春秋時代231 東周景王(五十三) 周の内乱 前520年(2)

今回で東周景王の時代が終わります。
 
[] 晋が鼓国を取った時(東周景王十八年・前527年)、鼓子(鼓国の主)を連れて帰り、宗廟に献上しました。戦勝の報告のためです。その後、鼓子は帰国が赦されましたが、再び鮮虞に附いて晋に背きました。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、鼓国も虞属も白狄に属します。
 
六月、晋の荀呉が東陽(太行山の東)を巡視し、士卒を糴者(食糧を売る商人や人夫)に変装させ、鼓国の都城・昔陽の門外で休憩させました。兵達は武器を隠し持っています。
晋兵は隙を見つけて昔陽を襲いました。
晋軍は鼓を滅ぼして鼓子・鳶鞮を連れて帰り、大夫・涉佗に鼓の地を守らせました。
 
晋が鼓国を滅ぼした後の事が『国語・晋語九』に書かれています。
中行伯(穆子。荀呉)が鼓国を滅ぼし、鼓子・苑支(鳶鞮)を連れて帰国しました。鼓国の官員にはそれぞれ元の官職に就かせ、僚(苑支の側近)以外は苑支に同行することを禁止します。
しかし鼓子の臣・夙沙釐が妻子を連れて苑支に従いました。晋の軍吏が夙沙釐を捕えたため、夙沙釐が言いました「私は主君に仕えているのであり、土地に仕えているのではありません。『君臣』とはいいますが、『土臣』という言葉はありません。今、主君が遷されるのに、臣下がなぜ鼓の地に留まらなければならないのでしょうか。」
荀呉が夙沙釐を招いて言いました「鼓には新君(涉佗)がいる。汝が新しい主君に仕えるなら、わしは汝の禄爵を定めよう。」
夙沙釐が言いました「臣は狄の鼓に委質(主に礼物を献上して忠誠を誓うこと)したのであり、晋の鼓には委質していません。委質して臣下になったら二心を抱かないものだといいます。委質、策死(名簿に姓名を記して主のために死を誓うこと)は古の法であり、国君に烈名(英明な美徳)があれば、臣下は委質に背かないものです。私利(禄爵)を追って旧法(委質・策死)を乱し、司寇(法官)を煩わせるわけにはいきません。もし晋国の臣下が皆そのようであったら、晋で不虞(不測の事態)が起きた時、どうするつもりですか。」
荀呉は嘆息して左右の臣に「どのような徳を修めれば、私もこのような臣を得ることができるだろう」と言うと、夙沙釐を釈放させました。
荀呉は帰国して戦勝の式典を行い、夙沙釐の事を頃公に報告しました。
頃公は鼓子に河陰(河南)の土地を与え、夙沙釐を相(補佐)に任命しました。
 
[] 魯の叔鞅(叔弓の子)が京師(周都)に入って景王を葬送しました。
丁巳(十一日)、景王が埋葬されます。
『帝王世紀』によると、周悼王は景王を翟泉に埋葬しました。『帝王世紀』が書かれた魏晋の時代は、景王の陵墓を洛陽太倉の大冢とよんでいたようです。
 
王子朝が旧官や百工の中で職を失った者、および霊王と景王の一族を集めて挙兵しました。郊邑、要邑、餞邑の甲士を指揮して劉狄を追い出します。
壬戌(十六日)、劉狄が揚に逃げました。
単旗が荘宮(王城)で悼王を迎えて家に連れて帰りましたが、王子還が夜に乗じて悼王を連れ戻し、荘宮に入れました。王子還は子朝の党です。悼王が単子と一緒にいたら単子が王命を発する立場になってしまうため、単子から離れさせたようです。
 
癸亥(十七日)、単旗が出奔しました。悼王を失ったためです。
王子還が召伯奐(荘公)と謀って言いました「単旗を殺さなければ勝ったとは言えない。改めて盟を結ぶと伝えれば、彼は必ず来る。盟を破って勝った者も多いから、(盟を偽っても)気にする必要はない。」
旗と偽りの盟を結んで和解し、王城に呼び戻してから殺すつもりです。召伯奐は同意しました。
これを知った樊斉(頃子。単子・劉子の党)が言いました「これは正しい言ではない。彼等が勝てるはずがない。」
 
