするので、人を悶然とさせる。長く待つことはできない。」
暫くして秦の将軍・樊於期が罪を犯して燕に亡命しました。
太子は樊於期を受け入れて館舍に住ませました。
鞠武が太子・丹に言いました「秦王の暴虐と燕に対する積年の怨みだけでも心を寒くさせるのに十分なのに、樊将軍がここにいると聞いたら秦はなおさら憤怒するでしょう。これは肉を餓虎の蹊に投げるようなものです。太子は速やかに樊将軍を匈奴に送るべきです。」
太子が言いました「樊将軍は天下で窮困し、その身を丹に帰した。今は丹が命をかけて彼を守る時だ。考え直せ。」
鞠武が言いました「危を行って安を求めるのは、禍を造って福を求めるようなものです。計を浅くして怨を深くし、新しく知り合った一人の者と結んで国家の大害を顧みないのは、怨を蓄えて禍を助長するようなものです。」
太子は諫言を聴き入れませんでした。
『資治通鑑』胡三省注によると、楚国は元々「荊」といいました。楚は国号を改める前に、荊という姓を与えられたようです。荊という姓氏はそこから生まれています。
太子が荊軻に言いました「秦は既に韓王を虜にし、兵を挙げて南の楚を攻め、北の趙に臨みました。趙が秦を支えられなかったら、禍が必ず燕に及びます。燕は小さくて弱く、しばしば兵を用いられて困窮しています。どうして秦に当たることができるでしょう。諸侯は秦に伏して合従をしようとしません。丹が愚計を考えるに、天下の勇士を得て秦に送り、秦王に迫って諸侯から奪った地を還させるべきです。これは曹沫が斉桓公に対して行ったような大善(大功)となります。もしこれが成功しなくても秦王を刺殺できます。秦の大将は兵を指揮して国外にいるので、国内で乱が起きたら君臣が互いに猜疑するでしょう。その隙に諸侯が合従すれば、必ず秦を破ることができます。荊卿はこのことを留意してください。」
荊軻は納得しました。
『資治通鑑』に戻ります。
荊軻が太子・丹に言いました「私が今行っても信がなければ秦王に親しく接することができません。樊将軍の首と燕の督亢(燕東の地名。肥沃な地)の地図をもって秦王に献じれば、秦王は必ず臣を接見するので、あなたに報いることができます。」
しかし太子はこう言いました「樊将軍は窮困して丹を頼りました。丹には忍びありません。」
そこで荊軻は個人的に樊於期に会ってこう言いました「秦の将軍に対する処遇は浅くありません。将軍の父母宗族は皆、殺戮されてしまいました。しかも今、将軍の首には金千斤と一万家の邑が褒賞として懸けられています。将軍はどうするつもりですか?」
樊於期は嘆息して涙を流すと「善い計がありますか?」と問いました。
荊卿が言いました「将軍の首を得て秦王に献上させてください。秦王は喜んで臣を接見します。そこで臣が左手で秦王の袖をつかみ、右手で胸を刺します。こうすれば将軍の仇に報いることができ、燕が虐げられる恥辱も除くことができます。」
樊於期は「それは臣が日夜、切歯腐心していたことです」と言って自刎しました。
太子は樊於期の死を聞いて急いで駆けつけ、死体に伏して哀哭しました。しかし既に手の打ちようがありません。やむなく函(箱)に首を入れました。
その後、太子は天下から鋭利な匕首を求め、工人に命じて毒薬を剣に染み込ませました。人を使って試してみると、血が一筋流れるほどの傷を負っただけで命を落としました。
翌年は秦王政二十年です。
秦王政二十年
前227年 甲戌
荊軻は督亢の地図を持って秦王の前に進みました。
秦王が驚いて立ち上がると袖が破れました。
荊軻は秦王を追い、秦王は柱の周りを逃げ回ります。
秦の群臣は驚愕しており、突然の出来事のため正常な判断ができません。しかも秦法では群臣が殿上で王に侍る時、尺寸の兵器も持ってはならないことになっています。左右にいた近臣は素手で荊軻に立ち向かいながら、「王、剣を背負ってください!」と叫びました。
荊軻は計画の失敗を知り、大声で言いました「事を成すことができなかったのは、生きたまま捕まえて、約契を得て太子に報いようとしたからだ!」
秦王は荊軻を殺して死体を晒しました。
戦国時代 荊軻(一)
戦国時代 荊軻(二)
燕と代の軍が易水の西で秦軍と戦いましたが、大敗しました。
次回に続きます。