新更始時代10 新王莽(十) 新匈奴単于章 10年(2)

今回は新王莽始建国二年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
匈奴単于が故璽(漢代の印璽)を求めました。しかし王莽が与えなかったため、辺郡を侵して吏民を殺略しました。
 
以下、『資治通鑑』から詳しく書きます。
王莽はかつて匈奴に四條の規定を頒布しました(「中国人で逃亡して匈奴に入った者、烏孫人で逃亡して匈如に降った者、西域諸国で中国の印綬を佩しながら匈奴に降った者、烏桓人で匈奴に降った者は、皆受け入れてはならない」という内容です。平帝元始二年二年参照)
 
後に護烏桓使者が烏桓の民に「今後再び匈奴に皮布の税を与えてはならない」と告げました。
資治通鑑』胡三省注によると、「護烏桓使者」は「護烏桓校尉」を指します。
烏桓はかつて匈奴冒頓単于に敗れてから常に匈奴に臣服しており、毎年、牛・馬・羊の皮を贈っていました。期限通りに準備できなかったら妻子を奪われます。
西漢武帝が霍去病を送って匈奴左地を撃破してから、烏桓は上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東五郡の塞外に遷されました。その後、漢は護烏桓校尉を置いて秩二千石とし、符節を持って(擁節)烏桓を監督させました。
王莽の時代西漢末か新代)になってから護烏桓校尉が烏桓の民に「匈奴に税を与えてはならない」と命じているので、匈奴への貢物は続いていたようです。
 
烏桓匈奴に税を納めなくなったため、匈奴が使者を送って譴責しました。烏桓の酋豪(族長)を捕えて縛り、逆さ吊りにします。
それを見た酋豪の兄弟が怒って共に匈奴の使者を殺しました。
報告を聞いた単于は左賢王の兵を動員しました。烏桓に進攻して多くの人民を殺し、婦女弱小約千人を奪って左地に置きます。
その後、烏桓に「馬畜皮布を持って贖いに来い(交換に来い)」と告げました。
烏桓が財畜(財物家畜)を持って贖いに行きましたが、匈奴はそれらを受け取っただけで烏桓人を留めたまま帰らせませんでした。
 
前年、王莽が五威将帥を各地に派遣しました。
王駿等六人(一将と五帥)匈奴に入り、烏珠留単于に金帛等の厚い礼物を贈ってから、新が命を受けて漢に代わった状況を説明しました。単于の故印(漢代の印)を回収して新の印を与えようとします。
故印の文は「匈奴単于璽」と刻まれていましたが、王莽は「新匈奴単于章」に改めました(新は国号です)
将率(将帥)単于の前に来て、詔によって新しい印紱(紱は印の紐です)を授け、漢の印綬を返上するように命じました。
単于は再拝して詔を受けます。
ところが、訳(通訳)が前に進み出て単于の身から漢の印紱を解こうとし、単于が掖(腋)を挙げて(両手で捧げ持って)授けようとした時、左姑夕侯蘇が単于の傍で言いました「新印の文をまだ見ていないので、とりあえず与えない方がいいでしょう。」
単于は手を止めて印璽を与えるのをやめました。
単于は使者を穹廬に坐らせ、酒を献じて寿を祝うことを欲しました(酒宴を開くことにしました。原文「単于欲前為寿」)
 
(宴が始まってから)五威将が言いました「故印紱をすぐに返上するべきだ。」
単于は「諾(わかった)」と言い、再び掖(腋)を挙げて訳(通訳)に授けようとします。
左姑夕侯がまた言いました「まだ印文を見ていません。今はまだ与えてはなりません。」
ところが単于は「印文がなぜ変更するのだ!」と言うと、故印紱を解いて上将帥に返上し、印文をしっかり見ずに新紱を受け取りました。
飲食は夜に至ってやっと終わりました。
 
右帥陳饒が諸将帥に言いました「先ほど、姑夕侯が印文を疑い、単于から人(漢の使者)に与えさせないようにするところでした。もしも印を視て変改を発見したら、必ず故印を求めるでしょう。これは辞説で拒否できることではありません。既に得たのにまた失ったら、これ以上命を辱めることはありません。故印を椎破(撃破。破壊)して禍根を絶った方がましです。」
他の将帥は躊躇して応える者がいません。
しかし陳饒は燕の士で果悍(勇敢。果敢)だったため、斧を持って打ち壊しました。
 
翌日、果たして単于が右骨都侯当を派遣して将帥にこう告げました「漢単于の印は『璽』と言って『章』とは言わず、『漢』の字もなかった。諸王より下(の印)には『漢』があり、『章』と言った。今回、『璽』を去って『新』を加えたが(「璽」を「章」に換えて「新」を加えたが)、これでは(新の)臣下と区別がない。故印を得ることを願う。」
将帥は故印を示してこう言いました「新室は天に順じて(新印を)制作したのだ。故印は将帥に従い、自ずから破壊されることになった(原文「隨将帥所自為破壊」。天意に順じて自然に破壊された、という意味だと思います)単于は天命を受け入れて新室の制を奉じるべきだ。」
 
