第四十二回 周襄王が覲を受け、衛元咺が対獄する(後編)

*今回は『東周列国志』第四十二回後編です。
 
諸侯による朝覲の礼が終わると、晋文公が衛叔武の冤情を襄王に訴え、王子虎による判決を請いました。襄王はこれに同意します。
文公は子虎を公館に招きました。賓客と主人が礼辞を述べて席を決めてから、王命を奉じて衛侯を呼び出します。衛侯は囚服で現れました。衛の大夫・元咺も公館に入ります。
子虎が言いました「君臣が直接対理(答弁)するのは不便だ。代理を立てよ。」
衛侯は廡(正堂の左右の小部屋。廊下)に留められ、甯兪が衛侯の傍から一歩も離れずに従いました。鍼荘子が衛侯の代理として元咺と答弁し、士榮が治獄の官の摂(代理)として、双方に問い正すことになります。
まず元咺がいきさつを説明しました。衛侯が襄牛に出奔したことから始まり、太叔に国を守るように命じたこと、元角を殺して更に太叔を殺したことを、詳しく流れるように語ります。
荘子が言いました「これは全て犬の讒譖の言(讒言)によるもので、衛君は誤って聞いてしまっただけだ。全てが衛君の事だとはいえない。」
元咺が言いました「犬はかつて咺(私)に太叔を擁立するように誘いました。咺がそれに従っていたら、国君は帰ることができましたか?咺は太叔が兄を愛する心を知り、それを敬っていたので、犬の誘いを断ったのです。計らずも彼は逆に離間を企みましたが、衛君に太叔を猜疑する意思がなければ、犬の讒言を聞くこともなかったでしょう。また、咺は児子(我が子)の角を送って我が君に仕えさせました。本来は心中を明らかにするための美意によるものでしたが、罪もないのに殺されてしまいました。彼が我が子・角を殺した心は、太叔を殺した心と同じです(太叔を殺すつもりだったから我が子も殺したのです)。」
士榮が反論して言いました「汝は子を殺された怨みをもっている。太叔のためではない。」
元咺が言いました「咺は常々こう言っていました『子を殺されたのは私怨である。国を守るのは大事である。』咺は不肖ですが、私怨によって大事を廃すことはありません。当時、太叔が晋に書を送って兄の復位を求めましたが、あの書稿は咺の手から出ています。もし咺が怨みをもっていたのなら、そのような事ができると思いますか?我が君に一時の誤りがあったとしても、悔心の萌()が生まれることを願っていました。しかし太叔も大枉(冤罪)を受けることになってしまいました。」
士榮が言いました「太叔に簒位の考えがなかったことは我が君も既に理解している。犬の手によるものであり、主公の意志ではない。」
元咺が言いました「主公が太叔に簒位の意思がないと知っていたのなら、それまでの犬の言は全て虚謬なので、罪を加えるべきでした。なぜ彼の意見に従って予定よりも速く帰国し、国に入る時には彼を前駆に任命したのですか?犬の手を借りたのは明らかです。知らなかったとは言えないでしょう。」
荘子は頭を下げたまま一言も話しません。
士榮が反論して言いました「太叔は確かに枉殺を受けた。しかし太叔は臣下であり、衛侯は国君である。古来、人臣で国君に枉殺された者は数えきれないほどいるではないか。そもそも、衛侯は既に犬を誅殺し、太叔にも礼を加えて厚葬した。賞罰が明らかにされたのに、これ以上何の罪があるのだ。」
元咺が言いました「昔、桀は関龍逢を枉殺したため湯(成湯)に放逐されました。紂は比干を枉殺したため武王に討伐されました。湯と武王はどちらも桀・紂の臣子でしたが、忠良の臣が枉を受けたのを見たから義旅(義兵)を興し、その君を誅殺して民を慰めたのです。太叔は同気(兄弟)であり、守国の功もありました。関龍逢や比干の比ではありません。衛は侯封(公爵)に過ぎず、上は天王に制され、下は方伯(覇者)に制されています。桀・紂が貴い天子の地位にあって四海の富を有していたのとも比較になりません。なぜ無罪だといえるのですか?」
