西漢時代269 成帝(二十七) 祭祀の恢復 前14年

今回は西漢成帝永始三年です。
 
西漢成帝永始三年
丁未 前14
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月己卯晦、日食がありました。
 
成帝が詔を発しました「天災が頻繁に重なり、朕は甚だ懼れている。民の失職を想い、大中大夫嘉等を臨遣(皇帝が直接指示して派遣すること)して天下を循行(巡行)させ、耆老(老人)を存問(慰問)し、民が疾苦としていることを問わせる。部刺史(州刺史)と共に惇樸(純朴)遜譲(謙虚)で行義(義行)がある者をそれぞれ一人挙げよ。」
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
以前、成帝は匡衡の建議を採用して甘泉泰畤を廃止しました(成帝建始元年32年)
その日、大風が吹いて甘泉竹宮を破壊し、畤中の十囲(十人が抱きかかえるほどの太さ)以上もある樹木を百余本押し倒しました。
資治通鑑』胡三省注によると、武帝が正月上辛(上旬の辛日)に甘泉圜丘で祭祀を行い、竹宮から望拝しました。竹宮は竹で作られた宮殿で、天子が中に住みます。祭壇から三里離れた場所にありました。
 
成帝は大風の異変を奇異に思い、劉向に意見を求めました。
劉向が言いました「家人(庶人)でも種祠(子孫による祭祀)が途絶えることを欲しないものです。国の神宝旧畤においてはなおさらでしょう。そもそも甘泉、汾陰および雍五畤が始めて建てられた時は、全て神祇(「祇」も神の意味です)の感応があってから建設されたのです(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝が甘泉で泰一を祀った時、夜になるといつも神光が現れ、流星のように祠壇に集まりました。また、汾陰の男子公孫滂洋等が汾旁で赤い光を見たため、武帝が汾陰脽上に后土祠を造りました。文帝時代、黄龍が成紀に現れたため、始めて雍を行幸し、五畤を祀りました)。適当に建てられたのではありません(非苟而已也)。武宣の世はこの三神を奉じ、礼敬が敕備(慎重周到)で、神光が特に明らかに現れました。祖宗が立てた神祇旧位は誠に簡単に動かすべきではありません。しかし初めに貢禹の議を採用し、後の人もそれに従って多くを動揺(変動)させました元帝時代に貢禹が建言し、漢家の祭祀の多くが古礼に則っていないと指摘しました。韋玄成や匡衡等はこの建議を推し進めました。元帝永光四年40年参照)。『易大伝』にはこうあります『神を誣した者は殃(禍)が三世に及ぶ(誣神者殃及三世)。』恐らくその咎は貢禹等だけに留まらないのでしょう。」
成帝は劉向の意見を聞いて後悔しました。また、久しく後継者にも恵まれていないため、古い祭祀を恢復することにしました。
 
冬十月庚辰(初五日)、成帝は王太后に報告し、王太后から祭祀を元に戻す詔を出すことにしました。
太后は詔によって、有司(官員)に甘泉泰畤と汾陰后土を復旧するように命じます。
更に雍五畤、陳宝祠や長安および郡国の祠で著明なものも全て元に戻しました。
 
この時の王太后の詔は『漢書郊祀志下』に記載されています「王者とは天地に承事して(天地の事を治めて)泰一と交接し、祭祀よりも尊ぶことはないと聞いている。孝武皇帝は大聖通明だったので、始めて上下(天地)の祀を建てて、泰畤を甘泉に造り、后土を汾陰に定めた。その結果、神祇がこれに安んじ、(武帝)国を享受して長久になり、子孫が蕃滋(繁殖、繁栄。子孫が多いこと)し、累世(代々)がその業を遵守して、福が今まで流れた(伝わった)。今、皇帝(成帝)は寬仁孝順で、聖緒(皇帝の系統)を奉循(受け継いで守ること)して大愆大過がないのに、久しく継嗣(後継者)がいない。その咎職(顔師古注によると「職」は「主」の意味なので、「咎職」は「主な過失」を意味します)を思うに、恐らく南北の郊を遷したことが先帝の制に違え、神祇の旧位を改めたことが天地の心を失い、継嗣の福を妨げているのである。春秋六十(六十歳。王太后の歳です)になってもまだ皇孫を見られないので、食事をしても甘味を感じず(食不甘味)、寝ても枕の上で安んじられず(寝不安席)、朕(王太后は甚だ悼んでいる。『春秋』は復古を大(重要なこと)とし、順祀(祭祀の規則に従うこと)を善とした。よって甘泉泰畤と汾陰后土を復して以前のようにし、雍五畤と陳倉にある陳宝祠にも及ぼす。」
 
