西漢時代 治安策(三)

賈誼による『治安策』の続きです。
 
「臣が前事を窺い見るに、おおよそは強い者が先に反します。淮陰王(韓信)は楚を治めて最強だったので、最も早く反しました。韓信(韓王・信)も胡匈奴に頼っていたので匈奴の助けがあったので)反しました。貫高も趙の資(資本。有利な条件)があったので反しました。陳豨も兵が精鋭だったので反しました。彭越も梁の国力を利用して反しました。黥布も淮南の国力を利用して反しました。盧綰は最も弱かったので最後に反しました。長沙王の封地は二万五千戸しかありませんが、功が少さいのに最も完全を保っており、形勢が疎遠なのに(皇帝との関係が遠いのに)最も忠を尽くしています。これは性(長沙王の性格本性)が人と異なるためだけでなく、形勢がそうさせているのです。もしも以前に樊(樊噲)、酈(酈商)、絳(周勃)、灌(灌嬰)が数十城を有して王になっていたら、今に至るまでに残亡(滅亡)していた可能性もあります。もし信韓信、越(彭越)のような者を徹侯(列侯)に封じていたら、今に至るまで存続していた可能性もあります。ここから天下の大計を知ることができます。」
諸王を全て忠附させたいのなら、長沙王のようにするべきです。臣子を菹醢(肉醤。死刑)にしたくなかったら、樊、酈等のようにするべきです。天下の治安を欲するなら、諸侯を多数建てて力を小さくさせるべきです。力が小さくなったら容易に義を守らせることができます。国が小さければ邪心が亡びます。こうすれば海内の形勢は身体が臂(腕)を使い、臂が指を使うようになり、従わない者はいません。諸侯の君が敢えて異心を持たず、輻湊並進(そろって進むこと)して天子の命に帰せば、細民(庶民)でも安泰を知ることができ、そこから天下全てが陛下の明を知ることになります。
(具体的な方法はこうです。)地を割いて制を定め、斉、趙、楚をそれぞれ若干の国に分け、序列に基いて悼恵王、幽王、元王の子孫に祖(祖先)の分地を受けさせ、地が尽きるまでこれを続けます。燕、梁や他の国も同じです。分割した地が多いのに子孫が少ない場合は、とりあえず国を建てて王位を空けておき、子孫が生まれるのを待って国君にします。諸侯の地には削られて漢に入った場所(諸侯王が罪を犯したため朝廷に没収された土地)が多数ありますが、彼等のために侯国を遷し(子孫を封侯する場所を調整し)、子孫を改めて封じる時になったら、没収した土地の広さに基いて封地します(没収した面積を子孫に返します。以上、原文は「諸侯之地其削頗入漢者,為徙其侯国及封其子孫也,所以数償之」。誤訳かもしれません)。一寸の地も一人の衆(一人の人)も天子が利とすることはできませんが、これは天下を安定させて治めるためにほかなりません。ここから天下全てが陛下の廉(廉潔。無欲)を知るようになります。
地制(土地の制度)が定まったら、宗室子孫は王位を守ることを考えるので、下に倍畔(謀反)の心がなくなり、上は誅伐の志がなくなります。よって天下全てが陛下の仁を知るようになります。
法が立って犯すことなく、令が行われて逆らうことがなければ、貫高(高帝暗殺を謀りました)、利幾(利幾は元項羽の将で反乱に失敗しました)の謀が生まれず、柴竒、開章(どちらも淮南王の臣です)の計も芽生えず、細民(庶民)は善に向かい、大臣は従順を示します。ここから天下全てが陛下の義を知るようになります。
そうなったら卧赤子(寝ている赤子)が天下の上に立っても(幼児が皇帝に立っても)天下は安定し、遺腹(先帝が皇后の腹中に残した子)を擁立しても、(群臣は)委裘(先帝が残した衣冠)を朝見して天下が乱れることはありません。このようになれば、当時(皇帝存命中)は大いに治まり、後世は聖を称えて歌うことでしょう。
一度動いただけで(この方法を実行しただけで)五業(明聖)が備わるのに、陛下は誰に遠慮していつまでも実行しないのでしょうか。」
 
「今の天下の形勢は大瘇(「瘇」は足が腫れる病)を患っているのと同じです。一脛が腰のように太くなり、一指が股のように太くなり、普段は屈伸することもできず、一二の指が痙攣しても、体はどうすることもできません(原文「一二指慉身慮亡聊」。直訳すると「一二の指が痙攣した時、体は頼れるものがないことを心配します」です)。今、機会を失って治さなかったら必ず錮疾(不治の病)になり、後に扁鵲(古代の名医)が現れても役には立ちません。病は瘇(腫れ)だけではありません。𨂂(足の裏が捻じれて歩けない状態)にも苦しんでいます。元王の子は帝の従弟に当たります(楚元王は高帝の弟なので、元王の子は文帝の従弟になります)。今の王は従弟の子です。恵王(斉悼恵王)の子は親兄(文帝の実兄)の子で、今の王は兄の子の子に当たります。一部の親しい者(文帝の子)にも地を分けずに天下を安定させているのに、疎遠な者(文帝から遠い親戚)の中には大権を制して天子を圧迫している者もいます。だから臣は瘇を患っただけでなく、𨂂にも苦しんでいるというのです。痛哭すべきこととはまさにこの病です。」
 
 
次回に続きます。

西漢時代 治安策(四)