宮城谷昌光『三国志読本』から「昔と今」

前回、簡体字について長々と書いてしまいました。

宮城谷昌光『三国志読本』から簡体字のこと


三国志読本』の談話に戻ります。
 
水上氏は「僕は、他国を侮蔑したくないけど、略字新字の問題ではあの国は困った国だと思います。だって、僕たちは一生懸命、あの国の字を勉強したのよ。それをかんたんに棄てちゃった、ひどい。」と言ってから、「文化大革命以後、中国の人たちは、何か美しいものとか、いいものとか、宗教的に深いものさえ忘れてしまって、お金に走ってるようなところがありますよね。(略)」と述べています。
簡体字文革から生まれたと思っているのでしょうか(だとしたら全くの間違いです)
 
文革は多くの中国人にとってもつらい思い出です(学校が全面的に休みになったから楽しかったという思い出を語る方もいますが…)
しかし水上氏が言う、「何か美しいものとか、いいものとか、宗教的に深いものさえ忘れてしまって、お金に走ってるようなところがありますよね」というのが分からない。
簡体字にしたことが「美しいものを忘れた」というのならあまりにも短絡的でしょう。
旧時代的な文化を棄てていったことを指しているのなら、それは文革よりも清朝末期から民国時代、新中国建国にかけての時代の方が大きいのではないかと思います。
そもそも、文革前と後の中国の違いというものを知っているのでしょうか(私ははっきりいって知りません)
文革前の中国の人たちは「美しいものやいいもの、宗教的に深いものを知り、お金に走っていなかった」のでしょうか。
そんなことはないと思いますよ。
 
歴史にはロマンがあります。歴史に触れて胸を躍らせるのは素晴らしい体験です。でも、古典を読んで歴史を美化しすぎるのは危険なことだと思います。
昔の中国は孔子孟子のような素晴らしい人がいたのに、今の中国はダメになった、昔の中国と今の中国は違う、といった声をちらほらと聞きます。
孔子孟子も二千年以上昔の人です。日本で人気がある『三国志』も二千年近く昔、日本はまだ文字もない、卑弥呼の時代です。
当時の中国と現代の中国が違うのは当然でしょう。
また逆に、同じ地域に住む人々が共通する文化や風俗習慣を受け継いできたのですから、共通点があるのも当然でしょう。
 
もっと問題なのは、昔の中国が本当に素晴らしかったのか、ということです(こういう書き方をすると、「そうだそうだ、中国は大昔からとんでもない国なんだ」と早合点する人がいると思いますが、中国蔑視の意味ではありません。日本にしても他の国にしてもそうですが、歴史を美化しすぎて、「昔は素晴らしかった」という幻想に騙されてはならないという意味です)
三国志』の時代、漫画や小説で劉備曹操の活躍を見ているとワクワクしますが、当時全ての中国人が劉備曹操だったわけではありません。圧倒的多数が歴史に名を残さない民衆です。そして彼等の生活は、現代人では考えられないほど悲惨だったはずです。
清末の有名な思想家史学家である梁啓超はこう言いました「二十四史は歴史ではない。二十四姓の家譜(歴代帝王の家譜)にすぎない二十四史非史也,二十四姓之家譜而已)」。
誇張した表現ではありますが、中国の史書に民衆が反映されることがほとんどないという実態を指摘しています。
清朝乾隆帝時代、イギリスの使節団が自由貿易を求めて北京を訪問しました。この時、イギリス使節団は民衆の貧しい生活を見てとても驚いています。乾隆帝時代といえば、中国史の中でも黄金時代に数えられますが、多くの民衆は困窮していました。それ以外の時代も、民衆が慢性的に貧困の中で生活していたことは容易に想像できます。
 
留学時代の先生がこういう話をしたことがあります。
「慈禧太后西太后は毎日、満漢全席が準備され、数百人、数千人の宦官や宮女が侍っていたけど、現代の我々に較べたら、物質的に劣っていたのは間違いない。」
小説やテレビなどで見る、きらびやかな宮廷生活において、何不自由なく生活していた乾隆帝や慈禧太后は羨ましい存在です。
しかし当時は、当たり前ですが、クーラーも、冷蔵庫も、車も、スマホも、テレビも、パソコンもありません。海外旅行なんてもってのほかです。
恐らく、現代人の方が乾隆帝よりも豊かな生活をしています。
果たして、昔の中国は素晴らしく、今はダメになっているのでしょうか。
 
物質的なことではない、精神的なことを言っているのだ、とおっしゃる方もいるでしょう。
では、孔子孟子がいた時代、中国の人は皆、聖人だったのでしょうか。
当時は奴隷が普通に存在していた時代です。官界では賄賂が当然の礼義として行われていました。農民農奴というべきかもしれません)は生活に苦しみ、天災に襲われるたびに多数の餓死者が生まれました。
それでも貴族は民を駆使して戦争を繰り返し、自分の地位を守るのに必死です。
確かに孔子孟子は素晴らしいことを言いました。多くの言葉が今でも通用する教訓となっています。しかし孔子が「仁」を説き、孟子が「義」を説いたのは、当時、「仁」や「義」が不偏的に存在していたからではありません。全く逆です。当時は王道政治が廃れて「仁」も「義」もなかったから、頑張って「仁」や「義」を説かなければならなかったのです。
史書が「仁」や「義」について説いているから、その時代は素晴らしかったというのは、勝手な思い込みに過ぎません。
尚、現在の中国には「仁」や「義」が不偏的に存在している、とは思いません。そういったものを大切にする人もいれば、大切にしない人もいます。これは日本も同じです。
 
あるいは「今の中国は、孔子孟子も、始皇帝も漢武帝も、曹操劉備も存在しない」という人がいるかもしれません。
しかし人物に対する評価というのは時代によって変わります。曹操が正史『三国志』では中心人物なのに、『三国志演義』では悪人扱いされ、最近また再評価されているのは代表的な例です。
千年後、もしかしたら毛沢東始皇帝、漢武帝と並んで評価されることになるかもしれません。
周恩来の名言が孔子孟子と並んで語り継がれているかもしれません。
孔子孟子も生きている頃から聖人として崇められていたわけではありません。人物の評価は時代によって変わるものです。だから「現在の中国には古代のような偉人がいない」という判断は、誰にもできません。
 
 
これらのことを前提にすると、『三国志読本』の水上氏の「文化大革命以後、中国の人たちは、何か美しいものとか、いいものとか、宗教的に深いものさえ忘れてしまって、お金に走ってるようなところがありますよね」という発言は「この人は何を言っているのだろう」と思わせます。
 
 
 
次回で最後です。