この決定によって今後は泰畤と后土祠を祀ることになったので、成帝建始元年(前32年)に天地を祀るために造られた長安の南郊と北郊は廃されました。
 
当時、成帝は後継者がいなかったため、鬼神や方術の類を非常に好みました。祭祀や方術の事を上書して待詔の権利を得た者は多数おり、祠祭の費用も多額になります。
そこで谷永が成帝に言いました「臣が聞くに、天地の性に明るければ神怪に惑わされることなく(明於天地之性,不可惑以神怪)、万物の情を知れば非類(正しくない者)に欺かれることがないといいます(知万物之情,不可罔以非類)。仁義の正道に背き、『五経』の法言を遵守せず、奇怪鬼神を盛んに語り、至る所で祭祀の方法を崇め、無福の祠(福をもたらすはずがない神)に報いを求め、更にはこの世に仙人がおり、不終(不死)の薬を服食して遥興軽挙(体を軽くして遠くに飛んで移動すること)し、黄冶変化の術錬金術を為すと言う者達は、全て衆人を惑わす姦人であり、左道(邪道)を挟み、詐偽を抱き、それによって世主を欺罔(欺瞞。偽ること)しています。その言を聴いたら洋洋(美しい様子)と耳を満たし(彼等の話を聞いたら美言が耳を満たし)、本当に(神仙に)出逢って求められるかのようです。しかしそれは風を縛って影を捕まえるように(係風捕景)盪盪(空虚な様子)としているので、結局得ることができません。だから明王はこれを拒んで聴かず、聖人は絶って語らないのです。昔、秦始皇は徐福を派遣し、男女を動員して海に入らせ、神を求めて薬を採らせましたが、(徐福は)それを機に逃走して還らず、天下が怨恨しました。漢が興きてからは、新垣平(文帝時代)、斉人少翁、公孫卿、欒大等武帝時代)が術に窮して詐が得られ(皇帝に詐術を見破られ)、誅夷(誅殺)されて辜(罪)に伏しました。陛下がこれらの類を拒絶し、姦人に朝廷を窺う機会を与えないことを願います。」
成帝はこの言に納得しました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、尉氏(地名)の男子樊並等十三人が謀反しました。
資治通鑑』胡三省注によると、尉氏県は陳留郡に属します。古の獄官を尉氏といい、鄭の別獄(恐らく地方の監獄)があったようです。鄭の大夫が尉氏(獄官)としてこの地を食邑にしたため、尉氏が地名となり、尉が大夫の氏になったようです。
 
樊並等は陳留太守を殺して吏民を略奪し、自ら将軍を称しました。
しかし刑徒李譚、称忠、鍾祖、訾順が共に樊並を殺して朝廷に報告したため、四人とも封侯されました。
資治通鑑』胡三省注によると、称忠は称が氏です。鐘氏は楚に鍾儀、鍾建がおり、また「知音」の故事で有名な鍾子期がいました。訾氏は祭氏から生まれました。
 
漢書景武昭元成功臣表』によると、李譚は翌年(永始四年)七月己巳に延郷侯に封じられました。諡号は節公です。
称忠は翌年十一月乙酉に新山侯に封じられました。諡号はわかりません。
鐘祖は翌年七月己酉に童郷侯に封じられました。諡号は釐侯です。
訾順は翌年七月己酉に楼虚侯に封じられました。諡号はわかりません。
漢書帝紀』は「徒・李譚等五人が共に樊並等を撃って殺し、皆、列侯に封じられた」としていますが、恐らく四人の誤りです。
 
漢書五行志上』を見ると、樊並と蘇令(下述)が乱を起こしてから、「どちらも年を越えて誅に伏した(皆踰年乃伏誅)」と書いています。四人の封侯が翌年なので、樊並が平定されたのは翌年の事かもしれません。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
十二月、山陽郡の鉄官徒(鉄の生産に従事する刑徒)蘇令等二百二十八人が県の長吏を攻めて殺し、庫兵(府庫の兵器)を盗んで将軍を自称しました。
蘇令等は十九の郡国を経歴し、東郡太守や汝南都尉を殺します。
 
朝廷は丞相長史や御史中丞に符節を持たせて派遣し、逐捕(逮捕)を督促させました。
汝南太守厳訢が蘇令等を捕えて斬りました。
朝廷は厳訢を大司農に昇格させ、黄金百斤を下賜しました。
 
尚、『漢書五行志上』は蘇令が経歴した地域を「四十余の郡国」としています。「十九の郡国」は『漢書帝紀』の記述で、『資治通鑑』は本紀に従っています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
元南昌尉(県尉)で九江の人梅福が上書して人材の重要さを説き、外戚の専権を警告しました。
しかし成帝は諫言を聞き入れませんでした。
上書の内容は別の場所で書きます。

西漢時代 梅福の上書

 
 
 
次回に続きます。

西漢時代270 成帝(二十八) 梁王劉立 前13年