東漢時代288 霊帝(二十三) 蔡邕徒刑 178年(2)

今回は東漢霊帝光和元年の続きです。
 
[十四(続き)] 議郎蔡邕が霊帝の問いに答えて言いました「臣が伏して思うに、諸異(異変)は皆、亡国の怪ですが、天の大漢に対する殷勤(情義)が尽きていないので、しばしば祅変(妖変)を現して譴責に当て、人君に感悟させて危(危機)を安(安寧)に改めようと欲しているのです。今回の蜺墮雞化(蜺が現れたことと、雌鶏が雄になったこと)は皆、婦人の干政(政治干渉)がもたらしたのです。以前は乳母趙嬈が天下に貴重され、讒諛驕溢でした(讒言と阿諛を繰り返し、驕慢放縦でした)。続いては永楽門史(『資治通鑑』胡三省注によると、永楽門史は董太后の宮官です)霍玉が後ろ盾に頼って(依阻城社)また姦邪を為しました。今は道路が紛紛(議論、喧噪の様子)としており、また、こう言っています『程大人(『資治通鑑』胡三省注によると、宮中で名望がある老齢者を中大人といいました)という者がいて、その風声(消息。噂)を察するに将来、国患になる。』高く隄防を作り、明らかな禁令を設け、深く趙霍の事を考えて至戒(深刻な誡め)とするべきです。今の太尉張顥は霍玉によって進められ、光禄勳偉璋には貪濁の名があります。また、長水校尉趙玹、屯騎校尉蓋升は並んで時の寵信を受けており(並叨時幸)、栄華富貴が充足しています(栄富優足)。小人が位にいる咎(害禍)を念じ、身を引いて賢人に道を譲る福を省みて思うべきです(宜念小人在位之咎,退思引身避賢之福)
伏して見るに、廷尉郭禧は純厚老成、光禄大夫橋玄は聡達方直、元太尉劉寵は忠実守正な人材なので、共に謀主にして頻繁に意見を求めるべきです(数見訪問)。宰相大臣とは君の四体であり、(彼等に)委任して事を成させるものです(委任責成)。優劣が既に分かれたら(はっきりしたら)、小吏の意見を採用して大臣を罪に陥れてはなりません(不宜聴納小使,雕琢大臣也)
また、尚方工技の作(宮廷の工匠による制作。『資治通鑑』胡三省注によると、「尚方」は手工を管理し、皇帝の刀剣や各種の玩具器物を作りました)や鴻都篇賦の文(鴻都門下で作られる賦辞)は暫く停止し、そうすることで(陛下が)憂いを思っていることを示すべきです(可且消息以示惟憂)
宰府の孝廉や士の高選(成績が優秀な者を選ぶこと)に関して、最近までは招聘が慎重ではないということで(辟召不慎)、三公を切責(厳しく譴責すること)してきましたが、今は全て小文によって秩序を越えて選んでおり(超取選挙)、請託の門を開いて明王の典に違えています(今までは人材の招聘が相応しくないことを三公の責任としてきましたが、今はそれを改善するどころか、逆にわずかな文才を基準にして小人を抜擢しています)。衆心は不服ですが敢えて発言する者がいません(衆心不厭莫之敢言)。臣は陛下が忍んでこれを絶ち、万機(諸政務)を思惟(思念。考慮)して天望に答えることを願います。聖朝(天子)が既に自ら約厲(制限して勉励すること)すれば、左右の近臣もまた従化(感化)するはずです。人(人々。君臣)が自らを抑損(制限)することで咎戒(天災による警告)を塞げば、天道が満ちた者を削り、鬼神が謙遜な者に福を与えます(原文「天道虧満,鬼神福謙」。『易』の「天道虧盈而益謙(天道は満ちた者を削って謙遜な者を益す)」「鬼神害盈而福謙(鬼神は満ちた者を害して謙遜な者に福をもたらす)」が元になっています。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢恵帝劉盈の諱を避けて「盈」を「満」に置き換えています)
君臣が密でなかったら(君臣が秘密を守らなかったら)、上には漏言の戒(訓戒、批難)があり、下には失身の禍があります(『資治通鑑』胡三省注によると、『易』に「君が秘密を守らなかったら臣を失い、臣が秘密を守らなかったら身を失う(君不密則失臣,臣不密則失身)」とあります)。臣の上表を寝かせて(公表せず)、尽忠の吏(蔡邕を指します)に怨恨姦仇(姦人の報復)を受けさせないことを願います(願寝臣表,無使尽忠之吏受怨姦仇)。」
 
