西周時代10 成王(三) 親政開始

今回も西周成王の続きです。
 
成王八年 親政元年
資治通鑑外紀』によると癸巳の年です。
 
[一] 春正月朔(初一日)、成王が親政を始めました。
以下、『史記・魯周公世家』からです。
周公は若い成王の政治が荒淫放蕩に奔ることを恐れて『毋逸(『尚書』では『無逸』)』と『多士』を作りました。
『毋逸』にはこうあります「人の父母である者が長久の時をかけて業をなしても、子孫が驕奢になってその苦労を忘れたら、最後は家を亡ぼしてしまう。よって人の子たる者は慎重でなければならない。昔、殷王・中宗は厳恭に天命を敬畏し、自らを律して民を治め、震懼して荒寧に陥ることがなかった。だから中宗は七十五年に渡って国を享受することができた。高宗は久しく外(民間)で苦労し、小人(庶民)と交わってきた。彼は即位してからも亮闇(喪に服すこと)があったため、三年間言葉を発しなかった。しかし一度言葉を発したら、臣民を喜ばせることができた。高宗も荒寧に陥らず、殷国を安靖にさせた。その結果、小大(庶民から大臣まで)が怨みを抱くことなく、五十五年に渡って国を享受することができた。祖甲は自分が王になることを不義とし、久しく小人(庶民)として外(民間)で生活した。そのおかげで小人の需要を理解し、小民に施しを与えて鰥寡(身寄りがない者)も大切にした。だから三十三年に渡って国を享受できたのである。」
『多士』にはこうあります「湯(成湯)から帝乙に至るまで、(歴代の商王は)礼制に則って祭祀を行い、徳を明らかにしたので、皆、天に配して祭られるようになった。しかし嗣王の紂は荒淫放蕩で、天も民も顧みなかったため、民は皆、彼を誅殺するべきだと思うようになった。」「(周の)文王は日が傾くまで食事もせず政務に励んだため、五十年に渡って国を享受することができたのである。」
 
『毋逸(無逸)』と『多士』は『尚書』に全文が収録されていますが、『史記』の内容とは少し異なります。
また、『尚書』の『多士』は成王を戒めるためではなく、殷民に忠誠を誓わせるための文書となっています(『多士』については前年書きました)
 
成王が尹佚に聞きました「どのような徳を行えば、民が上に親しみを感じるだろうか。」
尹佚が答えました「民を使う場合は時機に応じて敬順でなければなりません。」
成王が聞きました「どうすればそれができるだろう。」
尹佚が答えました「深淵に臨み、薄氷の上を歩くように慎重であれば達成できます。」
成王が言いました「王の地位とは恐ろしいものだ。」
尹佚が言いました「天地の間、四海の内では、善によって民に接すれば民が集まり、不善によって民に接すれば民は仇となります。かつて夏・商の臣が桀・紂を仇とみなし、成湯・武王に臣従しました。宿沙の民もその君を攻めて神農に帰順しました。これらは誰もが知っていることです。王はその地位にいることを恐れ、慎重でいなければなりません。」
この話は『淮南子・道応訓』にあります。
 
周公・旦が『立政』を書き、正しく人材を用いて民のために善政を行うように進言しました(これは周公・旦が東征を終えて改めて摂政を開始した成王四年のことかもしれません)
成王は『周官』を作りました(『史記・魯周公世家』は周公が『周官』を作ったとしています)。官員をどのように設けるべきかを明確にする文書です。
『立政』『周官』とも『尚書』に収録されています。このうち、『周官』は別の場所で紹介します。
 
周公・旦と召公・奭は成王を助けていつも左右にいました。陝より西は召公が管理し、陝より東は周公が管理することになりました。
 
周公・旦が太師に、召公・奭が太保に、畢公・高が太傅に任命されました。太師、太保、太傅を三公といいます。
元々、太師は呂尚が勤めていました。しかし呂尚は百余歳で死にました。それがいつの事かは分かりません。
資治通鑑外紀』は呂尚を鎬京に埋葬したとしていますが、諸説あるようです。
呂尚の子・伋が斉君を継ぎました。これを丁公といいます。
 
