戦国時代 荊軻(一)

秦王政二十年(前227年)荊軻が秦王・政始皇帝の暗殺を謀りました。

戦国時代125 秦王政(十一) 荊軻 前228~227年

 
本編は『資治通鑑』を元にしました。ここでは『史記・刺客列伝(巻八十六)』の内容を簡単に紹介します。
 
荊軻は衛人ですが、先祖は斉人です。
衛人は荊軻を慶卿とよびました。注(索隠)によると、斉の慶氏の者が衛に移住してから「慶」と発音が近い「荊」を氏にしたようです。「卿」は当時の尊称です。
後に荊軻が燕に移ってからは、燕人から荊卿とよばれました。
 
荊卿は読書と剣術を好みました。かつて、剣術をもって衛元君に遊説しましたが、衛元君は用いませんでした。
その後、秦が魏を攻めて東郡を置き、衛元君の支属(親族)を野王に遷しました。
 
荊軻が各地を巡遊して楡次を通った時、蓋聶(蓋が姓、聶が名)と剣術について語りました。
しかし蓋聶が目を怒らせて睨みつけたため、荊軻は退席しました。ある人が蓋聶に荊卿を呼び戻すように勧めましたが、蓋聶はこう言いました「先ほど、彼はわしと剣を論じたが相応しくない内容があったため、わしは目を怒らせて睨みつけた。汝が試しに行ってみろ。彼は既に去ったはずだ。留まるはずがない。」
蓋聶が人を送って荊卿が住んでいた宿舎の主人に確認させると、荊卿は既に車を走らせて楡次を去っていました。
その報告を聞いて蓋聶が言いました「わしが睨みつけたのだから去って当然だ。」
 
荊軻は邯鄲を周遊しました。しかし魯句践(魯が姓、句践が名)荊軻と博(賭博)で争い、怒って叱咤しました。荊軻は何も言わずに逃走し、二度と戻りませんでした。
 
荊軻は燕に入りました。
燕の狗屠(犬肉を売る者。名はわかりません)と筑(琴に似た楽器)を得意とする高漸離という者と親しくなります。
荊軻は酒を愛したため、毎日、狗屠や高漸離と燕の市で飲みました。酒がまわると高漸離が筑を弾き、荊軻が和して市中で歌います。互いに楽しそうに過ごした後、一緒に泣きました。その様子は周りに人がいないようでした。
荊軻は酒飲み達と一緒にいましたが、その為人は慎重沈着で、読書を愛しました。諸侯の各国を遊歴した時には賢豪長者と関係を結び、燕に入ってからも燕の処士田光先生が荊軻を庸人(凡人)ではないと見抜いて厚く遇しました。
 
暫くして、秦で人質になっていた燕の太子丹が逃げ帰って来ました。
太子丹はかつて人質として趙にいました。秦王政も趙で生まれたため、幼少の頃、太子丹と親しくなりました。
しかし政が秦王になってから太子丹が人質として秦に行きましたが、秦王政は太子丹を冷遇しました。太子丹が秦から逃げ帰ったのはそのためです。
太子丹は怨みに報いようとしましたが、燕は国が小さいためその力がありません。
この頃、秦は日々山東に出兵して斉、楚、三晋を攻撃し、諸侯の地を呑み込んでいきました。その勢いは燕にも迫ります。燕の君臣は秦の禍を恐れました。
太子丹も秦を憂いています。そこで傅(教育官)の鞠武に対策を問うと、鞠武はこう答えました「秦の地は天下を覆い、韓趙氏に脅威を与え、北には甘泉谷口の固(険阻な地)があり、南には涇渭の沃(肥沃な地)があり、巴漢の饒(富)を独占し、右には隴蜀の山が、左には関殽の険があり、民は多く士も強く、兵革(武器)にも余りがあります。もし秦にその意思があれば(燕を攻撃するつもりになれば)、長城の南から易水の北に至るまで、安定を保つことができなくなります。なぜ侮られた怨みによって敢えて逆鱗を打つのですか(侮られたからといって秦に逆らうべきではありません)。」
太子丹が「それではどうすればいいのだ?」と問うと、鞠武は「もう少し考えさせてください」と答えました。
 
少しして秦将樊於期が秦王の罪を得たため、燕に亡命しました。太子丹は樊於期を受け入れて屋敷に住ませます。
それを知った鞠武が諫めて言いました「いけません。秦王の凶暴と燕に対して積もらせた怒りだけでも我々の心を充分寒くさせているのに、樊将軍がここにいると知ったらどうなるでしょう。これは『飢えた虎の道に肉を置く(委肉当餓虎之蹊)』というものです。禍から逃れることはできず、たとえ管(管子晏子がいたとしても策謀を出せません。太子は速く樊将軍を匈奴に送って口(秦が燕を討伐する口実)を除き、その上で西は三晋と約し、南は斉楚と連合し、北は単于匈奴と講和して、秦に対する方法を図るべきです。」
太子が言いました「太傅の計は長い時を必要とする。私の心は乱れており、須臾(一時)も待つことができない。それだけではない。樊将軍は天下において窮困し、丹(私)を頼ってきた。丹には強秦の脅迫によって哀憐の交(友)を棄てるようなことはできない。匈奴に送るのは丹の命が終わる時だ。太傅には考え直してほしい。」
鞠武が言いました「危険なことを行って安全を欲し、禍を造って福を求め、浅い計によって怨を深くし、新たに一人と交わりを結んで国家の大害を顧みないとは、『怨みを溜めて禍を助長する(資怨而助禍)』というものです。鴻毛(大雁の羽毛)を爐炭の上に置いたら何の妨害も受けずに焼尽します。鵰鷙(猛禽)の秦が怨暴の怒を行ったらどうなるか、言うまでもありません。」
鞠武は太子丹を説得しましたが、考えを変えられないと察してこう教えました「燕には田光先生がおり、その為人は智が深く勇敢なうえに沈着なので、あるいは共に謀ることができるかもしれません。」
太子が言いました「太傅を通して田先生と交わりたいが可能か?」
鞠武は「謹んで命に従います(敬諾)」と言うと、田先生に会って「太子が先生と共に国事を図りたいと思っています」と伝えました。
田光は「命を受け入れます(敬奉教)」と言って太子を訪ねました。
 
