春秋時代58 東周襄王(十八) 晋公子・重耳 前637年(2)

今回は東周襄王十六年の続きです。
 
[] 晋恵公の死(前回)を聞いて、公子・重耳が帰国します。
今回は『春秋左氏伝僖公二十三年)』を主な資料にして重耳の亡命生活を書きます。
 
重耳が蒲にいた時、晋献公が寺人(宦官)・披(勃鞮)を送って重耳を襲いました。蒲城の人々は献公と戦おうとしましたが、重耳はこう言いました「君父の命を守って禄を受けたから人を得ることができた。その人を使って君父に背くことほど大きな罪はない。私はここを去るだけだ。」
重耳は狄(翟)に奔りました(東周恵王二十二年、前655年)
『春秋左氏伝』によると、重耳には狐偃(子犯。狐突の子。重耳の母の兄弟)、趙衰(字は子與。東周恵王二十二年、前655年参照)、顛頡、魏武子(魏犨)、司空季子(胥臣。季子は字。胥が氏、臣が名。食邑が臼なので臼季ともいいます。司空は重耳が即位してからの官名です)が従いました。
しかし『史記・晋世家』では「賢士五人と名が無い者数十人が従った」としており、「賢士五人」は趙衰、狐偃咎犯、賈佗、先軫、魏武子になっています。顛頡と季子がいません(『史記・晋世家』によると、重耳は若い頃からを好み、十七歳で賢士五人と交わりがありました)
私の通史では東周恵王二十二年(前655年)に「重耳に従っているのは狐偃、趙衰、顛頡、魏犨、胥臣、狐毛、賈佗です」と書きましたが、これは『資治通鑑外紀』の記述に従いました。
 
尚、『史記・晋世家』は重耳が狄に入った時の歳を四十三歳としています(献公が即位した時、重耳は既に二十一歳の成人でした)。しかし『国語・晋語四』を見ると重耳は十七歳で狄に出奔したと書かれています。
 
暫くして狄人が咎如(赤狄の一種。隗姓)を攻めて二女を得ました。叔隗と季隗といいます。重耳が季隗を娶って伯儵と叔劉が産まれ、趙衰が叔隗を娶って趙盾が産まれました。
『春秋左氏伝』のこの記述を見ると、「叔」「季」は兄弟姉妹の序列を表すので、趙衰が姉、重耳が妹と結婚したことになります。史記・趙世家』にも「少女(妹)重耳に、長女(姉)が趙衰に嫁いだ」とあります。しかし『晋世家』では姉が重耳に嫁ぎ、妹が趙衰に嫁いだとなっています。
 
重耳は狄で十二年間生活しましたが、晋恵公が重耳を殺そうとしたため、狄を離れて斉に向かうことにしました(東周襄王九年、644年。足掛け十二年です。恵公が韓原で秦に大敗した翌年に狄を離れました)
重耳は出発する時、季隗に言いました「私を二十五年待っても帰って来なかったら改嫁せよ。」
季隗が言いました「私はすでに二十五歳です。更に二十五年待ったら、木(棺)になってしまうでしょう。あなたを待ちます。」
これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・晋世家』の記述はこうです。
季叔は笑って言いました「二十五年も待ったら私の墓に生えた柏の木も大きくなっているでしょう。たとえそうなっても、妾(私)はあなたを待ちます。」
 
重耳一行が東に向かいました。
重耳が衛を通った時、衛文公は礼を用いませんでした。
五鹿(衛地)を通って更に東に向かった時、重耳が野人(城外に住む農夫)に食物を求めましたが、野人は土の塊を与えました。重耳が怒って鞭打とうとすると狐偃(『史記・晋世家』では趙衰)が言いました「これは天が下賜したのです。」
重耳は稽首して受け取り、土の塊を車に乗せました。
 
斉に入ると桓公は重耳に妻(姜氏)を娶らせ、馬二十乗(乗は馬車の単位で、一乗は四頭の馬が牽きました。二十乗は八十頭の馬になります)を与えました。
しかし翌年、斉の桓公が死にました。政変を経て孝公が即位します。
斉国内は混乱しましたが重耳は斉の生活に満足していました。
東周襄王十六年637年)重耳の従者(趙衰等)が斉での安住に反対し、桑の木の下で斉から出ることを相談しました。この時、蚕妾が木の上で従者の話を聞いていたため、姜氏に報告しました。すると姜氏は重耳が逃げようとしていることを孝公に知られることを恐れ、蚕女を殺して重耳に言いました「あなたには四方を統率するという大志があります。密談を聞いた者は私が殺しました。」
重耳は「大志などない」と言いましたが、姜氏は「行くべきです!安逸に留まろうとしたら名を敗することになります」と言いました。
しかしそれでも重耳は動こうとしません。
そこで姜氏は狐偃と謀り、重耳を醉わせて車に乗せ、斉国から出させました。
酔いから醒めた重耳は激怒し、戈を持って狐偃を追いかけましたが、あきらめて西に向かうことにしました。
 
重耳が曹国に入りました(曹共公十六年
『国語・晋語四』は曹に行く前に再び衛を通ったとしており、『史記・十二諸侯年表』もこの年に「重耳が斉を去って衛を通ったが、衛文公が礼を用いなかった」と書いています。楊伯峻の『春秋左伝注』は『国語』と『史記・十二諸侯年表』が誤り(衛を通ったのは斉に行く前のことで、斉を出てからは曹に入った)としています。確かに衛は黄河周辺の国で、曹はそれより南にあります。重耳は曹の後、宋、鄭、楚に行きますが全て南に固まっており、衛だけが離れています。また、斉に行く時に冷遇されたのに、帰国する時にもわざわざ衛を通るのは不自然に思えます。
 
