第八十八回 孫臏が禍から脱し、龐涓が桂陵で敗れる(三)

*今回は『東周列国志』第八十八回その三です。
 
この頃、墨翟が雲遊して斉に至り、客として田忌の家に泊まっていました。弟子の禽滑が魏から来たため、墨翟が問いました「孫臏は魏で意を得ることができたか?」
すると禽滑は孫子が刖刑に遭ったことを墨翟に語りました。
墨翟が嘆いて言いました「私は臏を推挙したかったのに、逆に害してしまった。」
墨翟孫臏の才と龐涓が嫉妬している事を田忌に話しました。
そこで、田忌が斉威王に進言しました「我が国に賢臣がいたのに、異国で辱めを受けさせてしまいました。これはあってはならないことです(大不可也)。」
威王が言いました「寡人は兵を発して孫子を迎えようと思うがどうだ?」
田忌が言いました「龐涓は臏が本国(魏)に仕えることも許容できませんでした。どうして斉国に仕えることを許容できるでしょう。孫子を迎え入れたいのならこのようにするべきです。秘かに車に載せて帰れば万全を保てます。」
威王は田忌の謀を採用し、すぐに客卿淳于髠を呼んで、茶を献上するという名目で魏に派遣しました。本当の目的は孫子に会うことです。命を受けた淳于髠は国書を持って斉を出ました。一行は茶車を押して魏国に入り、禽滑も従者のふりをして従いました。
 
淳于髠が魏都で魏恵王に謁見し、斉侯の命(言葉)を伝えました。恵王は大喜びし、淳于髠を館駅に送ります。
禽滑は発狂した孫臏を見つけました。その時は言葉を交わさず、夜半になって秘かに訪問します。
孫臏は井欄に寄りかかって座っており、禽滑を見ても目を見開くだけで何も言いません。
禽滑が涙を流して言いました「孫卿はここまで困窮していたのですか。私は墨子の弟子禽滑です。我が師が孫卿の冤罪を斉王に語ったので、斉王は孫卿を傾慕しています。淳于公が今回来たのは茶を貢納するためではありません。孫卿を車に乗せて斉に帰り、卿のために刖足の仇に報いることが目的です。」
孫臏は雨のように涙を流し、暫くしてやっと言いました「某(私)は溝渠(荒野)で死ぬものと覚悟しており、今日このような機会を得られるとは思ってもいませんでした。しかし龐涓の疑慮は甚だしいので、某を連れて帰るのは困難です。どうするつもりでしょうか?」
禽滑が言いました「我々は既に計策を定めています。孫卿が心配する必要はありません。出発する時が来たら迎えに来ます。」
禽滑はこの場所で再会することを約束し、他の場所に移らないように伝えました。
 
翌日、魏王が淳于髠を歓待しました。善辯の士と知って厚く金帛を贈ります。
淳于髠が魏王に別れを告げて帰国しようとすると、龐涓が餞別のために長亭で酒宴の準備をしました。
宴の前夜、禽滑があらかじめ温車(荷台がある車)を準備して孫臏を隠しました。孫臏の衣服は廝養(雑役の奴隷)王義に着せます。王義は髪を乱して泥を顔に塗り、孫臏の姿を装いました。
翌朝、地方(現地の官員)孫臏の居場所を報告し、龐涓はそれを信じました。
 
淳于髠は長亭で龐涓と歓飲してから別れを告げました。その間に禽滑に命じて車を駆けさせています。淳于髠もすぐに後を追いました。
 
数日後、王義も逃げて来ました。地方(現地の官員)は一面に棄てられた汚れた衣服を見つけます。孫臏の姿が見つからないため、急いで龐涓に報告しました。
龐涓は孫臏が井戸に身投げして死んだのではないかと疑い、人を送って井戸の中を探させましたが、死体は見つかりませんでした。
周りの井戸をいくつも探しても(あるいは「周りの家を訪ねてまわっても」。原文「連連挨訪」)全く結果がありません。
龐涓は魏王に譴責されることを恐れ、左右の者を戒めて他言を禁じ、「孫臏が溺死した」とだけ報告しました。斉国に投じたとは思いもよりませんでした。
 
淳于髠は孫臏を車に乗せて走り、魏境を離れてからやっと沐浴させました。
臨淄に入ると田忌自ら十里外まで迎えに来ます。孫臏到着の報告を受けた威王は孫臏を蒲車(隠士を乗せる車)で入朝させました。
威王が兵法について問い、官爵を与えようとしましたが、孫臏は辞退してこう言いました「臣には寸功もないので、爵を受けるわけにはいきません。また、龐涓がもし臣が斉に用いられたと聞いたら、妒嫉(嫉妬)の端(発端)となってしまうでしょう。この事は暫く隠しておいてください。臣を用いる時が来たら尽力させていただきます。」
威王は同意しました。
孫臏は田忌の家に住むことになります。田忌は孫臏を尊重して上客にしました。
 