霊帝は上奏文を読んで嘆息しました。
その後、起ちあがって更衣に行きます(「更衣」は着替え、または厠の意味です)
ところが、曹節が後ろから上奏文を覗き見ており、全ての内容を左右の者に公言しました。そのため上奏した内容が漏洩してしまいます。
蔡邕に裁黜(排斥)された者は怒って報復を図りました(原文「側目思報」。「側目」は相手を正視しないことで、畏怖や怒りを表します)
 
蔡邕と大鴻臚劉郃はかねてから仲が悪く、叔父の衛尉蔡質も将作大匠陽球と対立していました。陽球は中常侍程璜の娘(実の娘か養女かはわかりません)の夫です。
程璜が人を使って飛章(緊急の上書、または匿名の上書)を提出しました「蔡邕と蔡質はしばしば私事を劉郃に請託しましたが、劉郃が聴かなかったため、蔡邕は隠切(怨恨)を含み、中傷しようという意志を持ちました(志欲相中)。」
霊帝は詔によってこの件を尚書に下し、蔡邕を召して状況を詰問させました。
蔡邕が上書しました「臣は実に愚戇(愚直)で後の害を顧みませんでした。陛下は忠臣の直言を念じず(考慮せず。省みず)(本来は)掩蔽(保護)を加えるべきなのに、誹謗が突然至るとすぐ疑怪を用いました(臣を疑いました)。臣は年が四十六になり、孤特(孤独。または孤高で突出していること)の一身ですが(孤特一身)、忠臣の名を借りることができたので(得託名忠臣)、死んでも栄誉に余りがあります(死有余栄)。陛下がこの後、再び至言を聞けなくなることを恐れます。」
霊帝は蔡邕と蔡質を雒陽獄に下しました。「奉公(公事を行う大臣)を仇怨(怨恨)して大臣を害すことを議した。大不敬であり、棄市に値する(仇怨奉公議害大臣,大不敬棄市)」と弾劾されます。
 
官員の上奏が行われると、中常侍河南の人呂強が無罪の蔡邕に同情し、力を尽くして朝廷に命乞いをしました。
霊帝も改めて章(上奏文。蔡邕の上奏文か程璜の飛章かははっきりしません。恐らく蔡邕の忠言について考え直したのだと思います。原文「帝亦更思其章」)を思い、詔を発してこう言いました「死一等を減らし、家属と共に髠鉗(髪を剃って刑具をつけること)して朔方に遷す。赦令によって(刑を)除いてはならない。」
 
陽球が客を送って蔡邕を追わせ、道中で刺殺しようとしました。しかし客が蔡邕の義に感動したため、陽球のために実行する者はいませんでした。
陽球は部主(州牧や郡守)に賄賂を贈って毒害(禍害)を加えさせようとしました。ところが賄賂を贈られた者が逆にこの状況を蔡邕に教えて警戒させたため、蔡邕は禍から逃れることができました。
 
[十五] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月、天市に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
 
[十六] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、太尉張顥を罷免し、太常陳球を太尉にしました。
 
[十七] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
司空来豔が死にました。
 
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は「来豔が久しい病のため罷免された」と書いていますが、『資治通鑑』は范瞱の『後漢書霊帝紀』に従っています(胡三省注参照)
 
冬十月、屯騎校尉袁逢を司空に任命しました。
 
[十八] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
宋皇后が霊帝の寵愛を受けられなかったため、後宮の幸姫(寵愛を得ている妃嬪)が共に宋皇后を讒言誹謗しました。
勃海劉悝桓帝の弟)の妃宋氏は宋皇后の姑(父の姉妹)だったため、中常侍王甫が「皇后は自分を怨んでいるのではないか」と恐れました霊帝熹平元年172年、王甫の讒言によって劉悝と妃妾十一人、子女七十人、伎女二十四人が殺されました)
 
そこで王甫は「宋皇后が隠れて左道(邪道。方術)を使って祝詛(呪詛)している」と讒言しました。
これを信じた霊帝は策書によって宋皇后を廃し、皇后の璽綬を没収しました。
宋皇后は自ら暴室に入り、憂死しました。
 
宋皇后の父・不其郷侯宋酆と兄弟も併せて誅殺されました(『孝霊帝紀』は「執金吾宋酆が獄に下されて死んだ」としていますが、『資治通鑑』は「執金吾」を省いています。当時は執金吾ではなかったのではないかと思われます)
 
 
 
次回に続きます。