春秋時代18 東周荘王(三) 斉桓公と管仲 前686~685年

今回も東周荘王の時代です。
 
荘王十一年
乙未 前686
 
[] 春正月、魯師(軍)が郎に駐軍し、陳師と蔡師の到着を待ちました。郕国攻撃のためです。
甲午(十三日、陳師と蔡師が来なかったため、兵を還して太廟で治兵(軍を整えて出征の準備をすること)しました。
 
[] 夏、斉と魯が郕国を包囲しました。郕は斉師に降伏します。
 
郕を単独で占拠した斉に怒って魯の仲慶父が斉師攻撃を進言しました。しかし魯荘公はこう言いました「斉に何の罪があるというのだ。わしに徳がないことが原因だ。『夏書』には『皋陶は徳を奨励し、徳が行き届いたから他の者が帰順した(皋陶邁種徳,徳,乃降)』とある。今は徳を修めることに励み、時機が来るのを待て。」
 
秋、魯師が帰還しました。
 
[] 襄公は即位した時から淫乱暴虐で、無辜の者を殺したり婦人に対して非礼を行いました。重臣を侮り、政策にも秩序がなかったため、鮑叔牙がこう言いました「主君が勝手なことを行っていたら、民は怠慢になる。いずれ乱が起きるだろう。」
鮑叔牙は公子・小白(襄公の弟)を連れて莒に出奔しました。
 
襄公は大夫の連称と管至父に葵丘を守らせていました。瓜が実る頃に派遣され、「来年、瓜が再び実る頃に交代させる」と約束します。
しかし一年経って瓜が実っても交代する者はなく、二人が襄公に交代を要請しても襄公は同意しませんでした。二人は謀反を考えるようになります。
 
斉釐公(僖公。襄公の父)の同母弟を夷仲年といい、夷仲年は公孫・無知を産みました。無知は釐公に寵愛され、衣服や儀礼が嫡子と同等にされました。
しかし釐公を継いだ襄公は即位すると公孫・無知の待遇を落としました。
連称と管至父は無知を謀反に誘います。
 
連称の従妹は襄公の後宮にいましたが、寵を受けることがありませんでした。公孫・無知はこの女性を使って襄公の様子を探らせ、「成功したら汝をわしの夫人にしよう」と約束しました。
 
冬十二月、襄公が姑棼で遊び、貝丘(または「沛丘」)で狩りをしました。すると突然、大豕(大猪)が現れます。従者が驚いて言いました「あれは公子・彭生(東周荘王三年、前694年参照)です!」
襄公が怒って言いました「彭生がわしに会いに来たというのか!」
襄公は咄嗟に矢を射ます。大豕は人のように立ち上がって鳴きました。恐れた襄公は車から落ちて足を怪我し、靴を失いました。
襄公は帰還してから徒人(侍人)・費(または「茀」)に靴を探しに行かせましたが、見つかりませんでした。襄公は費を鞭で打ち、費は血が流れるまで打たれ続けました。
費が宮門を出て還ろうとした時、襄公を襲うために駆けつけた連称・管至父の兵に遭遇しました。兵達は費を捕まえて縛ろうとします。すると費は「私は抵抗しません」と言って服を脱ぎ、傷だらけの背を見せました。兵達が費を信じたため、費は先に進むことを望みました。
費は先行して宮室に入ると襄公を隠し、攻めて来た兵達と戦って宮門の中で殺されました。襄公の臣・石之紛如(石紛如)も階下で死にました。
兵達が宮中に侵入し、床の上で寺人(宦官)・孟陽を殺しました。兵達が言いました「これは主君ではない。姿が似ていない。」
兵達は床の下に襄公の足が出ているのを見つけて弑殺しました。襄公の在位年数は十二年です。
 
