春秋時代80 東周襄王(四十) 秦の勝利 前624年

今回は襄王二十九年です。
 
襄王二十九年
624年 丁酉
 
[] 春正月、魯の叔孫得臣(荘叔。荘は諡号、叔は字)が晋・宋・陳・衛・鄭と共に沈国を攻撃しました。沈が楚に服したためです。
沈は壊滅しました。
なお、『資治通鑑外紀』は沈を姒姓で子爵の国としていますが、楊伯峻の『春秋左伝注』では周公・旦の子孫の国(姫姓)と解説されています。
 
[] 衛成公が陳に行きました。晋との講和が成立したためです。
 
[] 夏四月乙亥(二十四日。『春秋』経文では「夏五月」となっていますが、恐らく誤りです)、周の王子・虎が死にました。
王子・虎は王叔文公ともいいます。王叔は氏、文公は諡号です。
魯は王子・虎と踐土(東周襄王二十一年、632年)や翟泉(東周襄王二十二年、前631年)で盟を結んだ関係にあったため、訃告が届けられました。
 
[] 秦が晋を攻撃しました。
秦穆公は黄河を渡ると舟を焼き棄て、決死の覚悟を示します。
秦軍はまず王官と郊(鄗)を取りました。殽の役(東周襄王二十六年、627年)の報復です。
「王官と郊を取った」という箇所の原文は「取王官及郊」です。「郊」を王官という場所の近くにある地名(「鄗」とも書きます)と理解して、「王官および郊を取った」とするのが一般的ですが、「王官を取り、郊に及んだ(取王官,及郊)」と読む説もあります。この場合、「郊」は地名ではなく「晋都郊外」の意味になります。但し、楊伯峻は『春秋左伝注』の中で「晋都郊外」という説を否定しています。王官から茅津を通って殽に至る行軍進路に対して、晋都・絳は北に大きく離れているためです。
 
晋は秦軍の勢いを避けるため、城の守りを固めるだけで外に出て戦おうとはしませんでした(前年、趙盾の言参照)
秦穆公は茅津から黄河を渡り、殽に晒された将兵の死体を埋葬して喪を発します。
穆公が三日間哭泣してから軍に誓って言いました「士卒達よ、静粛に聴け。余は汝等に告げる。古の人は白髪の老人と謀ったから失敗することが無かった。しかし余は蹇叔・百里奚の謀を用いず失敗してしまった。ここに誓いをして後世に余の過失を明記させる。」
世の君子はこれを聞き、涙して言いました「秦公は人を用いることが周到である。だから孟明がついに慶(勝利の喜び)を得ることができた。」
 
以上、『史記・秦本紀』の記述を元にしました。
尚書』には『秦誓』という穆公の誓いの言葉が掲載されています(東周襄王二十五年、前627年参照。『尚書』では殽の大敗直後に書かれた文章とされています。その内容は『史記・秦本紀』の穆公の誓いに似ているので、元は一つの文章だったものが形を変えて記録されたのかもしれません。
 
[] 秋、楚が江国を包囲しました。
晋の先僕が江を援けるために楚を攻撃しました。
 
[] 宋で死んだ螽が雨のように降りました。
 
[] 冬、晋が江の危機を周王室に報告しました。
王叔桓公(王子・虎の子)と晋の陽処父が江を援けるために楚を攻め、方城(方城山)の関門を攻撃します。
この時、周・晋連合軍が楚の息公・子朱に遭遇しました。楚の「公」は国君ではなく県尹を意味するので、息公は息県の尹です。子朱は江を攻撃した楚軍の帥です。
周・晋連合軍と遭遇した子朱は、江から兵を退いて楚に還るところでした。
周と晋は楚の撤兵を見とどけて兵を還しました。
 
[] 晋襄公は魯文公に無礼を働いたこと(前年、魯文公との盟に大夫を送ったこと)を恐れ、改めて盟を結ぶことにしました。
魯文公が晋に入ります。
十二月己巳(二十二日)、魯文公が晋襄公と盟を結びました。
 
晋襄公が宴を開いて『菁菁者莪詩経・小雅)』を賦しました。「こうして君子に会うことができた。楽しくもあり儀礼もある(既見君子,楽且有儀)」という内容です。
魯の荘叔(叔孫得臣)が文公を席から降ろさせ、晋襄公を拝礼させて言いました「小国が大国で命を受けのですから、儀礼を慎重に行わなければなりません。貴君が大礼(宴によるもてなし)を施したのです。これ以上の楽(喜び)はありません。小国の楽は大国の恩恵によるものです。」
晋襄公は席から下りて魯文公の拝礼を止めさせました。二人とも席に戻って拝礼します。
その後、魯文公が『嘉楽詩経・大雅・仮楽)』を賦しました。「君子を賛美しよう。その徳は四方に輝く。民のため人のため、天から福禄を受ける(仮楽君子,顕顕令徳。宜民宜人,受禄于天)」という内容で、本来は西周成王を称える詩です。魯文公は晋襄公を君子(成王)に喩えて称賛しました。
 
 
 
次回に続きます。