宮城谷昌光『三国志読本』から「歴史の断絶?」
これに続く宮城谷氏の発言は更に不可思議で理解が困難です。
「だから、例えば私が書いている小説の人名、重耳(ちょうじ)にしても晏子(あんし)にしても、中国から日本に来ている若い人たちにその話をしても、誰も知りませんね。重耳も知らなければ晏子も知りません。そういう時代なんです、今の中国とは。歴史が長すぎて、覚える人名が多すぎるということもあるんですね。とおりいっぺんの覚え方しかしない。諸葛孔明は知らないけど、諸葛亮なら知ってますという言い方をするんですよ。どうもそういう教育の状態に、中国はなっているんじゃないかな。非常に残念なことだと思ってます。」
日本人でも日本史に精通しているとは限りません。同じく、中国人だからといって中国史に精通しているとは限りません。歴史に興味がない中国人なら、「重耳」も「晏子」も知らなくて当然です。もしかしたら、「重耳」を「晋文公」と言いなおせば知っている確率が増えるかもしれませんが、まあ、普通は知らないでしょう。
自分が「重耳」をよく知っているから本国の人は知っていて当然、という考えはすごく独りよがりだと思います。
日本での名称が絶対であるとは限らないし、絶対である必要もありません。
「沙悟浄」は「沙和尚」です。
歴史上の人物を、しかも二千年も昔の人を知っているか知らないか、そんなことはどうでもいいことだと思います。
「そういう時代なんです、今の中国とは」とおっしゃっていますが、その何が悪いのかが理解できません。
「歴史が長すぎて、覚える人名が多すぎるということもあるんですね。とおりいっぺんの覚え方しかしない。」
これは正しいでしょう。全ての人が歴史の専門家ではないので、とおりいっぺんにしか教えないのは当然です。日本の歴史教育もそうでしょう。
最後に「どうもそういう教育の状態に、中国はなっているんじゃないかな。非常に残念なことだと思ってます」とまとめていますが、全然、残念なことではないと思います。
この後、宮城谷氏は「でも、文化って、だいたいそういうものだと思うんですよ」と話を続けます。
私は「さすが宮城谷昌光。そうだ、文化なんてそういうものなんだ。必要ないものは語り継がれなくなっていくものなんだ。重耳や晏子を知らない人が増えるのも、諸葛孔明が諸葛亮になるのも当然のことなんだ。みんなが専門家ではないのだから、それでいいんだ。さすが、宮城谷昌光。最後の最後にうまくまとめるはずだ」と思いました。
でも、すぐにがっかりしました。宮城谷氏が言いたかったことは「中央の文化は辺境に残る」という「蝸牛考」のような話だったからです。
以下、宮城谷氏の言葉です。
「本流は必ず荒廃してきますね。古い時代、つまり春秋時代でも、『夏姫春秋(かきしゅんじゅう)』で書いたように、鄭の国とか衛の国だとか、黄河の一番いいとこにある国は、ものすごく栄えるけれども、全部、文化的なものが頽廃していきます。そして、作法だとか礼儀だとかいうものが、未開と思われている国へ全部流れていくんです。そこで定着するんですね。結局、文化の古いものを訪ねても、中央にはもうないんです。全部地方に流れている。だから、中国になくなっているものでも、日本にあり得る可能性があるんです。辺境の地ですからね、日本は。正倉院には、他の国のものも混ざっているでしょうけれど、いろんなものが残っていますよね。文化ってそういうものでしょう。だから今の中国がそうなら、日本が受け止めて、保存していくという立場になるんじゃないでしょうか。」
確かに、中国ではなくなっているもので日本で存続しているものはあると思います。物質でも文化でも。
しかし「今の中国がそうなら、日本が受け止めて、保存していくという立場になる」というのは、ちょっとおこがましいというか、「何様なの?」という感じです。
どこの国も民族も、自分の意思で、必要に応じて「文化」の形を変えています。
二千年以上昔の「重耳」や「晏子」を覚える必要はあまりないので、学校教育では重点を置いていないと思います。
これは決して悪いことでも残念なことでもありません。
日本がそれを否定する必要もなければ、日本が受け止めて保存する役を担う必要もないはずです。中国もそんなことは望んでいないでしょう。
実際、現在でも中国の歴史家の多くが日本の中国史研究にも目を向けています。
今後、自然に中国の文化が日本に残されて、将来的に中国の歴史研究の一助になるとしたら、それは素晴らしいことだと思います。
でも、中国という本流が荒廃しているから、日本が受け止めて保存していくという立場になるという感覚は、余計なおせっかい感がプンプンします。
中国の古い文化には素晴らしい内容がいっぱいありますが、それをもって現代に対して否定的になるのは、筋違いではないでしょうか。現代には現代の必然と必要があるのですから。
以上は1996年の対談内容なので、今は全く異なる考え方をしているのかもしれません。
宮城谷
現代中国には、孔子を知らない人も大勢います。日本に住んでいる留学生に会った時に、「夏王朝から始まり、中華人民共和国に至る長い歴史の中でどの時代が好きですか」と尋ねると、「今が一番いいです。過去の時代は全部嫌いです」といわれましたね(笑)。私の本を読んで「孔子ってそんなに偉かったんですか」といった中国人もいたくらいです。
藤原
「共産革命を経て、歴史が断絶してしまったんですね。(略)中国は革命によって断絶され、韓国は漢字を捨ててハングルにしたことで文化が断絶した。歴史の断絶は、一国の文化にとって致命的です。
以上が引用です。
留学生が「過去は全部嫌いで今が一番好き」というのは素晴らしい言葉だと思います。今が好き、そして日本に留学、そういう中国人は大歓迎するべきでしょう。
2012年の談話もこのような内容なので、恐らく今も考えはあまり変わっていないと思います。
どうも、「今の中国には残念です」という大前提があるように感じられます。
もし中国を「残念」というのなら、「中国は昔から今までずっと残念な国」です。そして、それは中国だけではなく、全ての国が「昔から今までずっと残念な状態」だと思います。
欠点がない国なんてありませんし、欠点がない時代もありません。大昔から、遠い未来になっても、恐らくこれは変わらないでしょう。
逆に、「中国の昔は素晴らしかった」というのなら、「昔も素晴らしかったかもしれないけど、今の方が更に良くなっている」と思います。少なくとも、20年前の中国と今の中国を較べたら、私のような一庶民の生活においては今の方が断然ましになっています。
日本に対しても同じだと思います。「古き良き時代」を懐かしんでいたら、現在の良さはなかなか分からないものです。しかし20年前の日本に戻りたいと思いますか?
以上、長くなってしまいました。
『三国志読本』を読んで、宮城谷昌光という作家は、二千年昔の事には明るくても、現代に目を向けようとしていないのではないか、数千年の歴史を流れで感じることができず、二千年昔と現代を完全に分断してしまっているのではないか、と感じました。
中国の歴史が断絶されているのではなく、中国の歴史を断絶したものとして視ているのではないでしょうか。