新更始時代10 新王莽(十) 新匈奴単于章 10年(2)
今回は新王莽始建国二年の続きです。
以下、『資治通鑑』から詳しく書きます。
王莽はかつて匈奴に四條の規定を頒布しました(「中国人で逃亡して匈奴に入った者、烏孫人で逃亡して匈如に降った者、西域諸国で中国の印綬を佩しながら匈奴に降った者、烏桓人で匈奴に降った者は、皆受け入れてはならない」という内容です。平帝元始二年・二年参照)。
それを見た酋豪の兄弟が怒って共に匈奴の使者を殺しました。
前年、王莽が五威将帥を各地に派遣しました。
単于は再拝して詔を受けます。
ところが、訳(通訳)が前に進み出て単于の身から漢の印紱を解こうとし、単于が掖(腋)を挙げて(両手で捧げ持って)授けようとした時、左姑夕侯・蘇が単于の傍で言いました「新印の文をまだ見ていないので、とりあえず与えない方がいいでしょう。」
単于は手を止めて印璽を与えるのをやめました。
(宴が始まってから)五威将が言いました「故印紱をすぐに返上するべきだ。」
左姑夕侯がまた言いました「まだ印文を見ていません。今はまだ与えてはなりません。」
ところが単于は「印文がなぜ変更するのだ!」と言うと、故印紱を解いて上将帥に返上し、印文をしっかり見ずに新紱を受け取りました。
飲食は夜に至ってやっと終わりました。
右帥・陳饒が諸将帥に言いました「先ほど、姑夕侯が印文を疑い、単于から人(漢の使者)に与えさせないようにするところでした。もしも印を視て変改を発見したら、必ず故印を求めるでしょう。これは辞説で拒否できることではありません。既に得たのにまた失ったら、これ以上命を辱めることはありません。故印を椎破(撃破。破壊)して禍根を絶った方がましです。」
他の将帥は躊躇して応える者がいません。
しかし陳饒は燕の士で果悍(勇敢。果敢)だったため、斧を持って打ち壊しました。
翌日、果たして単于が右骨都侯・当を派遣して将帥にこう告げました「漢単于の印は『璽』と言って『章』とは言わず、『漢』の字もなかった。諸王より下(の印)には『漢』があり、『章』と言った。今回、『璽』を去って『新』を加えたが(「璽」を「章」に換えて「新」を加えたが)、これでは(新の)臣下と区別がない。故印を得ることを願う。」
将帥は故印を示してこう言いました「新室は天に順じて(新印を)制作したのだ。故印は将帥に従い、自ずから破壊されることになった(原文「隨将帥所自為破壊」。天意に順じて自然に破壊された、という意味だと思います)。単于は天命を受け入れて新室の制を奉じるべきだ。」
右骨都侯が帰って報告しました。
単于は既にどうすることもできないと知り、また、多くの賂遺(礼物。賄賂)も受け取っていたため、弟の右賢王・輿を派遣し、馬牛を率いて将帥に従わせました。新朝に入って謝意を示し、その機に故印を求める上書をさせます。
左犂汙王は烏桓から民を奪った経緯を説明しました。
将帥が言いました「以前、封をした四條によって烏桓の降者を受け入れてはならないことになった。速やかに還らせよ。」
将帥は勝手に決定できないため、朝廷に報告します。
王莽は詔を発して「塞外から還らせよ」と告げました。
更に今回、印文を改められたため、匈奴は怨恨を抱くようになりました。
朔方太守がこれを朝廷に報告します。
王莽は広新公・甄豊を右伯に任命し、西域から出撃させました。
西域都護・但欽(但が姓、欽が名です)がそれに気づいて須置離を招き、斬り殺します。
『資治通鑑』胡三省注によると、車師国の「輔国侯」は相、「撃胡侯」は将のようなものです。
『資治通鑑』胡三省注は「後城は車師後王城である」「匈奴兵は既に漢吏を殺傷したので、また狐蘭支兵と共に匈奴に還った」としています。この場合、「後城長」は「車師後王城の長」となりますが、この「長」が誰を指すのかは分かりません。漢(新)の官吏が城を守っていたのかもしれません。
『漢書・匈奴伝下(巻九十四下)』を見ると、「後成長を殺した」と書かれており、顔師古が「後成は車師の小国の名で、長はその長帥」と解説しています。この場合は車師の属国の長という意味になります。『資治通鑑』の「後城長」は誤記かもしれません。
当時、戊己校尉・刁護(刁氏は斉大夫・豎刁の後代という説がありますが、『資治通鑑』胡三省注は「豎刁は寺人(宦官)なので後代がいるはずがない」としています。『史記‧貨殖伝』に刁間という名が見られます)が病を患っていました。
校尉史・陳良、終帯、司馬丞・韓玄、右曲候(『資治通鑑』胡三省注によると、軍は左右二部に分けられ、部の下に曲があり、曲に候がいました。右曲候は右部に属す曲の候です)・任商が相談して言いました「西域諸国のほとんどが背叛し、匈奴も大侵しようとしているから、このままでは死ぬことになる。校尉を殺し、人衆を率いて匈奴に降るべきだ。」
陳良等は刁護やその子男(男児。息子)、兄弟を殺し(『漢書・西域伝下(巻九十六下)』によると、男は全て殺されましたが、「婦女小児」は命を助けられました)、戊己校尉の吏士男女二千余人を脅して全て従わせ、匈奴に入りました。
単于はこれを受け入れて陳良と終帯を烏賁都尉と号しました。
次回に続きます。