太子は田光を迎え入れ、後ろを向いて歩きながら先導し(「却行為導」。後ろにいる田光の方を向いて先導しているので、後ろ向きに歩くことになります。客に背を向けず正面を向けて先導するのは敬意を表します)、跪いて席を払いました。田光が席に座ります。周りには誰もいません。太子が自分の席から離れて田光に言いました「燕と秦は両立できません。先生の留意を願います(教えをいただきたいです)。」
しかし田光はこう言いました「騏驥(名馬)は盛壮の時には一日に千里を駆けることができますが、衰老したら駑馬(駄馬)にも先を越されるといいます。太子は光(私)が盛壮だった時の事を聞いただけで、臣の精が既に消亡したことを知りません。但し、光には国事を図ることができませんが、臣と親しくしている荊卿なら用いることができるでしょう。」
太子が言いました「先生を通して荊卿と交わりを結びたいと思いますが、可能でしょうか?」
田光は「命に従います(敬諾)」と言うとすぐ立ち上がって小走りで退出しました。貴人の前で小走りになるのは当時の礼です。
太子は田光を門まで送りました。
別れる時、太子が田光を戒めてこう言いました「丹(私)が伝えたことも先生が語ったことも国の大事です。先生がこれを漏らさないことを願います。」
田光は体を屈めて笑い、「わかりました(諾)」と答えました。
 
田光は猫背で歩いて荊卿に会いに行き、こう言いました「光(私)と子(あなた)が親しいことを燕国で知らない者はいません。今、太子が光の壮盛の時だけを聞き、私の形(体)が及ばないことを知らなかったため、幸いにも『燕と秦は両立できません。先生の留意を請います』という言葉をいただきました。光は足下を自外(外人。他人)とは思っていないので、足下を太子に推薦しました。足下が宮中の太子を訪問することを願います。」
荊軻は「教えを受け入れます(謹奉教)」と答えました。
田光が言いました「長者(立派な人物)の行いとは人に疑われないという。しかし太子は光に『今語ったことは国の大事なので先生が漏らさないことを願う』と言った。これは太子が光を疑ったからだ。行動を起こしながら人に疑われるようでは、節俠(節操がある侠士)とはいえない。」
田光は自分が死ぬことで荊卿を憤激させようと思い、「足下はすぐ太子を訪問し、光が他者に話さないことを表明するために既に死んだと伝えてください」と頼むと、自刎して死にました。
 
こうして荊軻が太子に会いに行きました。荊軻はまず田光が死んだことを話し、田光の言を伝えます。太子は再拝してから跪き、膝で歩いて涙を流しました。暫くして太子が言いました「丹が田先生に他言しないよう戒めたのは、大事の謀を成したいと思ったからだ。今、田先生は死をもって他言しないことを明らかにしたが、丹の心意ではない。」
 
荊軻が席に座ると、太子は自分の席から降りて頓首し、こう言いました「田先生は丹の不肖を知らず(私を不肖とみなさず)、私をあなたの前に至らせ、あなたと話をする機会を与えてくれました。これは天が燕を哀憐し、孤(『史記索隠』は、「孤」は国君の自称なので燕王喜の太子が孤と称すのは誤りという説と、諸侯の嫡子が孤と称すこともあったという説を紹介しています)を棄てていないからです。今の秦には貪利の心があり、その欲が満足することはなく、天下の地を奪い尽くし、海内の王を全て臣従させなければ、その意思は止まりません。秦は既に韓王を虜にしてその地を全て併呑しました。また、兵を挙げて南の楚を撃ち、北は趙に臨んでいます。王翦が数十万の衆を率いて漳鄴に至り、李信が太原雲中を出ました。趙は秦を支えることができず、必ず臣となります。趙が秦の臣になったら禍は燕に至ります。燕は弱小なうえ、繰り返される戦のために困窮しているので、国を挙げても秦に抵抗することはできません。また、諸侯は秦に服しており、敢えて合従を称える者もいません。そこで丹が私計を考えました。もしも天下の勇士を得て秦に派遣し、重利を示して誘い出せば、秦王は貪婪なので必ず我々の願いを叶えることができます。秦王を脅迫して諸侯を侵して奪った地を全て返還させることができれば、曹沫が斉桓公を脅かした時と同じであり、大善(大功)となります。もしうまくいかなかったら、機に乗じて秦王を刺殺します。秦の大将はそれぞれ自ら兵を率いて国外にいるので、国内で乱があれば君臣が互いに猜疑します。その隙に諸侯が合従すれば、必ず秦を破ることができます。これは丹の上願ですが、誰に命を委ねるべきかわかりません。荊卿の留意を願います。」
荊軻は久しく考えてからこう言いました「これは国の大事です。臣は駑下(才能がないこと)なので恐らく任務を全うできません。」
しかし太子が前に進み出て頓首し、頑なに懇願したため、荊軻はついに同意しました。
太子は荊卿を尊んで上卿とし、上舍に住ませます。
また、太子は毎日、荊軻の門下を訪問して太牢具(牛馬をそろえた食事)を進め、珍宝異物を贈りました。車騎も美女も荊軻が望むものを全て与えて満足させます。
 
 
 
次回に続きます。