公孫・無知が即位しました。

以上は『春秋左氏伝(荘公八年)』を元にしました。『史記・斉太公世家』は少し異なります。
襄公鞭打たれた主屨(靴を管理する侍人)・茀(費)が公を出た時、襄公が負傷したと知った無知、連、管至父が兵を率いて駆けつけました。無知等がに遭遇します。
が言いました「宮に入って事を大きくするべきではありません。を驚かせたら入るのが困難になります。」
無知が信用しないため、は鞭で打たれた傷を見せました。
無知は茀を信じて先に公宮に入れました。内応させるためです。
ところがは宮内に入ると襄公を戸のに隠しました。
外で長い間待っていた無知等は心配になり、公に進入します。茀宮中の侍臣や襄幸臣と共に無知等と戦い、全滅しました。
無知に入って襄公を探しましたが見つかりません。暫くしてある者が戸の間で足を見つけました。それが襄公だったため、無知は襄公を殺し、自ら斉の位に立ちました

『春秋左氏伝』『史記・斉太公世家』は襄公が死んだ時を十二月としていますが、『春秋』(経文)には「冬十一月癸未(初七日)、斉の無知が襄公を殺した」と書いています
 
無知が乱を起こしたため、管夷吾管仲と召忽が公子・糾を連れて魯に出奔しました。
 
 
 
荘王十二年
丙申 前685
 
[] 斉で即位した公孫・無知が渠丘(葵丘)の大夫・雍廩を虐げました。
春、雍廩が無知を殺しました。
 
尚、「雍廩」は『春秋左氏伝』では大夫の名ですが、『史記・斉太公世家』では「雍林」という地名とされ、「無知が雍林で遊んだ。雍林の人は無知に怨みがあったため、遊びに来た無知を襲って殺し、斉の大夫に『無知は襄公を殺して自立した。よって臣が慎んで誅を行った。大夫が公子の中でふさわしい者を擁立すれば、命令に従う』と伝えた」と書いています。
但し、『史記・斉太公世家』の注釈(集解)にも「雍林」は「雍廩」で「渠丘大夫」と書いているので、恐らく司馬遷(『史記』本文)の誤りです。
資治通鑑外紀』も『春秋左氏伝』の説を採っています。
 
魯荘公と斉の大夫が蔇(曁)の地で会盟しました。斉は国君がいないため、大夫が出席しました。
 
莒に出奔していた斉の公子・小白は母が釐公に寵愛されていました。また、小白自身も若い頃から大夫・高傒(高敬仲。斉の上卿)と親しくしていたため、高氏と国氏(斉の大族)は莒国から小白を迎え入れて国君に立てることにしました。
 
その頃、魯荘公が斉君・無知の死を知りました。
夏、魯は斉から出奔して来た公子・糾を帰国させるために兵を出します。同時に管仲に命じて、別の部隊を率いて莒から斉へ通じる道を遮断させました。
小白一行が来ると管仲が矢を射ました。矢は小白の腹部に中ります。小白は咄嗟に死んだふりをしましたが、実際は、矢は帯鉤に中ったため怪我はありませんでした。小白は温車(霊柩車)を用意し、それに乗って急行します。
管仲が小白の死を魯に報告しました。魯は公子・糾を守る軍をゆっくり堂々と進ませ、六日後に斉に到着しました。しかしその間に公子・小白が斉に入り、高傒等に擁立されて即位しました。これを桓公といいます。
斉は魯に備えて兵を出しました。
 
秋七月丁酉(二十四日)、斉が襄公を埋葬しました。
 
八月庚申(十八日)、公子・糾を擁する魯軍が乾時(斉地)で斉軍と対峙しました。戦いは魯が敗北します。魯荘公は戎路(戦車)を棄てて軽車で逃げ帰りました。
戎路の御者と車右を勤めていた秦子と梁子が荘公の旗を小道に立てて斉師を惑わしました。荘公は逃げることができましたが、二人は捕虜になりました。
 
