第九十四回 馮驩が孟嘗の客となり、斉王が桀宋を伐つ(二)

*今回は『東周列国志』第九十四回その二です。
 
秦昭襄王は孟嘗君を失ったことを後悔しており、また、孟嘗君がもたらす影響を恐れ、こう考えました「あの者が斉国で用いられたら、いずれ秦の害になるだろう。」
そこで、昭襄王は謠()を拡散させて斉国に流しました。その内容はこうです「孟嘗君の高名は天下に聞こえており、天下は孟嘗君がいることを知っていても斉王がいることは知らない。近々、孟嘗君が斉に代わるだろう。」
更に人を送って楚頃襄王にこう伝えました「以前、六国が秦を攻撃した時、斉兵だけが後になりました。あれは楚王が自ら従約長になったため、孟嘗君が不満をもって兵を共にしなかったのです。懐王が秦にいた時は、寡君が懐王を帰国させようとしたのに、孟嘗君が人を送って寡君に懐王を帰らせないように勧めました。太子が質として斉にいたので、秦に懐王を殺させて、彼は太子を留めて斉のために領地を強要しようとしていたのです。そのため太子は危うく帰国できなくなり、懐王は秦で死んでしまいました。寡君が楚に対して罪を得たのは全て孟嘗君が原因です。寡君は楚のために孟嘗君を得て殺そうとしましたが、逃げられてしまいました。孟嘗君は今また斉相として権力を専らにしており、旦暮(朝晩)にも斉を簒奪するでしょう。そうなったら秦と楚は多事(多難)になります。寡君は以前の禍を悔いて楚と友好を結び、娘を楚王に嫁がせて共に孟嘗君による変事に備えたいと願っています。大王に願いを聴いていただければ幸いです。」
楚王はこの言に惑わされ、秦と通和して秦王の娘を夫人にしました。また、楚からも人を送って斉で孟嘗君の謀反に関する噂を流しました。
 
斉湣王は孟嘗君を疑い、相印を没収して薛邑に帰らせました。
孟嘗君の賓客は孟嘗君が相を罷免されたと知り、次々に去っていきます。最後は馮驩だけが残り、孟嘗君のために車を御しました。
孟嘗君が薛に入る前に、薛の百姓が出迎えに来ました。老人も子供も支え合って駆けつけ、争って酒食を献上したり起居を問います(「問起居」。挨拶すること。生活の心配をすること)
孟嘗君が馮驩に言いました「これが先生のいう文(私)のために徳を収めたというものだ。」
馮驩が言いました「臣の意はこれだけではありません。臣に一乗の車を貸していただければ、必ずあなたはこの国においてますます尊重され、俸邑を更に広げることができます。」
孟嘗君が言いました「先生の命(言葉)に従おう。」
 
数日後、孟嘗君が車馬と金幣を準備して馮驩に言いました「先生の行きたいところに行けばいい。」
馮驩は車を走らせて西の咸陽に入りました。
馮驩が昭襄王に謁見して言いました「秦で遊説する士は、秦が強くなって斉が弱くなることを欲しています。逆に斉で遊説する士は、斉が強くなって秦が弱くなることを欲しています。秦と斉の形勢は両雄が並び立つわけにはいかず、雄となった者が天下を得ることになります。」
秦王が問いました「先生には、秦を雌にさせず雄にするための策があるのか?」
馮驩が逆に問いました「大王は斉が孟嘗君を廃したことを知っていますか?」
秦王が言いました「寡人も聞いたが、信じてはいない。」
馮驩が言いました「斉が天下に重んじられているのは、孟嘗君の賢才が原因です。今、斉王は讒毀に惑わされて一旦(一朝)にして相印を没収し、彼の功績を罪とみなしています。孟嘗君は間違いなく斉を深く怨んでいます。怨みを抱いているこの時を利用して秦が孟嘗君を用いれば、斉国の陰事(機密)が全て秦に入ります。それを使って斉を謀れば、斉を得ることができます。雄になるだけではありません(斉と雌雄を決するだけでなく、斉国そのものを占領できます)。大王は急いで使者を送り、重幣を車に積んで秘かに孟嘗君を薛から迎え入れるべきです。時を失ってはなりません。万一斉王が悔悟して再び用いたら、両国の雌雄はまた分からなくなります。」
当時、樗里疾が死んだばかりだったため、秦王は賢相を欲していました。馮驩の言に大喜びした秦王は良車十乗と黄金百鎰を準備し、使者を送って孟嘗君を迎えさせました。秦の使者は丞相孟嘗君を秦に案内する儀従(儀衛。随行する衛卒)の任務を帯びます。
馮驩が秦王に言いました「臣が大王のために先行して孟嘗君に報せましょう。使者の時間を無駄にしないためにあらかじめ束装させます(旅の準備をさせます)。」
馮驩は車を疾駆させて斉に戻ると、孟嘗君に会う暇もなく、まず斉王に謁見してこう言いました「斉と秦が互いに雌雄を争っているのは王も知ってのことです。人を得た者が雄となり、人を失った者が雌となります。今、臣が道中で聞いたところによると、秦王は孟嘗君が廃されたことを幸いとし、秘かに良車十乗と黄金百鎰を送って、孟嘗君を相として迎え入れようとしているそうです。もし孟嘗君が西に入って秦の相になったら、斉のために謀っていた者が秦のために謀ることになり、雄が秦に移ってしまいます。これは臨淄即墨の危機となります。」
湣王が顔色を変えて「それではどうするべきだ?」と問いました。
馮驩が言いました「秦の使者は旦暮(朝晩)にも薛に至るでしょう。大王は秦の使者がまだ来ないうちに孟嘗君の相位を復し、邑を加封するべきです。孟嘗君は必ず喜んで受け入れます。たとえ秦の使者が強引でも、王に報告することなく勝手に人の相国を連れて行くことはできません。」
湣王は「その通りだ(善)」と言いましたが、完全には信じていません。そこで境上に人を送って状況を探らせました。
すると次々に車騎が現れます。問い質した結果、本当に秦の使者でした。
湣王の使者は夜を通して奔走し、帰って湣王に報告しました。
湣王は馮驩に符節を渡して孟嘗君を迎えさせました。孟嘗君に相位を返して千戸を加封します。
秦の使者が薛に到着しましたが、孟嘗君が既に斉の相になったと聞いて西に帰りました。
 