右骨都侯が帰って報告しました。
単于は既にどうすることもできないと知り、また、多くの賂遺(礼物。賄賂)も受け取っていたため、弟の右賢王輿を派遣し、馬牛を率いて将帥に従わせました。新朝に入って謝意を示し、その機に故印を求める上書をさせます。
 
将帥が帰路に就いて左犂汙王咸が居住する地に至りました。そこで多数の烏桓の民を見つけたため、将帥が左犂汙王に理由を問います。
左犂汙王は烏桓から民を奪った経緯を説明しました。
将帥が言いました「以前、封をした四條によって烏桓の降者を受け入れてはならないことになった。速やかに還らせよ。」
左犂汙王が言いました「秘かに単于に報告させてください。単于の)語を得たら帰らせます。」
左犂汙王の報告を受けた単于は、左犂汙王から将帥にこう問わせました「烏桓の民は)塞内から還すべきですか?塞外から還すべきですか?」
将帥は勝手に決定できないため、朝廷に報告します。
王莽は詔を発して「塞外から還らせよ」と告げました。
 
王莽は各地に派遣した五威将を全て子爵に、帥を全て男爵にしましたが、陳饒だけは単于の璽を破壊した功があったため、帥なのに威徳子(子爵)に封じました。
 
以前、漢の夏侯藩が匈奴の地を求めた時、烏珠留単于には漢の要求を拒絶する言葉がありました(成帝綏和元年8年参照)
後に烏桓に税を求めて得られなかったため、その人民を寇掠(略奪)しました(前述)。ここから(漢新との)対立が発生しました。
更に今回、印文を改められたため、匈奴は怨恨を抱くようになりました。
そこで単于は右大且渠蒲呼盧訾等十余人に兵衆万騎を率いさせ、烏桓の民を護送するという名目で、朔方の塞下に駐軍させました。
朔方太守がこれを朝廷に報告します。
王莽は広新公甄豊を右伯に任命し、西域から出撃させました。
 
ところが、新の動きを聞いた車師後王須置離は新軍に対する供給のために大量の物資が消耗されることを畏れ、匈奴への逃亡を謀りました。
西域都護但欽(但が姓、欽が名です)がそれに気づいて須置離を招き、斬り殺します。
須置離の兄輔国侯狐蘭支が須置離の衆二千余人率いて逃走し、匈奴に降りました。
資治通鑑』胡三省注によると、車師国の「輔国侯」は相、「撃胡侯」は将のようなものです。
 
単于は狐蘭支の投降を受け入れ、兵を派遣して狐蘭支と共に車師に入寇させました。匈奴兵は後城長を殺し、都護司馬を負傷させてから、狐蘭支の兵と共にまた匈奴に入ります。
資治通鑑』胡三省注は「後城は車師後王城である」「匈奴兵は既に漢吏を殺傷したので、また狐蘭支兵と共に匈奴に還った」としています。この場合、「後城長」は「車師後王城の長」となりますが、この「長」が誰を指すのかは分かりません。漢(新)の官吏が城を守っていたのかもしれません。
漢書匈奴伝下(巻九十四下)』を見ると、「後成長を殺した」と書かれており、顔師古が「後成は車師の小国の名で、長はその長帥」と解説しています。この場合は車師の属国の長という意味になります。『資治通鑑』の「後城長」は誤記かもしれません。
 
当時、戊己校尉刁護(刁氏は斉大夫豎刁の後代という説がありますが、『資治通鑑』胡三省注は「豎刁は寺人(宦官)なので後代がいるはずがない」としています。『史記貨殖伝』に刁間という名が見られます)が病を患っていました。
校尉史陳良、終帯、司馬丞韓玄、右曲候(『資治通鑑』胡三省注によると、軍は左右二部に分けられ、部の下に曲があり、曲に候がいました。右曲候は右部に属す曲の候です)任商が相談して言いました「西域諸国のほとんどが背叛し、匈奴も大侵しようとしているから、このままでは死ぬことになる。校尉を殺し、人衆を率いて匈奴に降るべきだ。」
陳良等は刁護やその子男男児。息子)、兄弟を殺し(『漢書西域伝下(巻九十六下)』によると、男は全て殺されましたが、「婦女小児」は命を助けられました)、戊己校尉の吏士男女二千余人を脅して全て従わせ、匈奴に入りました。
単于はこれを受け入れて陳良と終帯を烏賁都尉と号しました。
陳良と終帯の号を『漢書匈奴伝下』では「烏桓都将軍」としています。「烏賁都尉」は『漢書西域伝下』に見られ、『資治通鑑』は『西域伝』に従っています。
 
 
 
次回に続きます。