東漢時代89 明帝(十八) 廉范 73年(2)

今回は東漢明帝永平十六年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
淮陽王劉延(文帝の異母兄弟)は性格が驕奢で下の者に対して厳烈でした。
ある者が上書しました「劉延と姫の兄謝弇および姉壻(姉の夫)韓光は姦猾の者を招き、図讖を尽くし、祠祭祝詛(祭祀呪詛)しています。」
明帝はこの件を調査させました(事下按験)
 
五月癸丑(二十五日)、謝弇、韓光と司徒邢穆が罪に坐して死に、連座して死刑や徙刑(流刑)になった者も多数いました。
 
資治通鑑』は劉延が本当に謀反したかどうかを明記していませんが、『後漢書・顕宗孝明帝紀はこう書いています「夏五月。淮陽王劉延が謀反したが発覚した。癸丑(二十五日)、司徒邢穆と駙馬都尉韓光が事に坐し、獄に下されて死んだ。連座して誅死した者も多数いた(所連及誅死者甚衆)。」
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊午晦、日食がありました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月丙寅(初八日)、大司農西河の人王敏を司徒に任命しました。
『顕宗孝明帝紀』の注によると、王敏の字は叔公といい、并州隰城の人です。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
有司(官員)が上奏して淮陽王延の誅殺を請いましたが、明帝は劉延の罪が楚王英よりも軽いと考えました。
秋七月、劉延を阜陵王に遷し、食邑を二県にしました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
九月丁卯、明帝が郡国と中都官(京師の官署)に詔を発しました。死罪の繫囚(囚人)から死罪一等を減らし(死罪繫囚減死罪一等)、笞刑を行わずに軍営に送って朔方、敦煌に駐屯させるように命じます。妻子で自ら従う者や、父母同産(兄弟)で従うことを欲する者は全て許可しました。但し、女子で別の家に嫁いで人妻になっている者は、家族と共に移住する必要はないことにしました。
また、謀反大逆無道の罪はこの詔書に該当しませんでした。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、北匈奴が大挙して雲中に入りました。
雲中太守廉范がこれを拒みます。
郡の兵が少ないため、官吏が周辺の郡に書を送って救援を求めようとしましたが、廉范は同意しませんでした。
ちょうど日暮れの時、廉范が軍士に命じて二本の松明を交差して縛らせ、三頭に火をつけました(松明を十字になるように重ねて結びつけ、一方は手に持ち、三方に火を点けました)。それを営中に無数の星のように並べます(各交縛両炬三頭爇火,営中星列)
 
北匈奴は漢の援軍が到着したと思い、大いに驚きました。日が明けるのを待って撤退することにします。
 
廉范は軍中に蓐食(布団の中で食事をすること。日が明ける前に食事をとること)を命じました。
(早朝。日が昇る時)、廉范が北匈奴の陣に向かって出撃し、数百級を斬首しました。北匈奴の兵が混乱して互いに踏み合い(虜自相轔藉)、死者が千余人に上ります。
この後、北匈奴は再び雲中に兵を向けようとしなくなりました。
廉范は廉丹の孫です。廉丹は王莽の将でした。
 
 
 
次回に続きます。