秦楚時代に入る前に
今回から秦楚時代に入ります。
秦の統一と政治
約五百五十年にわたる春秋戦国の分裂を統一し、中国最初の大帝国を築いたのは、かつては西方の後進国とみなされていた秦でした。
始皇帝は様々な改革を行い、その後二千年にわたる中華社会の基礎を築きました。
しかし急速な変革は多くの不満を招きました。
秦は商鞅の変法改革が成功してから、法治を重視してきました。
法治という思想そのものに罪悪はありません。そもそも、どのような主義や思想に対しても、善悪という判断は下せないものです。問題は運用方法にあります。
秦が法治思想を推進したことは、新たな時代の要求として必然だったといえます。戦国時代以降、儒家が説く周礼への回帰はますます通用しなくなっていました。
しかし秦が用いた法はあまりにも苛酷だったため、統一直後に国民の反発を招くことになりました。
例えば秦には徭役の義務がありました。国民は政府の指示に従って国境防備や土木工事に従事しなければなりません。
秦の法律では、指定された場所に期日内に到着しなければ死刑です。
秦が西方の一諸侯国だった頃は、国土が小さいので、この法律も通用したかもしれません。しかし全国を統一してからは事情が異なります。出発地が遠ければ遠いほど、途中で事件事故(道が無かったり、天災に遭ったり、盗賊に襲われたり)に遭う可能性は高くなります。
その結果、多くの人が罪を問われることになりました。
民衆が法を犯した理由を考慮せず、過酷な刑罰を執行するだけになってしまったら、当然、国民はついてきません。
秦の滅亡と楚漢の戦い
始皇帝が死に、二世皇帝が即位すると、各地で反秦の挙兵が相次ぎました。
始皇帝とは対照的に自ら堕落を選んだ二世皇帝は、悪い情報を聞いても報告した者を罰しました。
二世皇帝は動乱に対して有効な手段を採ることなく、単純に反逆者への刑罰を重くすることで反乱を鎮めようとしました。
しかし国民は元々厳しい法律と刑罰に喘いでいます。刑罰を重くすればするほど、反秦の動きを加速させることになりました。
その結果、始皇帝が天下を統一してわずか十年余りで再び分裂状態に陥りました。
戦国時代の旧六国の貴族や子孫が各地で王を名乗り、反秦の名の下に各地で勢力を拡大していきます。
項羽は西楚の覇王を称し、事実上、諸侯国の頂点に立ちます。
項羽と劉邦の戦いは様々な故事を生み出しました。多くの豪傑や策士が登場するとても興味深い時代です。そのためとても長い時間を要したような錯覚を覚えますが、実際は秦の滅亡後約五年間という短い期間の出来事です。
時代区分
秦帝国歴代皇帝
始皇帝・嬴政
二世皇帝・胡亥
秦王・子嬰
参考文献
『史記』の本紀と『資治通鑑』を柱とし、必要に応じて他の文献からも引用します。『漢書』にも『高帝紀』『項羽伝』がありますが、『史記』とほぼ同じ内容なので主要な参考文献とはしません。また、『史記』の「世家」も春秋戦国時代の諸侯史とは内容が異なるので、全訳はしません。
次回から秦始皇帝の時代です。
秦楚時代1 秦始皇帝(一) 皇帝誕生 前221年(1)
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