春秋時代 管仲列伝
春秋時代18 東周荘王(三) 斉桓公と管仲 前686~685年
「老老」:老齢者を敬い、老齢者の子供の徴役を一部または全て免除したり、老齢者に酒肉を供給する等の政策。
「慈幼」:幼弱な子女がいる家族に対しては婦徴(婦人が布帛等を納める義務)を一部または全て免除する等の政策。
「恤孤」:父母を失った孤児を同郷や知人に養わせ、その家族の徴役を一部または全て免除する等の政策。
「養疾」:体が不自由で生活が困難な者を「疾館」に住ませて、飲食を提供する等の政策。
「合独」:妻を失った男や、夫を失った女の再婚を奨励し、田宅を貸し与えて生活を安定させ、三年後に労役等によって国に返させる政策。
「問病」:城邑に「掌病」の官を設け、士民が病になったら慰問し、重病の場合は上官に報告して病状を観察する。掌病の官は国内を巡行して病人を慰問・看病する等の政策。
「通窮」:城邑に「通窮」の官を設け、貧困の者がいないか調べて対策を練る政策。通窮の官が迅速に報告したら賞賜を与え、報告しなければ罰を与えました。
「賑困」:凶作や天災の年には死者が増えて人が不足するため、刑罰を緩め、囚人を釈放し、窮民に国の食糧を与えて救済する政策。
「接絶」:国事や戦争による死者を葬るため、その知人や旧知に金銭を与えて祭祀を行わせる政策。
「九恵の教」は『管子・入国(巻五十四)』に詳しい記述があります。
後に管仲はこう言いました「私が貧困だった時、鮑叔と商売をして私が多くの財を得た。しかし鮑叔は私を貪欲とはみなさなかった。私が貧困だと知っていたからだ。私が鮑叔に代わって事を謀り、ますます困窮させてしまったことがあったが、鮑叔は私を愚者だとは思わなかった。時(時運)には利と不利があることを知っていたからだ。私は何回も仕官したがいずれも主君に用いられなかった。しかし鮑叔は私を不肖な者だとは思わなかった。私がその時(時機)にめぐりあっていないことを知っていたからだ。私は三回の戦に出て三回とも逃走した。しかし鮑叔は私を臆病者とはみなさなかった。私に老母がいることを知っていたからだ。公子・糾が敗れ、召忽は死んだが、私は幽囚の辱めを受けた。しかし鮑叔は私を無耻だとは言わなかった。私が小節のために恥じることなく、天下に功名を示すことができないことを恥じると知っていたからだ。私を産んだのは父母だが、私を知るのは鮑子である。」
鮑叔は管仲を推挙した後、自分の地位をその下に置きました。子孫は代々斉に仕え、十余世に渡って封邑され、その多くが大夫になり名を知られました。天下の人々は管仲の賢才よりも鮑叔の人を知る力を称賛しました。
管仲が相となった時、斉国はまだ沿海の中小国に過ぎませんでした。しかし貨幣を流通させ、財富を蓄え、国を富まして兵を強くし、民と好悪を共にしました。『管子』はこう書いています「倉廩(倉庫)が財貨で満たされて人は礼節を知り、衣食が足りて栄辱を知る。国君が制度に則れば六親(親族。父・母・兄・弟・妻・子等)の関係が固まり、四維(礼・義・廉・恥)が疎かになったら国は滅亡する。政令は水が源から流れ出るように発し、民心に順応させなければならない(倉廩実而知礼節,衣食足而知栄辱。上服度則六親固。四維不張,国乃滅亡。下令如流水之原,令順民心)。」
*この内容は『管子・牧民(第一)』に詳しく書かれています。
管仲の政令は民の実情に合っていたため容易に実施され、民が欲することを満足させ民が嫌うことを除いていきました。
また、管仲は禍を福に転じ、失敗を成功に変えることができました。事物の軽重を重視し、慎重に得失を判断します。
桓公が少姫に怒って南の蔡を襲った時、管仲はそれを利用して楚を討伐し、周王室に進貢しないことを譴責しました(恵王二十~二十一年。前657~656年)。
桓公が北征して山戎を攻撃した時、管仲は燕に召公の政治を修めさせました(恵王十四年、前663年)。
柯の会で曹沫が桓公を脅迫して盟約を結び、桓公がそれを破ろうとしましたが、管仲は盟約を利用して信を築き、諸侯を斉に帰服させました(釐王元年、前681年)。
管仲の政治は「与えることを知っているのは得るためである。これは政治の宝である(知与之為取,政之宝也)」という道理を表しています。
管仲は斉の公室に相当する富を手にし、三帰(三帰台という楼台の名。または三カ所の帰る場所、つまり三つの食邑。または三姓の夫人、つまり三つの家庭)を持ち、反坫(国君が宴を開く設備。国君が別国の君主を招いて酒宴を開いた時、空いた杯を置く台を反坫といいました)がありましたが、斉人はそれを奢侈とは思いませんでした。
管仲の死後も斉国はその政策を守り、他の諸侯を凌駕する強国に成長しました。