西漢時代 高帝(十三) 韓信の死 前196年(一)

今回は西漢高帝十一年です。四回に分けます。
 
西漢高帝十一年
乙巳 前196
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
冬、高帝は陳豨討伐のため邯鄲にいます。
陳豨の将侯敞が一万余人を率いて遊撃し、王黄が騎兵千余を率いて曲逆に駐軍し、張春が歩卒一万余人を率いて渡河してから聊城(斉地。黄河の東にあります)を攻めました。
これに対して漢の将軍郭蒙が斉将(斉国の将軍。名は不明)と共に迎撃し、大勝しました。
太尉周勃も太原を通って代地に入り、馬邑を攻めます。しかしなかなか攻略できなかったため、やっと占拠した時に多くの人を殺戮しました。
 
陳豨の将趙利が東垣を守っていました。
高帝が攻めても攻略できず、一月以上経過します。東垣の士卒が高帝を罵ったため、高帝は激怒しました。
ついに東垣を攻略すると、高帝は自分を罵った士卒だけ斬首し、それ以外の者は全て赦しました。
東垣は真定に改名されます。
 

陳豨に降らず堅守し続けた諸県は三年の租賦を免除しました。

高帝は王黄と曼丘臣に千金の賞金を懸けました。その結果、麾下(部下)が二人を生け捕りにして高帝に届けました。こうして陳豨軍は敗北します。
 
高帝が陳豨を討伐した時、淮陰侯韓信は病と称して従いませんでした。逆に人を派遣して、秘かに陳豨と謀反の相談を始めます。
韓信は家臣と策を謀り、夜の間に詐詔(偽の詔書によって官徒(罪を犯したため宮内で労役している者)や奴隷を釈放して、宮内にいる呂后や太子を攻撃することにしました。すでに配置が定まり、あとは陳豨の連絡を待つだけです。
しかし密告者が現れます。
 
以前、韓信の舎人が罪を犯したため、韓信は舎人を逮捕して殺そうとしました。
春正月、舎人の弟が呂后を訪ねて韓信の謀略を報告しました。
漢書高恵高后文功臣表』によると、韓信の舎人楽説という者が韓信を密告して慎陽侯(または「滇陽侯」)に封じられています。慎陽侯は二千戸です。
 
呂后韓信を召そうとしましたが、従わない恐れがあるため、相国䔥何と相談しました。
二人は高帝の使者が還ってきたように装い、「陳豨はすでに平定されて斬られた」と宣言しました。それを聞いた列侯や群臣が祝賀のために集まります。
䔥何が韓信に言いました「あなたは病ということですが、無理にでも入朝して祝賀するべきです。」
韓信が入朝すると、呂后は武士に命じて韓信を縛らせ、長楽宮の鐘室で殺しました。
韓信は斬られる前に「蒯徹の計を用いなかったことを後悔している(西楚覇王四年漢王四年203年参照)。児女子(女子供。もしくは単に「婦女」の意味)に騙されることになってしまった。これが天意なのか(豈非天哉)」と言いました。
韓信の三族も皆殺しにされました。
 
[] 『史記韓信盧綰列伝(巻九十三)』と『資治通鑑』からです。
この頃、匈奴に逃走していた韓王信が匈奴の騎兵と共に参合(代郡)に入りました。
しかし漢の将軍柴武が参合で韓王信を斬りました。
資治通鑑』胡三省注によると、柴姓は高柴孔子の弟子。斉人)の子孫です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
高帝は洛陽に還って淮陰侯韓信の死を聞き、喜ぶと同時に憐れみました(且喜且憐之)
高帝が呂后に問いました「信韓信は死に臨んで何か言ったか?」
呂后が言いました「信は蒯徹の計を用いなかったことを悔いていると言いました。」
高帝は「それは斉の辯士蒯徹だ」と言うと、斉に詔を発して蒯徹を捕えさせました。
蒯徹が連れて来られます。
 
