秦楚時代43 西楚覇王(十七) 蒯徹の進言 前203年(3)

今回も西楚覇王四年、漢王四年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
項王項羽は龍且が死んだと聞いて大いに懼れました。
そこで、盱台人武渉を斉に派遣しました。
武渉が斉王韓信に言いました「天下が共に秦のために苦しんで久しかったため、勠力(協力)して秦を撃ちました。その後、秦が既に敗れたので、功を計って地を割き、土を分けて王を封じることで士卒を休ませました。しかし今、漢王が再び兵を興して東に向かい、人の分(分配。封地を侵し、人の地を奪い、三秦を破ってから兵を率いて関を出て、諸侯の兵を収めて東の楚を撃ちました。その意図は天下をことごとく併呑しなければ休まないつもりです。漢王はこれほどまで厭足(満足)することを知りません。それに漢王は信用できません。漢王はしばしば項王の掌握の中にいましたが、項王が憐れに思ったから活かしたのです。しかし漢王は項王から脱するといつも約束を破り、再び項王を撃ちました。このように親信できないのです。今、足下は漢王と厚く交わっており、尽力して兵を用いていますが、最後は必ず漢王の禽(捕虜)となるでしょう。足下がとりあえず今まで存続できているのは、項王がまだ存在しているからです。今、二王の事は足下にかかっています。足下が右に投じれば漢王が勝ち、左に投じれば項王が勝ちます。項王が今日亡んだら、次は足下を取るでしょう。足下と項王は旧知です。なぜ漢に反して楚と連和し、天下を参分(三分)して王にならないのですか。今、この時(機会)を棄て、自ら漢に附いて楚を撃とうとしていますが、智者とはそのようなものなのでしょうか。」
韓信は謝意を示してこう言いました「臣が項王に仕えた時は、官は郎中に過ぎず、位は執戟(宿営)に過ぎず、臣の言は聞かれず、計画も用いられませんでした。だから楚に背いて漢に帰順したのです。漢王は私に上将軍の印を授け、私に数万の衆を与え、衣を解いて私に着せ、食を退けて我に食べさせ、私の言を聞いて計を用いました。だから私は今ここに居られるのです。人が私を深く親信しているのに私が背いたら不祥となります。たとえ死んでも変わることはできません。項王に謝意を伝えていただけたら幸いです。」
武渉は楚営に去りました。
 