話を戻します。
曹共公は重耳が駢脅(肋骨が繋がっているという異相)だと聞いていたため、裸の姿を見たいと思いました。そこで重耳が沐浴をしている時に薄い簾を設けてその隙間から覗き見ました。
僖負羈の妻が僖負羈に言いました「晋の公子の従者は全て国の相になってもおかしくない人材です。彼等が助ければ,公子は必ず帰国できるでしょう。貴国したら諸侯の間で志を得ることができ、志を得たら無礼な者を誅伐するはずです。曹は誅伐の筆頭になるでしょう。あなたは主公(曹共公)と異なる態度をとり、早く公子を厚く遇するべきです。」
僖負羈は重耳に御馳走を贈り、その中に璧玉を隠しました。重耳は食物を受け取り、璧玉は返しました。
 
重耳一行が宋に入りました。当時の宋は楚に大敗したばかりだったため(泓の戦い。東周襄王十五年、前638年)、襄公は晋の援けを必要としていました。そこで襄公は重耳を厚遇し、馬二十乗を贈りました。
 
重耳が鄭に入りましたが、鄭文公も無礼でした。叔詹が諫めて言いました「天が称賛する者に対して、人は逆らえないものです。晋公子に見られる三点を見ると、天が彼を国君に立てようとしていることが分かるので、主君は公子を礼遇するべきです。男女が同姓だとその子孫は繁栄しないといいます。しかし晋公子は姫氏(重耳の母は大戎狐姫の子で、晋と同じ姫姓です)が産んだのに、今に至るまで生きています。これが一つ目です。公子は国外で難を受けていますが、晋国内もまだ安定していません。天が公子を助けようとしているからでしょう。これが二つ目です。公子に従う三士(趙衰・狐偃・賈佗)は人の上に立つことができる人材ですが、公子に従って流亡しています。これが三つ目です。晋と鄭は対等の国です。その子弟が国を通ったら礼を用いるべきです。天が彼を助けているのならなおさらです。」
文公は諫言を聞き入れませんでした。
 
重耳が楚に入ると、楚成王は宴を開いてもてなしました。成王が言いました「公子が晋国に帰ることができたら、どうやって報いるつもりだ?」
重耳が言いました「子女(男女の奴隷)も玉帛も貴国は全て持っています。羽(鳥羽)・毛(獣皮)・歯象牙・革(犀皮)は貴国の地で生産しており、晋国に来るのは貴国で余った物です。どうやって報いることができるでしょう。」
成王が言いました「そうだとしても、何かで報いることができるであろう。」
重耳が答えました「もしも貴君の威霊によって晋国に帰ることができたら、晋・楚が治兵して(兵を訓練して)中原で遭遇した時(晋と楚が戦う時)、貴君を三舎(一舎は一日に行軍する距離で三十里。三舎は九十里)避けましょう(九十里撤退しましょう)。その時、もしも貴君の命(楚成王が自軍に出す撤退の命令)を聞くことができなかったら、私は左手に鞭と弓を持ち、右手に弓矢の袋を持って貴君とやり合うことになるでしょう。」
子玉が重耳の無礼を怒って殺そうとしましたが、成王が言いました「晋公子は志が大きく倹約で、文辞に優れて礼もある。また、その従者は厳粛かつ寛大で、忠心を持ち能力もある。逆に今の晋侯(恵公)は親しい者がなく、内外から嫌われている。姫姓は唐叔の子孫でありながら、その後、衰退した。これは亡命した晋公子を国に帰らせるためではないか。天が興隆させようというのに、誰が廃することができるのだ。天に逆らったら大咎があるだろう。」
 
この頃、人質として秦にいた晋恵公の太子・圉が逃げ帰りました。秦穆公は楚に使者を送って重耳を招きます。楚成王は重耳を秦に送りました。
 
秦穆公は五人の女子を重耳に嫁がせました。かつて晋恵公の太子・圉に嫁いだ懐嬴もその中にいます。
重耳が手を洗う時、懐嬴が水をいれた盥(たらい)を持って傍に立ちました。新郎が新室に入った時、新婦が盥を持って仕えるのは婚姻の礼の一つでした。本来は手を洗った新郎が新婦の用意した手巾で手を拭くものですが、重耳は懐嬴を無視し、手を振って水をきります。懐嬴が怒って言いました「秦と晋は対等な国です。私を軽視するのはなぜですか(秦国を軽視するのですか)!」
重耳は驚き恐れ、上衣を脱いで謝罪しました。
こうして懐嬴と重耳が結婚しました。懐嬴の「懐」は晋懐公(太子・圉)諡号です。重耳(文公)に嫁いでからは「辰嬴」といいます。「辰」は諡号のようです。
 
後日、秦穆公が重耳を宴に招きました。狐偃が重耳に言いました「私の文才は趙衰に及びません。趙衰を従わせてください。」
宴席で重耳が『河水』を賦すと、穆公は『六月』を賦しました。
趙衰が言いました「重耳は拝して受け入れるべきです。」
重耳は席から下りて拝し、稽首しました。穆公が一段降りて止めようとすると、趙衰が言いました「貴君が天子を補佐する命を重耳に与えました。重耳が拝さないわけにはいきません。」
 
『河水』『六月』の詩を始め、重耳の亡命生活は『国語・晋語四』に詳しく書かれているので、別の場所で紹介します。

十二月、晋の大夫・欒郤等は重耳が秦にいると知って秘かに帰国を勧めました。晋国内で内応を約束する者が増えていきます。
翌年正月、秦穆公が重耳を晋に帰国させます。
 
 
 
次回に続きます。