東漢時代457 献帝(百三十九) 楊脩 219年(5)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
以前、丞相主簿・楊脩と丁儀兄弟が曹植を魏の後嗣に立てようと謀りました曹丕が太子になる前の事です)
資治通鑑』胡三省注によると、楊脩は漢の丞相主簿で、曹操の官属です。
 
五官将(五官中郎将)曹丕がこれを患い、車に廃簏(古くなった竹の箱)を乗せ、朝歌長・呉質を中に入れて府邸に運び、共に謀りました。
それを知った楊脩が魏王・曹操に報告します。
曹操が推験(調査検証)する前に、曹丕が懼れて呉質に告げると、呉質は「害はありません(無害也)」と言いました。
 
翌日、再び簏()に絹を載せて曹丕の府邸に入れました。楊脩がまた曹操に報告します。
しかし推験しても中に人がいなかったため、曹操は楊脩を疑うようになりました。
 
後に曹植は驕縦(驕慢放縦)だったため曹操に疎まれるようになりました。
資治通鑑』胡三省注が解説しています。曹植は車に乗って馳道の中央を走り、勝手に司馬門を開いて外出したため、既に罪を得ていました。曹仁関羽に包囲された時、曹操曹植を派遣して曹仁を助けさようとしましたが、曹植は酒に酔って命を受けることができませんでした。そのためますます疎まれました。
 
曹植はそれでも楊脩との連綴(連結。関係をもつこと)を止めず、楊脩も敢えて自ら関係を絶つことができませんでした。
楊脩は曹植の所に行くたびに、曹植の行動に欠点があることを憂慮しました。そこで、曹操の意を忖度(推察)して、あらかじめ曹操の教(訓戒)に対する十余條の回答を作り、曹植の門下にこう命じました「(魏王の)(訓戒)が出たら、問われた内容に応じてそれに答えよ(教出,隨所問答之)。」
楊脩のおかげで曹操の教(訓戒)が出されても、すぐに答えを返すことができました。
しかし曹操は回答が速すぎることを怪しみます。そこで推問(追究、審問)したところ、ついに真相が暴露されました。
 
また楊脩が袁術の甥だったこともあり献帝建安二年・197年参照)曹操は楊脩を嫌いました。
 
この年、曹操は楊脩が前後して言教(告諭、訓戒)を漏洩し、諸侯曹植と交わって関係をもっているという理由で、ついに逮捕して殺してしまいました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
魏王・曹操が杜襲を留府長史に任命して関中に駐留させました。
資治通鑑』胡三省注によると、留府を関中に置いたのは蜀に備えるためです。
 
関中の営帥・許攸(営師は武装勢力の長です。この許攸は、かつて袁紹に仕えて後に曹操に帰順した許攸とは同姓同名の別人です)が部曲を擁して帰順せず、慢言(傲慢・放縦な言葉。侮る言葉)があったため、曹操は激怒して討伐しようしました。
群臣の多くが諫めて「許攸を招懐して共に強敵を討つべきです」と言っても、曹操は刀を膝の上に横にして、厳しい表情のまま諫言を聴きません(作色不聴)
杜襲が入って諫めようとすると、曹操が迎え入れて言いました「我が計は既に定まった。卿はもう何も言うな(吾計已定,卿勿復言)。」
杜襲が言いました「もし殿下の計が是(正しいこと)であるなら、臣は殿下がそれを成すのを助けます(若殿下計是邪,臣方助殿下成之)。しかしもし殿下の計が非であるなら、たとえ(計が)成っていても、それを改めさせなければなりません(若殿下計非邪,雖成宜改之)。殿下は臣を迎え入れて何も言うなと命じました。なぜ下の者を待遇する様がこのように開明ではないのでしょう(殿下逆臣令勿言,何待下之不闡乎)。」
曹操が言いました「許攸はわしを侮った(慢吾)。どうして捨てておけるか(如何可置)!」
杜襲が問いました「殿下は許攸がどのような人だと思いますか?」
曹操は「凡人だ」と答えました。
そこで杜襲が言いました「賢人だけが賢人を知り、聖人だけが聖人を知るものです(夫惟賢知賢,惟聖知聖)。凡人がどうして非凡な人を知ることができるでしょう。今は豺狼劉備が路に当たっているのに、狐狸(許攸)を優先したら、人は殿下が強を避けて弱を攻めたと思うようになります。(許攸を攻めて)進んでも勇にはならず、退いても仁にはなりません。臣が聞くに、千鈞の弩(重い弩。『資治通鑑』胡三省注によると、三十斤で一鈞です)は鼷鼠(小さい鼠)のために機(弩を射る装置)を発することなく、万石の鍾は莛(草の茎)で打っても音を立てることがありません(千鈞之弩不為鼷鼠発機。万石之鍾不以莛撞起音)。今、区区(小さい様子)とした許攸が、どうして神武を労すに足りるのでしょう(何足以労神武哉)。」
曹操は「善し(善)」と言って許攸を厚く慰撫しました。
許攸はすぐに帰服しました。
 
[十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、魏王・曹操が雒陽に至りました。
 
曹操が改めて北部尉の廨(官署)を修築し、以前よりも拡大しました(原文「令過於旧」。曹操はかつて洛陽(雒陽)北部尉を勤めていたため、官署を拡大したのだと思われます)
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代458 献帝(百四十) 呂蒙と陸遜 219年(6)