孫臏は禽滑と一緒に墨翟を訪ねて謝意を述べたいと思いましたが、師弟二人は別れも告げず既に去っていました。
孫臏は嘆息が止みません。
その後、人を送って孫平と孫卓の状況を尋ねさせましたが、全く消息がなく、始めて龐涓の詐術だったことに気がつきました。
 
斉威王は暇な時に宗族の諸公子と馳射(馬を駆けながら矢を射る競技)を行い、勝敗を賭けて遊んでいました。
田忌の馬は斉王の馬に力が及ばないため、連敗して金を失っています。
ある日、田忌が孫臏を連れて射圃に行き、競技を見ました。孫臏は馬力にそれほど差がないのに田忌が三戦三敗したのを見て、秘かにこう言いました「あなたが明日も射を競うのなら、臣があなたに必ず勝たせてみせます。」
田忌が言いました「先生が必ず某(私)に勝たせてくださるのなら、某は王に千金を賭けることを請いましょう。」
孫臏が言いました「あなたの好きなように賭けを請うてください(君但請之)。」
そこで田忌が威王に言いました「臣は馳射で連敗しました。明日は家財を投げ打って輸贏(勝敗)を決したいと思います。每棚(毎回)、千金を采(賭け金)とさせてください。」
威王は笑って同意しました。
当日、諸公子も車馬を飾って場圃に集まりました。見物に集まった百姓は数千人に上ります。
田忌が孫子に問いました「先生の必勝の術とはどのようなものですか?千金で一棚です。戯れではありません。」
孫臏が言いました「斉の良馬は王厩に集まっています。あなたが順番に戦ったら(原文「次第角勝」。「角勝」は勝敗を競うこと)、勝つのは困難です。しかし臣は術によって勝利を得ることができます。三棚には上中下の別があります。まず、あなたの下駟(下等の馬車)を相手の上駟(上等の馬車)に当ててください。それから、あなたの上駟を相手の中駟と競わせ、あなたの中駟を相手の下駟と競わせます。こうすれば、あなたは一敗しますが、必ず二勝できます。」
田忌は「素晴らしい(妙哉)」と言って金鞍錦韉で下等の馬を飾りました。上駟に見せて威王と第一棚を賭けます。その結果、馬の足がはるかに及ばず、田忌は千金を失いました。
威王が大笑すると、田忌が言いました「まだ二棚あります。臣が全て負けてから笑っても遅くはありません。」
果たして、二棚と三棚は田忌の馬が勝利しました。田忌が千金の采物を多く受け取ります。
競技が終わってから田忌が上奏しました「今日の勝利は臣の馬の力によるものではありません。孫子が教えたのです。」
田忌が詳しく説明すると、威王が嘆息して言いました「このような小事からも孫先生の智を見ることができた。」
この後、ますます孫臏を敬重し、巨額な賞賜を与えました。
 
 
魏恵王は孫臏を廃してから龐涓に中山奪還の責任を一任しました。
龐涓が上奏しました「中山は魏から遠く離れており、趙は魏の近くにあります。遠くを争うくらいなら、近くを割かせるべきです。臣は邯鄲を直接突いて中山の恨に報いることを請います。」
恵王は同意しました。
 
龐涓が車五百乗を動員して趙を攻撃し、邯鄲を包囲しました。邯鄲の守臣平選(または「牛選」)は連戦連敗して趙成侯に上表します。
成侯は人を斉に送って中山を賄賂にすることで援軍を求めました。斉威王は孫子の能力を知っていたため、大将に任命します。しかし孫臏は辞退してこう言いました「臣は刑余の人なので、もし兵を主管したら斉国に別の人才がいないことを示し、敵に笑われてしまいます。田忌を将にしてください。」
威王は田忌を将に任命し、孫臏を軍師にしました。孫臏は常に輜車の中におり、名を表に出すことなく隠れて策を練ります。
田忌が兵を率いて邯鄲を援けようとすると、孫臏が止めて言いました「趙将は龐涓の敵ではありません。我々が邯鄲に至った時には、既に城が落ちています。中道(道中)に駐兵して襄陵(魏領)を討つと宣言するべきです。そうすれば龐涓は必ず還ります。還ってきたところを撃てば、勝利は間違いありません。」
田忌はこの策を用いることにしました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十八回その四に続きます。

第八十八回 孫臏が禍から脱し、龐涓が桂陵で敗れる(四)