王子朝は悼王の命と称して単旗を追い、領(轘轅山。周地)に至って盟を結びました。この時、王子朝は摯荒に単子との対立の責任があると言って釈明し、摯荒を殺しました。
 
王子朝等は王城に帰り、劉狄は揚から劉(劉氏の采邑)に戻りましたが、単旗は王子朝の陰謀に気付いて逃走しました。樊斉が伝えたようです。
 
乙丑(十九日)、単旗が平畤に奔りました。諸王子が追撃します。
しかし単旗が迎撃して還、姑、発、弱、鬷、延、定、稠(八人とも王子。霊王と景王の子)を殺したため、子朝は京(地名)に奔りました。
 
丙寅(二十日)、単旗が京を攻めました。京人は山(恐らく北山)に逃走します。
王子朝がいなくなった隙に、劉狄が王城に入りました。
 
辛未(二十五日)、周の卿士・鞏簡公が京で王子朝に敗れました。
乙亥(二十九日)、同じく卿士の甘平公も敗れました。
 
魯の叔鞅が京師から魯に帰り、王室の乱を報告しました。
大夫・閔馬父が言いました「子朝は勝てない。彼に協力しているのは、天が廃した者(旧官や職を失った百工)ばかりだ。」
 
単旗が晋に急を告げることにしました。鞏簡公と甘平公が敗戦したからです。
秋七月戊寅(初三日)、単旗と劉狄が悼王を奉じて平畤に入り、圃車に遷ってから更に皇(鞏県附近)に移動しました。
『春秋』経文はこれを「六月」の事としていますが、「七月」の誤りです。
 
劉狄は再び劉に入りました。
単旗は王子処に王城を守らせ、平宮(平王廟)で百工と盟を結ばせました。
 
辛卯(十六日)、大夫・鄩肸(子朝の党)が皇を攻撃しましたが、大敗して捕えられました。
壬辰(十七日)、王城の市で鄩肸を焼き殺しました。
 
八月辛酉(十六日)、司徒・醜が王師を率いて王子朝を攻撃しましたが、前城で敗れました。それを見た百工がまた叛しました。
己巳(二十四日)、百工が単氏の宮(屋敷)を攻撃しましたが、敗れました。
庚午(二十五日)、単旗が反撃しました。
辛未(二十六日)、単旗が東圉を包囲します。
 
冬十月丁巳(十三日)、晋の籍談と荀躒が九州の戎(元は陸渾の戎です。晋に滅ぼされてから晋の州に配されていました。州は郷の下の行政単位で、五州で一郷になります)と焦・瑕・温・原の士卒を率いて悼王を王城に入れました。
『春秋』経文はこれを「秋」の出来事としていますが「冬」の誤りです。
 
庚申(十六日)、単旗と劉狄が王師を率いて子朝軍と戦いましたが、敗れました。前城の人々も社(地名)で陸渾(九州の戎)を破ります。
 
十一月乙酉(十二日)、悼王が死にました。景王二十五年四月に即位し、十一月に死んだので、在位期間はわずか二百日前後です。
『春秋』経文には「冬十月」と書かれていますが「十一月」の誤りです。
また、『史記・周本紀』は「子朝が猛(悼王)を攻めて殺した」としていますが、『春秋左氏伝』にはありません。
 
己丑(十六日)、悼王の同母弟にあたる王子(または「丐」)が即位しました。これを敬王といいます。先述の通り、悼王が太子・寿の同母弟だとしたら、敬王も王后が産んだ子になります。
敬王は周の大夫・子旅の家に住みました。
 
[] 十二月癸酉朔、日食がありました。
 
[] 十二月庚戌(初七日)、晋の籍談、荀躒、賈辛、司馬督(司馬烏)が軍を指揮して周都周辺の各地に駐留しました。籍談は陰(平陰。黄河南岸)に、荀躒は侯氏に、賈辛は谿泉に、司馬督は社に入ります。
王師も洛陽周辺の氾、解、任人に駐軍しました。
 
閏十二月、晋が箕遺、楽徴、右行詭(三人とも晋の大夫)黄河を渡らせました。三人は前城の東南に駐軍します。
王師は京(子朝の拠点)に駐軍しました。
辛丑(二十九日)、敬王軍が京を攻撃し、西南の城壁を破壊しました。
 
この年の事を『史記・晋世家』は「周景王が死に、王子が争って立つ。晋の六卿が王室の乱を平定して敬王を立てる」と書いています。晋は周王室を援けて兵を出しましたが、実際に動いたのは晋公室ではなく六卿でした。
 
[] 『資治通鑑前編』によると、この年、衛で端木賜が産まれました。後に孔子の弟子となる人物です。
史記・仲尼弟子列伝』に「端沐賜(端木賜)は衛人で、字は子貢。孔子より三十一歳年下」とあります。端木が姓氏です。
 
 
 
次回から東周敬王の時代です。