桓公が鮑叔を宰に任命しようとしましたが、鮑叔は辞退して言いました「主公はやっと国君になれましたが、臣は庸臣(凡庸な臣下)に過ぎないので、これ以上、主公の尊貴な地位を高くすることはできません。臣は既に飢えや凍えから免れており、主公の恩賜を充分いただいています。国家を治めるのは臣が得意とするところではありません。主公がもしも斉国だけを治めようというのなら、高傒と臣がいれば足ります。しかしもし覇王の業を欲するのなら、管夷吾を用いなければなりません。臣が夷吾に及ばないことは五つあります。一つ目は寛大慈恵で民を安んじさせること。二つ目は国家を治めるにあたってその根本を疎かにしないこと。三つ目は忠信によって百姓の信頼を得ること。四つ目は儀礼を制定して四方に普及させること。五つ目は軍門で戦鼓を敲いて百姓に勇を加えること。この五つにおいて、臣は夷吾に及びません。夷吾は民の父母です。子を治めるのに父母を棄ててはなりません。」
桓公が言いました「管夷吾は寡人(私)の帯鉤を射て殺そうとしたではないか。」
鮑叔が言いました「それは彼が自分の主君のために動いたからです。もし彼を赦して用いれば、同じように主公に仕えるでしょう。」
桓公がどうするべきか問うと、鮑叔は「魯に引き渡しを要求しましょう」と答えました。
桓公が言いました「施伯(魯の大夫。恵公の孫)は魯君の謀臣だ。わしが夷吾を用いるつもりだと知ったら、譲ろうとしないだろう。」
鮑叔が言いました「魯に『寡君の命に従わない臣が君の国にいる。群臣の前で誅殺したいので引き渡しを請う』と伝えれば、必ず送り返すでしょう。」
桓公は鮑叔の進言に従うことにしました。
 
九月、鮑叔が師(軍)を率いて魯に伝えました「子糾は斉君の親族なので、自ら殺すのは忍びない。我が国に代わって貴国で誅殺してほしい。管・召管仲と召忽)は我が国の仇人である。二人を斉に返してもらえれば満足できる。もし要求に逆らうなら、魯を包囲する」
 
魯荘公は斉を恐れ、公子・糾を生竇(または「笙瀆」「溝瀆」「句瀆」。魯地)で殺しました。召忽は自殺します。
荘公が管仲の処置について施伯に意見を求めると、施伯はこう言いました「斉の要求は処刑が目的ではありません。用いて政治を行わせるつもりです。管子は天下の賢才であり、彼がいる国は天下に志を得ることができるでしょう。彼を斉に返したら、長く魯国の憂いとなります。」
荘公が「どうするべきか」と問うと、施伯が答えました「殺してその死体を送り返しましょう。」
ところが、荘公が管仲を殺そうとした時、斉の使者が来て言いました「寡君(自国の主君。桓公は自ら処刑したいと思っている。群臣の前で誅殺できないようなら、我が国に返さないのと同じだ。」
荘公は管仲を縛って斉使に与えました。
 
鮑叔は管仲を受け入れ、斉の国境・堂阜で縄を解きました。
斉国に入った管仲は三回沐浴します。桓公自ら郊外に出て管仲を迎え入れ、管仲を相に任命しました。

桓公管仲を得てから鮑叔、隰朋、高傒と共に斉の国を治め、五家を連ね、魚・塩のに関する法を定め、貧を救済し、賢能の士を登用しました。斉桓公の政治に喜びました。

以上は『史記・斉太公世家』『国語・斉語(巻六)』『春秋左氏伝』『資治通鑑外紀』を元にしました。『管子・大匡(巻十八)』には少し異なる記述があります。別の場所で書きます。

春秋時代 桓公即位と管仲登用


また、『資治通鑑外紀』は『国語・斉語』『管子』『淮南子』等から管仲の政治に関する内容を引用していますが、これも長くなるので別の場所で書きます。

管仲春秋時代初期において非常に重要な人物なので、『史記』から管仲の列伝を紹介します。
 
[二] 冬、魯が都・曲阜の北に位置する洙水の水路を開きました。斉の南下に備えるためのようです。
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年、晋が霍、魏、耿を滅ぼしました。しかし『史記・晋世家』は晋献公十六年(東周恵王十六年、前661年)に「霍、魏、耿を滅ぼした」と書き、『史記・十二諸侯年表』も晋献公十六年に「魏、耿を滅ぼした」としています。恐らく『秦本紀』の誤りです。



次回に続きます。