戦国時代 范睢のこと

秦昭襄王五十二年255年)に范睢が退きました。

戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年

ここでは范睢に関する二つの事を書きます。
 
一つ目は范睢の名です。
本編は『資治通鑑』を基礎にしているので、『資治通鑑』にならって「范睢」と書いて来ました。中華書局の『史記』でも「范睢」となっています。
しかし通常は「范雎」が正しいといわれています。
「睢」ではなく「雎」です。前者は部首が「目」ですが、後者は「且」です。「睢」は「スイ」と読み、「雎」は「ショ」と読みます。
 
これに関して、『通鑑注辨正』に記述があります「武梁祠の画像は『且』としており『且』と『雎』は同字である。よって『且』に従うべきであって『目』に従うべきではない(「雎」が正しく「睢」は間違い)。『雖(スイ)』と読むのは甚だしい誤りである。」
『通鑑注辨正』は清代の銭大昕が著した注釈書です。
武梁祠は東漢後漢時代に立てられた祠堂(祖先や聖賢を祀る場所)で、多数の石刻画で飾られています。その中の一つに范雎の図があり、「范且」と書かれているようです。
 
本編は「范睢」で通しましたが、現在は「范雎」が正しいとする説が有力です。
(『東周列国志』は「范睢」と書かれていましたが、「范雎」に統一しました。)
 
 
二つ目は范雎の死に関してです。
これに関してはコメントをいただきました。ありがとうございます。

戦国時代 田単

 
范雎は蔡澤の進言を聞いて危険を悟り、自ら相の地位を去ったといわれています。『史記范睢蔡澤列伝(巻七十九)』に詳しい記述があり、『資治通鑑』もこれに従っています。
しかし林剣鳴の『秦史稿』1981年)が反対意見を書いています。以下、第十章の注釈から抜粋します「(『史記范睢蔡澤列伝』に描かれている、蔡澤の言を聴いて位を辞したという記述は)范雎の一生における為人と大きな隔たりがある。范雎は決して満足することを知って引き下がるような人物ではないので、『物が盛んになったら衰える』という道理だけで相位を蔡澤に譲るとは考えられない司馬遷のこの記載は『戦国策(秦策三)』と同じだが、虚構があるはずだ。
果たして、新たに出土した資料によって上述の記述が信用できないことが証明された。
『雲夢秦簡』の『編年紀』に「五十二年、王稽、張禄死」と書かれている。張禄とは范雎である。范雎は昭襄王五十二年、邯鄲で秦軍が失敗して河東が陥落してから、王稽と一緒に死んだ。最近の研究では、鄭安平と王稽の事件に連座して死に到らされたのであり、決して自ら位を譲ったのではないとされている(黄盛璋『雲夢竹簡[編年紀]初歩研究』参照)。」
 
『雲夢竹簡』というのは、1975年に湖北省雲夢県で発掘された竹簡で、法律制度、経済、文化、医学等、多方面にわたる内容が網羅されている重要な史料です。その中に「編年紀」、つまり年表があり、秦昭襄王から始皇帝までの時代に起きた出来事が簡潔に記されていました。
黄盛璋が『雲夢竹簡[編年紀]初歩研究』1977年)という論文の中で范雎の死について述べており、『秦史稿』はそれを元に范雎と蔡澤のやり取りが虚構ではないかと判断しています(『雲夢竹簡[編年紀]初歩研究』は入手できなかったので、原文は確認していません)
 
『秦史稿』の二十年ほど後、白寿彝主編の『中国通史』が発表されました。その中でも范雎の死について語っています「公元前(紀元前)257年、魏楚両国の軍隊が(秦に包囲されている)趙を援けた。邯鄲城下の秦軍は趙軍と魏軍、楚軍に挟撃されて大敗した。鄭安平は趙軍に包囲され、二万人の兵を率いて趙に降った。趙は鄭安平を武陽君に封じた。鄭安平は公元前255年に趙で死んだ。
范雎の推挙によって河東太守になった王稽も諸侯と通じて法に坐し、誅されてしまった。
秦王は激怒し、范雎も誅殺しようとした。この情報を聞いた燕国の人蔡澤が范雎に遊説し、位から退いて賢人に譲るように勧めた。その結果、范雎は自ら重病と称して蔡澤を相に推挙した。
雲夢秦簡『編年紀』は公元前255(秦昭襄王五十二年)に『王稽、張禄死』と書いている。これは王稽が処刑されたのと同じ年に范雎も病死したという意味である(『中国通史第三巻』上古時代下冊 第十三章范雎)。」
 
『中国通史』は蔡澤の進言も『編年紀』の記述も事実と考え、范雎は王稽と同年に死んだが処刑されたのではなく病死したと書いています。少し都合が良すぎるようにも思えますが、あるいは本当に病を患っており、范雎自身も潮時だと思っていたのかもしれません。
 
以上、范雎の死に関する二つの記述を紹介しましたが、真相ははっきりしません。