第八十八回 孫臏が禍から脱し、龐涓が桂陵で敗れる(四)

*今回は『東周列国志』第八十八回その四です。
 
この頃、邯鄲に救援が現れないため、平選は城を挙げて龐涓に投降しました。龐涓は人を送って魏王に勝報を伝えます。
ところが龐涓が入城しようとした時、突然、斉が田忌を派遣して襄陵を奇襲したという報告が入りました。
龐涓が驚いて言いました「襄陵を失ったら安邑が震動する。我々は引き返して根本(本拠)を救うべきだ。」
魏軍は撤兵しました。
 
魏軍は桂陵から二十里離れた場所で斉軍に遭遇しました。
孫臏はあらかじめ諜報によって魏軍が向かっていると知っていたため、既に準備を整えてあります。まず、牙将袁達に命じ、兵三千人で道を塞いで魏軍に戦いを挑ませました。
龐涓の族子龐蔥が率いる前隊が到着して袁達軍を攻撃します。二十余合戦った頃、袁達が敗れたふりをして逃走しました。
龐蔥は計策を恐れて追撃せず、龐涓に報告します。
すると龐涓が怒鳴って言いました「偏将すら逃して捕えられないようでは、田忌を擒にすることはできない!」
龐涓はすぐに大軍を率いて追撃しました。
 
魏軍が桂陵に至ると、前方で斉兵が陣を構えていました。龐涓が車に乗って陣形を観察します。
斉軍の陣は孫臏が魏国に来た時に披露した「顛倒八門陣」でした。
龐涓は心中で不思議に思い、こう考えました「あの田忌がどうしてこの陣法を知っているのだ。まさか、孫臏が斉国に帰ったのか?」
龐涓も魏軍の隊列を整えさせました。
やがて、斉軍から「田」と書かれた大将の旗号が現れ、一輌の戎車が出てきました。甲冑を身に着けた田忌が画戟を持って車中に立っており、田嬰が戈を持って車右に立っています。
田忌が大きな声で言いました「魏将で能がある者(能事者)よ、前に出て対話に応じよ(上前打話)!」
龐涓が自ら車を出して田忌に言いました「斉と魏は今まで和好であった。魏と趙には怨があるが、なぜ斉が干渉するのだ!将軍は友好を棄てて仇を求めているが、失計ではないか!」
田忌が言いました「趙が中山の地を我が主に献じたから、我が主はわしに師を率いて趙を救わせたのだ。魏も数郡の地を割いて我が主に譲るのなら、すぐに兵を退こう。」
龐涓が激怒して言いました「汝に何の本事(能力。力)があって某(わし)と対陣するのだ!」
田忌が言いました「汝に本事があるのなら、我が陣を見破ることができるか?」
龐涓が言いました「それは『顛倒八門陣』だ。わしは鬼谷子から教えを受けた。汝はどこかで一二を窺い知っただけなのに、逆にわしに問うのか!我が国では三歳の孩童(児童)でも皆知っていることだ!」
田忌が言いました「知っているのなら、この陣を撃てるか?」
龐涓は心中で躊躇しましたが、もし攻撃しなかったら志気を喪ってしまいます。そこで、大声で応えて言いました「既に知っているのだから、撃てないはずがなかろう!」
龐涓が龐英、龐蔥、龐茅に命じて言いました「かつて孫臏がこの陣について語ったことがあるから、攻撃の法はだいたい分かっている。この陣は長蛇に変わることができる。首を撃てば尾が応じ、尾を撃てば首が応じ、中を撃てば首と尾が共に応じる。だから攻撃した者が必ず困窮するのだ。今からわしがこの陣を撃つ。汝等三人はそれぞれ一軍を指揮し、陣が一変するのと同時に三隊そろって前進せよ。首尾が互いに顧みることができなくなれば、この陣は必ず敗れる。」
指示を終えた龐涓は自ら五千の選鋒(精鋭)を選んで攻撃を開始しました。
龐涓の兵が陣中に入ると、八方の旗色が次々に場所を換え、どの門が八門のどこにあたるのかわからなくなりました。八門とは、休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門、開門を指します。
魏軍は東西を突いて出口を探しましたが、戈甲が林立して脱出できません。
その時、金鼓が突然鳴り響き、四方から喚声が起こりました。高々と掲げられた旗には軍師の「孫」という文字が書かれています。
龐涓が驚いて言いました「刖夫はやはり斉国にいたのか!わしは彼の計に堕ちてしまった!」
まさに危急の時、龐英と龐蔥が両路の兵を率いて殺到し、なんとか龐涓を救出しました。五千の選鋒は一人も残っていません。
龐茅の行方を確認し、既に田嬰に殺されたと知りました。失った兵は総数二万余人に上ります。龐涓は深く傷感しました。
元々この八卦陣は八方向に兵が配置されており、中央戊己(「戊己」も中央の意味)を併せて九隊の車馬がいました。形は正方形です。
しかし龐涓が陣に攻め入った時、首尾の二軍が二角(飛び出した部分)となって外から来る援軍を防ぎ、残った七隊の車馬が位置を変えて円陣になったため、龐涓はその中で攪乱されました。
後に唐朝の衛国公李靖がこの円陣を元に六花陣を編み出しました。
(明清時代)も堂邑県の東南に古戦場という地名がありますが、かつて孫子と龐涓が戦った場所です。
 