士榮は言葉に詰まり、話を変えて言いました「衛君の行いに誤りがあったとしても、汝はその臣である。国君に対して忠心があるのなら、なぜ国君が国に入ってすぐに汝は出奔した?入朝も祝賀もしないのに、何の道理があるというのだ。」
元咺が言いました「咺は太叔を奉じて国を守っていました。それは君命によるものです。国君は太叔も許容できなかったのですから、咺を許容できないのはなおさらのことでしょう。咺が逃げたのは生を貪って死を恐れたからではありません。太叔の冤罪を明らかにしたかったからです。」
双方の意見を聞いていた晋文公が子虎に言いました「士榮と元咺が答弁を繰り返しましたが、全て元咺の理が長じていました。しかし衛侯・鄭は天子の臣なので、勝手に判決を下すわけにはいきません。まず衛臣の刑を行わせてください。」
文公が左右の臣に言いました「衛君に従っている者を全て誅戮せよ。」
子虎が言いました「甯兪は衛の賢大夫と聞いています。今回も兄弟君臣の間を仲介して大いに苦心を費やしました。彼がいなくなったら衛君は誰の意見を聞けばいいのでしょう。それに、この獄(訴訟)は甯兪と関係がないので、刑を及ぼすべきではありません。士榮は士師(法官)の摂となりながら断獄(判断。判決)が不明なので(適切ではないので)、首坐(主犯。最も罪が重い者)とするべきです(士榮は判決を下す立場にいながら衛侯を弁護していました)。しかし鍼荘子は一言も発しないので、自分の理曲(道理が通らないこと)を知っています。刑を減らすべきではないでしょうか。君侯の鑒裁(判決)に従います。」
文公は子虎の言に納得し、士榮を斬首、鍼荘子を刖足(脚を切断する刑)に処し、甯兪は不問としました。
衛侯は檻車に乗せられます。
文公と子虎が衛侯を連れて襄王に会い、衛の君臣双方の獄詞を報告して言いました「このような冤情があるのに衛鄭(衛侯・鄭)を誅殺しなかったら、天理が許容せず人心も服さないでしょう。司寇に刑を行わせて天罰を明らかにすることを請います。」
しかし襄王はこう言いました「叔父の断獄(判決。有罪)は明らかだ。しかしこれを訓(教訓。前例)としてはならない。朕はこう聞いている。『周官は両造(原告と被告)を設けて平民の意見を聞くが、君臣の間には獄(裁判)がなく、父子の間にも獄がない。』もし臣下が国君を訴えたら、上下の秩序がなくなってしまう。そのうえ下が勝訴したら、臣下が国君を誅殺することになる。これは大逆というものだ。朕はこの事によって罰を明らかにすることができず、逆を教えることになるのではないかと恐れる。朕は個人的に衛に肩入れするのではない。」
文公が畏れ入って言いました「重耳にはそこまで見ることができませんでした。天王が誅を加えないというのなら、檻を京師に送り、裁決を聞かせてください。」
文公は衛侯を連れて公館に帰り、軍士に今までと同じように監視させました。
併せて元咺を衛に帰国させ、別の賢君を立てるように命じます。
 
衛に帰った元咺は群臣と協議し、偽ってこう言いました「衛侯の大辟(死刑)は決定した。よって、王命を奉じて賢君を立てることになった。」
群臣は共に一人の名を挙げました。叔武の弟・適で、字を子瑕といいます。仁厚の人として知られていました。元咺が言いました「彼を擁立すれば『兄が死んで弟が立つ(兄終弟及)』という礼を守ることができる。」
こうして公子・瑕が即位することになりました。元咺が相になり、司馬瞞、孫炎、周、冶廑等文武百官が補佐します。
 
衛国がやっと安定し始めましたが、どのような結末を迎えることになるのか、続きは次回です。