周の宗法制度

『春秋史話』(王貴民・応永深・楊昇南。中国国際広播出版社)から西周時代に完成された宗法制度について紹介します(完訳ではなく一部変更・省略します)
 
宗法制度は血縁関係を基礎とし、権力と財産を分配するために作られた制度です。商代には既に存在しており、西周王朝がそれを継承・発展させて完成したものにしました。
 
周代の宗法制度の特徴は分封制と密接な関係があることで、その根幹にあるのは天子の嫡長子(正妻が産んだ長子)による世襲です。嫡長子は代々天子になり、始祖の祭祀を行う権利を持ちました。これを「大宗」といいます。
嫡長子の兄弟(正妻が産んだ次子以降の子および妾が産んだ子)は余子とよばれ、諸侯に封じられたり卿大夫に任命されました。天子(大宗)に対して「小宗」といいます。
諸侯の国内では諸侯の嫡長子が代々跡を継ぎました。嫡長子は天子に対しては「小宗」ですが、諸侯の国内では「大宗」になります。諸侯の嫡長子の兄弟はその国内で卿大夫に任命されました。諸侯の嫡長子に対して「小宗」になります。
卿大夫には封地があり、嫡長子によって世襲されました。封地においては卿大夫の嫡長子が族内の「大宗」となり、それ以外の子は別に家を作り、卿大夫の嫡長子に対して「小宗」になります。
嫡長子は「宗子」といい、権力と財産を法的に継承する権利を持ち、宗廟の祭祀を主宰し、最も尊ばれる立場にいました。また、「大宗(宗子。嫡長子)」の権利は後世代々永遠に守られることが約束されていたため、「百世不遷(百世経っても変わらない)」の宗と称されました。
逆に「小宗」は五代目になると大宗との関係がなくなり、始祖を祭る権利を失いました。これを「親尽」といい、「小宗」は「五世則遷(五世で遷る。五世で関係が変わる)」の宗と称されました。
 
要約すると、宗法制度というのは嫡長子が父の位を継いで大宗となり、余子は別の家を立てて小宗になる制度です。大宗は小宗を統括し、小宗は大宗を尊びます。
宗法は血縁の遠近・親疎を基礎とし、同族間の政治的地位や財産の分配における争奪を防いで、各自の地位・立場を安定させることを目的としました。誰が父の地位と財産を継承するかは産まれる前から決まっており、能力や品徳は二の次とされた制度ともいえます。
 
大宗と小宗の関係を図示します。
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大宗と小宗の関係が権力と財産の分配という基礎の上に成り立っていたため、小宗が財富を得て発展すると、大宗に対して政治的要求を出すようになりました。やがて小宗に中から大宗の地位を乗っ取る者も現れます。これが西周末から春秋時代の各国内部の闘争です。
 
西周王は天下の大宗ですが、最も早い段階で闘争が始まりました。
西周幽王が嫡長子・宜臼を廃して寵愛する褒姒が産んだ伯服を太子に立てたことから、西周の滅亡を招いて平王が東遷しました。春秋時代の始まりです。
その後も王子克、王子頽、王子帯等が余子の身分を越えて王位を狙い、周室に大乱を起こして天子の権威を失墜させていくことになります。その結果、強大になった諸侯は大宗である天子を尊崇することがなくなり、戦国時代には中原の各国が王を名乗るようになりました。
 
諸侯国でも同じような権力闘争が頻繁に繰り返されました。
魯国は諸侯の中で最も周礼を尊重していた国ですが、春秋時代初期に隠公が弟に殺されるという事件が起きました。弟は即位して桓公とよばれる国君になります。
荘公の時代になると、桓公の三人の子である慶父、叔牙、季友が大きな権力を握りました。荘公の死後、慶父が太子を殺して庶子を即位させます。閔公です。しかし閔公も慶父に殺されました。最後は慶父が魯人に殺され、季友が荘公の庶子を擁立します。しかし慶父の子孫はその後も権勢を保ちました。
慶父、叔牙、季友の子孫は孟孫氏、叔孫氏、季孫氏を名乗り、魯で専横して「三桓」とよばれるようになります。
 
晋国では六十余年にわたる内乱によって曲沃の小宗が晋都の大宗を乗っ取りました。始めは周王室も曲沃の越権を認めませんでしたが、曲沃の貴族から贈られた礼物を受け取ると、曲沃を正式に諸侯に封じました。この出来事は周王室自らが宗法制度を堅持できなくなっていることを暴露してしまいました。
その後も献公の晩年に太子を自殺に追い込んだことから後継者争いが続き、文公の即位によってやっと収束します。
 
衛も内争が多い国です。荘公の妾が産んだ州吁が国君の桓公を殺したり、宣公が太子・汲を殺したことから内乱を招いたり、霊公の太子・蒯聵が出奔したため、霊公の死後に即位した出公・輒(蒯聵の子)と蒯聵による父子の争いが続くなど、宗法を無視した地位争いが繰り返されます。
 