龐涓は孫臏が軍中にいると知って心中で恐懼しました。龐英、龐蔥と商議し、営を棄てて昼夜遁走します。
田忌と孫臏は魏軍の陣営が空になったと知り、斉に凱旋しました。これは周顕王十七年の事です。
龐涓は桂陵で大敗しましたが、邯鄲を占領した功績があります。魏恵王は龐涓の罪を問わず、新たに功を挙げる機会を与えることにしました。
 
斉威王は田忌と孫臏を寵任し、兵権を委ねました。
ところが騶忌が自分の相の位を失うことになるのではないかと危惧し、秘かに門客の公孫閲と相談して田忌と孫臏の寵を失わせる策を練りました。
ちょうど龐涓も人を派遣して騶忌に千金の賄賂を贈りました。孫臏を退けるように求めるためです。
騶忌はまさに我が意にかなっていたため、賄賂を受け取って策を実行しました。
まず、公孫閲に田忌の家人の姿をさせました。公孫閲は十金を持って五鼓(五更。午前三時から五時。早朝)に卜者の門を叩き、こう言いました「私は田忌将軍に遣わされてきた。占卦を求めたい。」
卦を行ってから卜者が問いました「この卦は何に使うのですか?」
公孫閲が言いました「我が将軍は田氏の宗であり、兵権を掌握して隣国に威を震わせている。今、大事を謀っているので、吉凶を判断してほしいのだ。」
卜者が驚いて言いました「それは悖逆(反逆)の事です。私には関与できません。」
公孫閲が言いました「先生が吉凶の判断をしないのなら仕方がない。しかしこの事は人に洩らすな。」
公孫閲が門を出てすぐに、騶忌が送った者が到着して卜者を捕らえ、「叛臣田忌に代わって占卦を行った」と罪を宣言しました。
卜者が無罪を訴えて言いました「私の小店に人が来ましたが、占ってはいません。」
報告を受けた騶忌が入朝して田忌の占を威王に報告しました。証人として卜者を連れて来ます。
威王は疑いを持ち、每日、人を送って田忌の挙動を探らせるようになりました。
経緯を聞いた田忌は病と称して兵政を辞すことで斉王の疑いを解きました。孫臏も軍師の職を辞退します。
 
翌年、斉威王が死んで子の辟疆が即位しました。これを宣王といいます。
宣王は田忌の冤罪と孫臏の才能を知っていたため、二人を呼び戻して元の職位に就けました。
 
龐涓は斉国が田忌と孫臏を退けたと聞いて大喜びし、こう言いました「わしは今日やっと天下に横行できる。」
当時、韓昭侯が鄭国を滅ぼしてその地を新都にしました。
趙の相国公仲侈が韓に入って祝賀し、共に魏を攻めるように誘います。魏を滅ぼした日には魏の地を分割すると約束しました。
昭侯はこれに同意して「ちょうど荒饉(飢饉)に遭ったので、来年になるのを待って、兵を従えて進討しよう」と答えました。
この情報を知った龐涓が魏恵王に言いました「韓が趙を援けて魏を攻めようとしているようです。まだ合流する前に、先手を打って韓を攻め、彼等の謀を失わせるべきです。」
同意した恵王は太子申を上将軍に、龐涓を大将に任命し、国中の兵を総動員して韓国に進発させました。
勝負はどうなるのか、続きは次回です。

第八十九回 馬陵道で龐涓を射ち、咸陽市で商鞅を分屍する(一)