資治通鑑外紀』によると、太保に任命された召公・奭は、かつて王の代わりに政治を行っていた周公・旦が再び臣下として朝廷に列することに反対しました。そこで周公・旦は『君奭』を作り、召公・奭と協力して政治を行っていきたいという意思を伝えました。
史記・燕召公世家』の内容は少し異なります。
成王が幼かったため周公が摂政をして国王と同等の振る舞いをしました。召公は周公を疑います。そこで周公が『君奭』を作りました。以下、『君奭』の一部です「湯商王朝初代王・成湯)の時には伊尹がおり、その功徳は皇天(上天)に通じました。太戊(商代の王。以下同じ)の時には伊陟、臣扈といった臣がおり、その功徳は上帝に通じました。また、巫咸が王家を治めました。祖乙の時には巫賢(巫咸の子)がおり、武丁の時には甘般がいました。このような臣が王を補佐して功を残したから、殷(商)の治世を保つことができたのです(私もあなたと共に王を援けたいと思っています)。」
召公はやっと納得し、周公の忠心に喜びました。
『君奭』の全文は『尚書』に収録されています。
 
西方を治めた召公は兆民(民衆)を調和させることができました。
召公が郷邑を巡行した時、棠(甘棠)の木がありました。召公はその木の下で民衆の訴訟を聞き、裁きを行いました。侯伯(諸侯)から庶人に至るまで、適切に問題が解決されていきます。人々は自分が為すべきことを見つけ、職を失う者がいなくなりました。
後に召公が死ぬと、人々は召公の政治を思い出し、棠の木を伐ることなく、『甘棠詩経・召南)』の詩を作ってその徳を後世に伝えました。
 
[二] 太師だった呂尚の業績を書きます。
(舜)、夏、商の時代、貨幣は黄色、白、赤の三種類がありました。また、通常の貨幣以外に布銭、刀銭、亀貝が流通していました。
周は天下を治めるようになると、商の通貨で交易を行うことにしました。そこで太公望呂尚が「九府圜法」を作りました。
九府とは周の官名で、太府(または「大府」)、玉府、内府、外府、泉府、天府、職内、職幣、職金を指します。全て財貨を掌握する官です。圜は「丸い」という意味ですが、ここでは「均等に流通する」という意味を持ちます。
呂尚は一辺が一寸の黄金の重量を一斤としました。貨幣は円形とし、中心に四角い孔をあけました。銖が軽重の単位になります。布帛は二尺二寸を一幅とし、長さ四丈を一匹としました。
呂尚による貨幣価値の統一によって、便利な貨幣が金より高価になり、各地に流通するようになりました。

[三] 衛康叔(封)、聃(冄)季戴とも封地で善政を行ったため、周公・旦が成王に推挙し、康叔を司寇に、季戴を司空に任命しました。康叔には祭器を下賜してその徳を天下に示しました。
二人とも政令が行き届き、天下に名を知られました。
 
他の五叔は朝廷の官に就きませんでした。五叔とは周公・旦の五人の弟です。管叔鮮、蔡叔度、成叔武、曹叔振鐸、霍叔処を指すようです。
霍叔処は三監の乱が原因で庶人に落とされましたが(成王三年)、三年後に爵位を戻されました。
蔡叔度は放逐されて死にました。しかしその子・胡は行いを改めて徳があったため、周公・旦が胡を自分の卿士として魯国の政治を行わせました。その結果、魯がよく治まったため、周公・旦は成王に再封を進言しました。
蔡侯・胡は新蔡に移って蔡叔の祀りを継ぎました。これを蔡仲といいます。
尚書』に『蔡仲之命』があります。若い蔡仲に対して、父・蔡叔の過ちを再び犯すことなく、祖父にあたる文王の遺徳を治め、兄弟や近隣諸国と協力して周王室を守るように戒めた内容が書かれています。



次回に続きます。