高帝が問いました「汝は淮陰侯に謀反を教えたか?」
蒯徹が答えました「はい(然)、確かに臣が教えました。豎子が臣の策を用いなかったので、ここにおいて自らを滅ぼしてしまったのです。もしも臣の計を用いていたら、陛下はどうして滅ぼすことができたでしょうか。」
高帝が怒って言いました「煮殺せ(烹之)!」
すると蒯徹が言いました「ああ(嗟乎)、煮殺すとは冤罪ではないか(冤哉烹也)。」
高帝が言いました「汝は韓信に謀反を教えた。何が冤罪だ。」
蒯徹が言いました「秦が鹿(天下の喩え)を失って天下が共にそれを逐いました。能力があって行動が速い者(高材疾足者)が先に鹿を得たのです。跖(古代の盗賊)の狗が堯(聖人)に吠えたのは、堯が不仁だったからではありません。狗は堯が自分の主ではないから吠えたのです。当時、臣は韓信だけを知っており、陛下を知りませんでした。そもそも天下には武器を磨いて鋒を持ち(鋭精持鉾)、陛下(天子)になりたいという者は大勢います。ただ自分の力が足りないだけです。彼等を全て烹に処すことができますか?」
高帝は「彼を放て(置之)」と言いました。
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
高帝が詔を発しました「代地は常山の北にあり、夷狄と辺(国境)を共にしている。趙は常山の南にあり、(夷狄から)遠い。(代は)しばしば胡寇を受けており、国を為すのが困難である。よって、山南太原から一部の地を割いて代の地を増やし、代の雲中以西を雲中郡に改める。そうすれば代が辺寇を受けることが少なくなる。王、相国、通侯、吏二千石は代王に立てるにふさわしい者を選べ。」
燕王盧綰、相国蕭何等三十三人がそろって言いました「子(皇子劉恒。後の文帝)は賢知温良です。代王に立てて都を晋陽としてください。」
 
こうして趙の常山以北の地が代に編入され、劉恒が代王に立てられました。都は晋陽です。
資治通鑑』胡三省注によると、代は後に都を中都に遷したようです。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
天下に大赦しました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
二月、高帝が詔を発して言いました「朕は賦(税)を削減したいと強く想っているが、献(朝廷に治める税収)に関して統一した規定がまだ作られていない。官吏のある者は賦を多くとって献としており、諸侯王は更に多くをとっているため、民はこれを苦としている。よって、諸侯王、通侯に命じる。今後は常に十月に朝献し、各郡(各地)は人口によって賦を計算すること。一人あたりの賦は歳(一年)六十三銭とし、規定に基づいて献費を納めよ。」
 
また、こう言いました「王者で周文西周文王)に勝る者はなく、伯者(覇者)で斉桓(斉桓公に勝る者はないと聞いている。どちらも賢人に頼って名を成したのである。天下の賢者智能は古の人にしかいなかったというのか。(そんなことはない)恐れるべきは人主が(賢人と)交わらないことだ。(人主が交わろうとしなければ)士が進み出ることはない。わしは天の霊と賢士大夫のおかげで天下を定めて一家とした。その長久を望み、世世(代々)宗廟を奉じて断絶させないようにしたいと思う。賢人はわしと共に(天下を)平定した。わしと共に利を安んじなくて(「利を享受しなくて」。または「天下を治めなくて」)いいはずがない。賢士大夫でわしに従って事を行おうとする者がいるなら、わしは尊顕(貴顕)を与えよう。天下に布告して朕の意思を明らかにせよ。御史大夫(周昌。但し、この時の御史大夫は趙堯で、周昌は趙相のはずです。詔が書かれたのは以前の事かもしれません)は相国(蕭何)に詔を下し、相国酇侯(蕭何)は諸侯王に下し、御史中執法(御史中丞)は郡守に下せ。もし明徳が相当すると思う者がいたら、必ず(郡守が)自ら出仕を勧めに行き、車を準備して相国府に送り、行(経歴)・義(容貌)・年を記録せよ。賢人がいるのに進言しなかった場合、発覚したら官を免じる。年老癃病(癃は老衰した者)の者は送る必要がない。」
 
 
 
次回に続きます。