東漢時代90 明帝(十九) 兜題 74年(1)

今回は東漢明帝永平十七年です。二回に分けます。
 
東漢明帝永平十七年
甲戌 74
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、明帝が原陵を謁拝しようとしました。
前夜、夢で先帝光武帝太后(陰太后。明帝の母)を見ました。二人は平生(生前)のように楽しんでいます。目が覚めた明帝は悲しみのため眠れなくなりました。
そこで暦を調べると、翌日が吉日でした(明旦日吉)
明帝は百官を率いて原陵で祭祀を行いました。
この日、甘露が原陵の樹木に降りました。
 
後漢書・顕宗孝明帝紀には「甘陵(地名)で甘露が降った」と書かれていますが、『後漢書皇后紀上』は「陵樹(原陵の樹木)に甘露が降った」としています。『顕宗孝明帝紀』は「原陵」を誤って「甘陵」と書いたようです(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
明帝は百官に命じて甘露を取らせ、祭品として陵に納めました(采取以薦)
儀式の後、明帝が席(蓆)の前から御床(寝床。寝台)に伏せました(『資治通鑑』胡三省注によると、秦が墓の傍に「寝殿」を造り、漢もそれを踏襲したため、皇帝の墓陵には「寝殿」がありました。生前と同じように起居の道具や衣服が備えられています。明帝は寝殿の蓆に座っており、前かがみになって床に顔を伏せたようです。この寝床は恐らく陰太后が寝ていた床です)
明帝は太后の鏡匳(鏡を入れる箱)に入れられた物(化粧用品)を見て心を動かされ、悲痛して涙を流しました(感動悲涕)。左右の者に命じて脂沢(白粉や脂等の化粧品)や装具(道具)を交換させます。
左右の者も皆涙を流し、顔を上げることができなくなりました(莫能仰視)
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
北海王劉睦(敬王)が死にました。劉睦は北海靖王劉興の子で、劉興は劉縯の子です。
 
劉睦は幼い頃から好学だったため、光武帝と明帝に愛されました。
以前、中大夫(『資治通鑑』胡三省注によると、王国の官です。王の使者として京師を訪ね、璧を持って正月の朝賀を行いました)を京師に派遣して朝賀させた時、事前に劉睦が中大夫を招いて問いました「朝廷(天子)が寡人(私。王の自称)について質問したら(朝廷設問寡人)、大夫はどのような辞(言葉。内容)で答えるつもりだ(大夫将何辞以対)?」
中大夫が言いました「大王は忠孝慈仁で、賢人を敬って士との交わりを楽しんでいます(敬賢楽士)。臣が事実に基かずに答えられるでしょうか(敢不以実対)。」
劉睦が言いました「吁(ああ)、汝は私を危うくするのか(子危我哉)。それは孤(私。王の自称)が幼い時に追及した行動だ(此乃孤幼時進趣之行也)。大夫は『孤が爵を襲って以来(王位を継いで以来)、志意が衰惰(衰弱怠惰)し、声色を娯(娯楽)とし、犬馬を好(愛好。趣味)としている』と答えれば、(私を)愛すことになる(守ることになる。原文「乃為相愛耳」)。」
劉睦の智慮(智謀)と畏慎(恐れて慎重にすること)の様子はこのようでした。
資治通鑑』胡三省注は「当時は藩王を制約しており、法憲(法令)が非常に厳しかったため、劉睦の思慮がここに及んだ(朝廷から疑いをかけられないようにするため、敢えて凡庸だと報告させました)」と解説しています。
 
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉睦の死後、子の劉基が継ぎました。これを哀王といいます。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月乙巳(中華書局『白話資治通鑑』は「乙巳」を恐らく誤りとしています)、司徒王敏が死にました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月癸丑(二十九日)、汝南太守鮑昱を司徒にしました。
鮑昱は鮑永の子です(鮑永は光武帝時代の功臣で、西漢鮑宣の子です)
 
[] 『資治通鑑』からです。
益州刺史梁国の人朱輔が漢の徳を宣示(宣揚)し、威信によって遠夷を懐柔しました。
その結果、汶山以西で前世(前代)には至ったことがなく、正朔(中原の暦)も加えられていない白狼、槃木等の百余国が全て族を挙げて臣を称し、奉貢(貢献。進貢)しました。
白狼王が三章の詩を作って漢の徳を歌頌したため、朱輔は犍為郡掾由恭(由が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、秦に由余がいました。また、楚の王孫由子の後代ともいわれています)に翻訳させて朝廷に献上しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
かつて亀茲王建は匈奴によって立てられました。
亀茲王は匈奴の威に頼って北道を占拠し、疏勒王を攻め殺して、自分の臣兜題を疏勒王に立てました。
資治通鑑』胡三省注によると、疏勒国は雒陽から一万三百里離れています。
 
この年、班超が間道から疏勒に至りました。兜題が住む槃橐城とは九十里の距離があります。
 
班超は吏(属官)田慮を先に送って投降を勧めました。派遣する前に班超が田慮にこう命じました「兜題は本来、疏勒種(疏勒人)ではないので、必ず国人はその命を用いない(命に従わない)。もしすぐに投降しないようなら彼を捕えよ(便可執之)。」
 
田慮が槃橐城に入りました。
兜題は田慮の軽弱(弱小)な様子を見て、全く投降の意思を抱きませんでした。
そこで田慮は兜題の無防備に乗じて前に進み、捕まえて縛りました(遂前劫縛)。兜題の左右の者は不意を突かれたため、皆驚き恐れて奔走します。
田慮は馬を駆けさせて班超に報告しました。
班超はすぐ槃橐城に赴き、疏勒の将吏を全て集めてから、亀茲の無道な様子を説き、故疏勒王の兄の子忠を王に立てました。疏勒の国人が大いに喜びます。
資治通鑑』胡三省注によると、班超は故疏勒王の近属(近い親族)を探し求めて兄の楡勒を得たため、王に立てました。楡勒は忠に改名しました。
 
班超が疏勒王・忠と官属に問いました「兜題を殺すべきか、生かして放つべきか(当殺兜題邪生遣之邪)。」
皆が「殺すべきです」と答えましたが、班超は「これを殺しても事(大事)に対して益がない。亀茲に漢の威徳を知らせるべきだ」と言って兜題を釈放しました。
 
 
 
次回に続きます。