西漢時代 治安策(二)

賈誼による『治安策』の続きです。諸侯王に対する内容です。
 
「樹国(立国)においては必ず互いに疑うという形勢ができるものです(国を建てたら天子と諸侯の間で猜疑が生じるものです)。下はしばしば殃(禍)を蒙り、上もしばしば憂い悩むことになります。これは確かに上を安んじて下を全うする(守る)方法ではありません。今、親弟(実の弟)が東帝に立つことを謀り(淮南厲王劉長を指します)、親兄(実の兄)の子が西に向かって(朝廷を)攻撃し(済北王劉興居を指します。劉興居の父は斉悼恵王劉肥で、劉肥は文帝の兄に当たります)、呉でも告発する者が現れました(『漢書』の注によると、当時の呉王劉濞も漢の法を守らなかったため、告発する者がいたようです)。天子は春秋鼎盛(壮年)にあり、行いは義に順じてまだ過失もなく、徳沢(恩恵)も加えているのに、彼等はこのような態度でいます。最も大きな諸侯ならその権力は彼等の十倍にもなるでしょう。
それでも今の天下は少安にあります。これはなぜでしょうか。大国の王が幼弱で壮年になっておらず、漢が置いた傅や相が政事を掌握しているからです。しかし数年後には諸侯の王がほとんど冠礼を行い、血気が旺盛になります。そしてその頃には、漢の傅相が病を理由に罷免を賜り、彼等(諸侯王)が自ら丞尉(県官)以上の官に私人(個人的に信任している者)を置くようになります。そうなったら淮南王や済北王と何の違いがあるでしょうか。その時になって治安を欲しても、たとえ堯舜がいたとしても治められません。
黄帝はこう言いました『正午には必ず日が照らすから、その間に刀を持って切らなければならない(原文「日中必𤑒,操刀必割」。機会を失ってはならない、適切な時を選ばなければならないという意味です)。』今ならこの道(道理)を順じさせて全安させるのは(下を全うして上を安んじるのは)とても容易ですが、早く行動しなければ骨肉の属(親族)を傷つけて首を斬らなければならなくなります。これでは秦の季世(晩年)と違いがありません。
天子の位をもって今の時(時機。機会)に乗じ、天の助けを受けていても、危を安に換えて乱を治に為すことを懼れるものです(慎重に考慮するものです)。もし陛下が斉桓公(諸侯としばしば会盟を行って春秋時代の覇者になりました)の立場にいたとしたら(もし文帝が天子の立場ではなく斉桓公の立場におり、時機に乗じることもできず、天の助けもなかったとしたら)、諸侯を糾合して天下を匡(正)そうとはしないでしょう。臣も陛下にはそれができないと知っています(文帝には斉桓公のように諸侯を糾合することができないはずです)。もし天下が以前と同じで、淮陰侯(韓信)が楚王の地位におり、黥布が淮南王の地位におり、彭越が梁王の地位におり、韓信が韓王の地位におり、張敖が趙王の地位におり、貫高がその相を勤め、盧綰が燕王の地位におり、陳豨が代に駐留しており、この六七の公が無恙(病がないこと。健康健在)だったとして、その時に陛下が天子の位に即いていたら、安全だったと思えますか。臣は陛下には安全だと思えなかったはずだと分かります。
天下が混乱した時、高皇帝は諸公韓信、黥布、彭越等)と共に立ち上がりました。(側室。転じて諸子を意味しますが、恐らくここでは親族を指します)の勢力を頼りにしたわけではありません。諸公の中で幸いな者は中涓(近臣)になりましたが、それに次ぐ者は舍人にしかなれませんでした。彼等の材(能力)(高帝に)遠く及ばなかったので、高皇帝は明聖威武をもって天子の位に即き、膏腴の地を割いて諸公を王に封じました。多い者は百余城を、少ない者もで三四十県を有すことになり、その悳(徳)は非常に厚かったのです。しかしその後十年の間で謀反が九回起きました。陛下(文帝)と諸公の関係は直接材(能力)を競って臣属させたのではなく、自ら封王したわけでもありません。高皇帝でも彼等のために一歳(一年)の安寧を得ることもできなかったのですから、臣には韓信、黥布、彭越等が健在だったら)陛下が安心できないはずだと分かるのです。
(陛下が安心できない理由を)他にも推し量ることができます。それは『疎』です(異姓王とは関係が疎遠なので安心できないと考えることもできます)。そこで試しに親者(親族)について語らせてください。例えば、悼恵王(劉肥。高帝の子)が斉を治めており、元王(劉交。高帝の弟)が楚を治めており、中子(劉如意。高帝の子)が趙を治めており、幽王(劉友。高帝の子)が淮陽を治めており、共王(劉恢。高帝の子)が梁を治めており、霊王(劉建。高帝の子)が燕を治めており、厲王(劉長。高帝の子)が淮南を治めており、この六七の貴人が無恙だったとして、その時に陛下が即位したら、天下を治めることができたでしょうか。臣はこれについても陛下にはできなかった分かります。彼等のような諸王は、名義上は臣を称していますが、実際は布衣(庶民)の昆弟(兄弟)の心をもっています(天子の兄弟なので君臣の義を語ろうとしません)。誰もが帝制に従わず自ら天子と同等になりたいと計るでしょう。勝手に人に爵位を与え、死罪の者を赦し(赦死辠)、ひどい場合は黄屋(天子の車の屋根)を戴く者もおり、漢の法令が行えなくなります。たとえ(法令を)行ったとしても、厲王のように不軌(法に従わないこと)な者は命じても聴こうとしないので、招いても来るはずがありません。もし幸いに招きに応じたとしても、どうして法を加えることができるでしょう。一人の親戚を動かせば(裁けば)、天下が四方を見回して立ち上がるでしょう(原文「圜視而起」。「圜視」は周辺を見回すこと、互いに相手を見つめること)。陛下の臣には馮敬(淮南王を弾劾しました)のように勇敢な者もいますが、その口を開いたらすぐに匕首がその胸に刺さることでしょう(諸侯王を弾劾したらすぐ刺客に殺されます)。陛下は賢ですが、誰が陛下と領す(治める)のでしょうか。
このように、疏者(関係が遠い者)は必ず危険な存在になり、親者(親族)は必ず乱を起こすということは、既に明らかにされました。強大を自負して動いた異姓の諸王に対しては、漢は幸いにも既に勝ちました。しかしその原因を改めていないので、同姓の諸王も彼等の跡を追って動くでしょう。その徵(予兆)はもう現れており、今の形勢は完全に過去の状態を再現させようとしています。殃禍(災禍)の変(変事。変化)がどこに向かっているかはまだ判断できません(天下はまだ安定していません)。明帝がいる時でもこのように安定できないのですから、後世になったらどうなることでしょう。
屠牛(坦は人名。春秋時代の人。牛の屠殺業者)は一朝に十二牛を解体しても芒刃(鋭い刃)が鈍りませんでした。排撃剥割(切ったり割いたりすること)の場所が全て肉と骨の間だったからです。髖髀(大腿と臀部の大骨)の位置に至ったら、斤(小さい斧)を使わないとしたら斧(斧)を使いました。仁義恩厚とは人主の芒刃です。権勢法制とは人主の斤斧です。今の諸侯王は皆、髖髀と同じなので、斤斧を棄てて用いず、芒刃で接しようとしたら、臣が思うに(刃が)欠けないとしても折れてしまうでしょう。なぜ淮南王や済北王に(芒刃を)用いなかったのか、それは形勢がそうさせたからです。」
 
 
次回に続きます。

西漢時代 治安策(三)