蒯徹も天下の大勢が韓信にかかっていると知っていたため、相人(人相を看る占師)の術を使って韓信にこう言いました「私があなたの顔を看たところ、侯に封じられるだけで、しかも危険かつ不安です。しかしあなたの背を看たところ、言葉にできないほど高貴となります。」
これは漢に背けば高貴になれるということを暗示しています。
韓信が問いました「それはどういう意味だ?」
蒯徹が言いました「天下が初めて難を発した時(天下が反秦の挙兵をした時)、憂いるのは秦を亡ぼせるかどうかということだけでした。今は楚と漢が分かれて争うようになり、天下の人々の命を奪い(使天下之人肝膽塗地)、父子が骸骨を中野に曝し、それらの数は数え切れないほどです。楚人は彭城を出てから転戦して敗北した敵を追い、利に乗じて各地を席巻し、威が天下を震わせました。しかし兵が京索の間で困窮し、西山で逼迫して前進できなくなってから既に三年が経ちます。漢王は十万の衆を率いて鞏雒で対抗し、山河の険を利用して敵を防ぎ、一日に数戦していますが、尺寸の功を挙げることもできず、逆に敗走して自分を救う力もありません。これは智勇の者が共に困窮しているという状況です。百姓は疲労が極まって怨望(怨恨)していますが、帰するべき所がありません。臣が考えるに、このような情勢では天下の賢聖が現れなければ天下の禍を収めることはできません。今、両主の命は足下にかかっています。足下が漢のために動けば漢が勝ち、楚と与すれば楚が勝ちます。もし臣の計を聴くことができるのなら、双方を利して共存させ、天下を参分(三分)して鼎足のように並立するべきです。このような形勢になれば、誰も先に動こうとしません。足下の賢聖と甲兵の衆があり、強斉を拠点とし、趙燕を従わせ、空虚の地に出て(楚漢の)後方を制し、民の欲(要求。願い)に従い、西を向いて百姓のために命を請えば(斉は東方にあるので楚漢と対峙する時は西向きになります。民の命を救うために楚漢の戦闘を止めさせるという意味です)、天下が噂を聞いて駆けつけ、あなたに響応するでしょう。あなたの命を聴かない者はいません。大国を割き、強国を弱くして諸侯を立てましょう。諸侯が立てば天下が服聴し、徳(恩)を斉に帰します。そこで斉の故地を拠点とし、膠(二つの川)の地を有し、深拱揖讓すれば(礼をもって諸侯に接すれば)、天下の君王が相次いで斉に朝見しに来ます。『天が与えたのに取らなければ逆に咎を受け、時が至ったのに行わなければ逆に禍を受ける(天与弗取,反受其咎。時至不行,反受其殃)』といいます。足下の熟慮を願います。」
韓信が言いました「漢王は私をとても厚く遇した。どうして利に向かって義に背くことができるか。」
蒯生が言いました「かつて常山王(張耳)と成安君(陳余)が布衣(庶民)だった時、共に刎頸の交を結びました。しかし後に張黶、陳沢の事で争い、常山王が成安君を泜水の南で殺しました。成安君は頭と足が離れることになったのです。この二人が一緒の時は天下の至驩(最も仲がいい友人)でしたが、最後は殺し合うことになりました。なぜでしょうか?禍患とは多欲から生まれ、多欲は人心を測り難くさせるからです。今、足下は忠信を行って漢王と交わろうとしていますが、(漢王と韓信の関係は)二君(張耳と陳余)の関係ほど固くありません。しかも(漢王と韓信の間に発生している)事は張黶陳沢の事よりも重大です。よって、臣が思うには、足下が漢王に害されないと信じるのは誤りです。大夫種は亡越(滅亡した越)を存続させ、句践に覇を称えさせ、功を立てて名を成したのに、その身は死んで亡びました。野獣が尽きたら猟犬が煮殺されるものです(野獣尽而猟狗烹)。交友という面から言えば、張耳と成安君の交わりに及びません。忠信という面から言えば、大夫種の句践に対した忠信を越えることはありません。(あなたの禍は)この二者から充分見てとることができるので、足下の深慮を願います。臣はこうとも聞いています『勇略が主を震わす者は身を危うくし、功績が天下を覆う者は賞されない(勇略震主者身危,功蓋天下者不賞)』。今、足下は主を震わすほどの威勢を有し、賞することができないほどの功績をもっています。楚に帰順しても楚人は信用せず、漢に帰順しても漢人は恐れ震えるでしょう。足下はこのような威勢と功績をもってどこに帰すつもりですか?」
しかし韓信は辞退して「先生は暫く休んでください。少し考えてみます」と答えました。
 
資治通鑑』における蒯徹の「野獣が尽きたら猟犬が煮殺される(野獣尽而猟狗烹)」という言葉は、『史記・淮陰侯韓信列伝(巻九十二)』の「野獣が既に尽きたら猟狗が煮殺される(野獣已尽而猟狗烹)」が元になっています。『漢書蒯伍江息夫伝(巻四十五)』では「野鳥が尽きたら走犬(猟犬)が煮られ、敵国が破れたら謀臣が亡ぶ(野禽殫,走犬烹。敵国破,謀臣亡)」となっています。
かつて春秋戦国時代に越の范蠡が言った「飛ぶ鳥が尽きたら良弓がしまわれ、すばしこい兔が死んだら走狗が煮られる(蜚(飛)鳥尽,良弓蔵。狡兔死,走狗烹)」と同じ意味です。
大事が成就した後、必要が無くなった功臣を粛清することを「兔死狗烹」という四字熟語で表わします。
 
数日後、蒯徹が再び言いました「善く意見を聴くことができる者は、事の候(予兆)を掌握できます。善く計を謀ることができる者は、事の機(時機。機会)を把握できます。聴に過ちがあり(善く意見を聴くことができず)計を失いながら久しく安泰だった者は稀にしかいません。だから知者とは事を決する時に果断となり、疑いが多い者は事を行って害を招くのです。豪釐(些細なこと)な小計にこだわっていたら天下の大数を漏らすことになります。智によって知ることができながら敢えて行動しなかったら百事の禍を招きます。功とは、成すのは困難ですが、失敗するのは容易なものです。時(機会)とは、得るのは困難ですが失うのは容易なものです。時というのは二度と来ないのです(時乎時不再来)。」
それでも韓信は漢に背くことを躊躇しました。また、自分の功績が多大なので漢が自分から斉を奪うはずがないと信じました。結局、韓信は蒯徹の進言を拒否します。
蒯徹は韓信の下を去り、狂ったふりをして巫師になりました。
 
 
 
次回に続きます。