孟嘗君が相位に復したため、以前の賓客が戻って来ました。
孟嘗君が馮驩に言いました「文(私)は客を愛して礼を失することがないようにしてきたが、いったん相を罷免されたら、客は皆、文を棄てて去っていった。今回、先生の力のおかげで位に復したが、諸客は何の面目があってまた文に会いに来たのだろう。」
馮驩が言いました「栄辱盛衰は物の常理です。あなたも大都の市を見たことがあるでしょう。旦(朝)は肩を斜めにしながら(体をねじりながら。原文「側肩」)争って門に入ろうとしますが、日が暮れたら誰もいなくなります。これは求める物がなくなったからです。富貴になれば多くの士が集まり、貧賎になれば交わりが少なくなるのは、世情の常です。不思議に思うことはありません。」
孟嘗君は再拝して「謹んで命(言葉)を聞こう」と言い、以前のように客を遇しました。
 
 
当時、魏昭王と韓釐王が周王の命を奉じて合従し、秦を攻撃しました。秦は白起に迎撃させます。
白起は伊闕で大戦し、二十四万を斬首しました。韓将公孫喜を捕らえて武遂の地二百里を奪います。
更に魏を攻めて河東の地四百里を得ました。
昭襄王は戦勝に喜びましたが、七国がそろって王を称しているため、自分の地位が突出していないことに満足せず、新たに帝号を立てて貴重を示そうとしました。
しかし独尊となることを嫌い、斉に人を送って湣王にこう伝えました「今、天下が相王し(互いに王を名乗り)、帰するところを知らない。寡人は西帝を称して西方の主になり、また、斉を尊重して東帝とし、東方の主にさせて天下を平等に分けたいと思うが、大王の意見は如何だ?」
湣王は決断できず、孟嘗君に問いました。
孟嘗君が言いました「秦は強横(強暴横柄)によって諸侯から嫌われています。王が倣うべきではありません。」
一月経って秦が再び斉に使者を送りました。湣王を趙討伐に誘います。
この時、ちょうど蘇代が燕から斉に来ていました。湣王はまず帝を併称する事について蘇代に意見を求めました。
蘇代が言いました「秦が帝号を他国と謀らず、斉だけにもたらしたのは、斉を尊重しているからです。退けたら秦の意に逆らうことになります。しかしすぐに受け入れたら諸侯に憎まれます。王は帝号を受け入れるだけで実際には称さないべきです。秦に帝を称させて西方の諸侯が奉じるのを確認してから、王が帝を称して東方の主になっても、遅くはありません。秦に帝を称させて諸侯が秦を憎んだら、王は秦の罪を問うことができます。」
湣王は「謹んで教えを受け入れよう」と言ってから、趙攻撃についても意見を聞きました。
蘇代が言いました「兵を出すのに名分が無かったら事は成功しません。趙に罪がないのに討伐しても、占領した地は秦の利となり、斉には何も与えられません。今、宋が無道なので天下は桀宋(下述)と号しています。趙を攻めるくらいなら宋を攻めるべきです。その地を得れば守ることができ(斉の領地となり)、その民を得れば臣にすることができます。しかも暴を誅するという名分もあります。これこそ湯武商王朝の成湯と西周王朝の武王)の挙というものです。」
喜んだ湣王は帝号を受け入ると回答しただけで実際には称さず、様子を伺いました。また、秦の使者を厚くもてなして趙討伐の誘いを辞退しました。
秦昭襄王は帝を称してわずか二カ月後に、斉がまだ王を称していると聞いて帝号を去りました。この後、二度と帝を名乗らなくなります。
 
 
 
*『東周列国志』第九十四回その三に続きます。

第九十四回 馮驩が孟嘗の客となり、斉王が桀宋を伐つ(三)