斉・荘・鄭・秦・楚等の国々でも類似の事件は発生しており、春秋時代を通して数十の国君が殺されるか他国に亡命することになりました。
 
 
官吏制度も宗法制度と深い関係があります。
宗法によれば、天子の余子は諸侯か卿・大夫に、諸侯の余子は卿か大夫に、卿の余子は大夫か士に、大夫の余子は士になります。卿・大夫・士は貴族に属し、王室でも諸侯国でも各階級の官吏はこれらの貴族が勤めました。つまり官吏は全て等級に差がある血縁関係者ということになります。
また、通常は各等級の嫡長子が祖父や父の職を受け継ぎました。これを「世官制」といいます。
 
春秋時代初期は等級による世官制が継続して行われましたが、宗法制度の動揺によって等級制が覆され、世官制も守られなくなっていきました。
小宗が大宗から権力を奪う時、小宗は宗法に頼った旧制度の力ではなく、新しい制度による新しい秩序と力を必要としました。これが血縁関係による官員制度を打破し、能力がある者、自分を支持する者が政治の世界に抜擢される原因となりました。その結果、官吏制度において三つの大きな変化が現れます。
 
一、地位が低い者や血縁関係にない者も政治の中心に入るようになりました。
斉ではかつて商業を行っていた管仲や鮑叔牙が政治を行い、桓公を助けて諸侯に覇を称えました。
孔子も貴族の血が流れているとはいえ低い地位から仕官しました。しかしその能力によって一時は魯の司寇を勤めます。
このような状況は西周時代にはなかったことです。
 
二、各国で人材が流動するようになりました。
西周の宗法制度では、官吏は自国の宗室に属する者だけが登用されました。しかし春秋時代になると、本国の貴族以外の者も重職に抜擢されるようになります。
例えば秦穆公時代の朝廷には、蹇叔、百里奚、孟明視、由余等、秦出身ではない人材が集まりました。
中原の覇権を競った晋・楚の両大国もそれぞれが相手の国から来た人材を用いました。晋の伯州犂は楚に仕え、楚出身の析公、雍子、申公巫臣、苗賁皇等は晋で大夫の位を与えられています。
「楚材晋用(楚の人材を晋が用いる)」という言葉がありますが、楚と晋だけでなく他の諸侯でも普遍的に起きていたことです。
 
諸侯の公室が異国の人材を用いただけでなく、卿や大夫の家臣も本国以外の人材を用いるようになりました。
例えば魯の陽虎は季孫氏の家臣でしたが、晋に出奔して趙氏の家臣になりました。
孔子の弟子・子路も魯の季孫氏に仕えていましたが、後に衛の孔氏の家臣になりました。
斉の鮑国も魯に遷って施氏の家臣になりました。
 
三、俸禄制度に変化が現れました。
西周から春秋前期の官吏は田邑を俸禄としました。「公食貢,大夫食邑,士食田(国君は貢物を収入とし、卿大夫は邑の収穫を収入とし、士は田地の収穫を収入とする)」という言葉が『国語・晋語四』にあります。
しかし春秋時代後期になると下層貴族が増えて土地を分配できなくなりました。また、国によっては新たに得た土地を臣下の食邑とせず、国が直轄する県を置きました。人口は増えるのに土地は増えないため、土地や民を下賜する俸禄制度が成り立たなくなります。そこで普及し始めたのが穀禄制です。
孔子が衛に行った時、衛霊公が孔子に魯国にいた時の俸禄を問い、孔子は「粟六万」と答えました。霊公は孔子のために官職を用意し、魯と同じ粟六万を与えることを約束します。ここからも春秋時代後期には各国で穀物を俸禄にする制度が取り入れられていたことが分かります。
 
官吏の登用が等級や出身国にこだわらなくなったため、宗法制度による官吏制度は崩壊し、才能がある者にその力を発揮する機会が与えられるようになりました。これは社会を大きく発展させる原動力を生みます。春秋時代を過ぎて戦国時代になると更に様々な階級からいろいろな人材が登場するようになり、中国最初の大帝国・秦の統一に繋がっていきます。
また、穀禄制の普及は官吏から土地や民を擁して割拠する物理的条件を奪いました。それまでの官員(貴族)は宗法制度による血縁関係によって官位・土地・民の所有が約束されていましたが、官吏制度の変革と穀禄制の普及によって、能力があって任を与えられた者が官となり、罷免されたら民になるという新しい秩序が生まれます。官吏の任免権は国君が持っているので、官吏制度の変化は中央集権制度の確立を可能にしました。秦が皇帝を頂点にした中央集権制度を実現できたのは、ここに起を発します。